悪魔のくせに、その程度なの?
カントルーヴ家の母屋の裏手には、一族が神殿と呼んでいる、母屋より少し小さい平屋の建物がある。四方の壁が、正確に東西南北に配置された正方形のその建物は、全ての窓に、隙間のない鎧戸が取り付けられており、内部のがらんとした空間は昼間でも闇に閉ざされている。濃い灰色の石の床には、白い小石を埋め込んだ、同心の大きな二重円環が描かれている。建物の中も外も、異様としか言いようのない独特の造りだ。
八本の蝋燭の炎の色が、ロラが纏う白いローブにゆらゆらと映っている。彼女の周囲には、白い石の二重円環や、ろう石で描かれた文字や記号、図形などがぼんやりと浮かび上がっていた。
儀式の準備を手伝っていたドロテは、ついさっき退出した。
悪魔を祓う祓魔術は、極度に気力と体力を消耗するため、高齢の長は、四年前、若いロラにこの役目を下ろし、一線から退いた。それ以来、ロラが儀式を一手に担っている。
「そろそろね」
エヴィリエ伯領はさほど広くない。そろそろ、城に向かった兄たちが戻ってきてもおかしくなかった。
どうか、儀式などしなくても済みますように……。
ジェレミーの身を案じて、祈りを捧げていると、嫌な気配を微かに感じた。それはゆっくりと、こちらに近づいてくる。徐々にその邪悪な気配を強めながら——。
「やっぱり、取り憑いていたのは悪魔だったのね……」
落胆しがらも、目を閉じて、悪魔の気配を探っていく。今、その気配は、屋敷が建つ丘の上に向かって移動してきている。程なく到着するはずだ。
悪魔としては、かなり下級ね。なんだかひどく不安定な気がするけど……。
敵をそう推測したとき、それまで馬車の速度で近づいてきていた悪魔の気配が、突然、ぐんと速度を上げた。
なに? これ——!
思わず立ち上がった次の瞬間、間近に凶悪な気配が膨れ上がった。場所はおそらく、家族たちが待機している食堂だ。
まさか、デューに引き寄せられた?
あれだけ大きな霊媒力を持つ彼だ。悪魔をも引き寄せてしまっても不思議はない。
「デュー。みんな……!」
あの場所に、魔術師は半人前のレミしかいない。ドロテは悪魔の気配を感じ取ったときに、門まで迎えに出たはずだ。老いた身体ではすぐには戻れない。
ロラは慌てて神殿を飛び出すと、母屋の裏口から中に入った。
その頃になるとなぜか、先程までの悪魔の凶悪な気配は、萎縮したように小さくなっていた。
一体、何が起きているの?
ロラは廊下を駆け抜け、食堂の扉を開け放った。
「大丈夫? 何があった……レミっ!」
すぐ足元に、額から血を流したレミがうずくまっていた。他の人々は、部屋の隅で頭を抱え、抱き合い、椅子の背を盾代わりにするなどして、必死に身を守っている。
窓ガラスは全て割れ落ち、テーブルや椅子が倒され、室内にあった様々なものが床に散乱している。どれほどの力で暴れたのか、あまりにも酷い状態だった。
そして、部屋の中央には——。
「デュー! あなた……!」
その声で、ゆっくり振り返ったデューの左肩に、子犬ほどの大きさの黒い影がしがみついていた。頭は大きな嘴の鳥、胴体と足と長い尾は犬、腕から指先までは人、そして背中に黒い蝙蝠の羽。全身真っ黒だが、丸い目だけが血の色に染まっている。
ロラの存在に気付いた悪魔が、びくりと怯えたように身体を震わせると、鴉に似たしわがれた鳴き声を上げた。同時に、それまで不気味に静まり返っていた部屋がぎしぎしと軋み、散乱したガラスの破片や、家財道具が震え始める。その敵意はすべて、大きな脅威である魔術師、ロラに向けられていた。
しかしロラは、腕を組んで余裕の笑みを見せる。
「なぁに? 悪魔のくせに、その程度なの?」
皮肉を込めた言葉だが、本心だった。理由は分からないが、今、自分に向けられている力は、神殿で感じたものより遥かに小さい。これなら、縄などなくても捕縛できる。
悪魔を睨みつけ、足を前に踏み出すと、相手は威嚇するかのように羽を広げた。
建物の振動が更に大きくなる。
「やめろっ!」
しかし、デューの叫び声で、その振動はぱたりと止んだ。
「ぎゃ……ぎゃぎゃ……ぎゃ……」
彼の肩にしがみついていた悪魔が、苦しそうなうめき声を上げた。抵抗しようとしているのか、子どものような両手が彼の首にかかる。黒い嘴が噛み付かんとばかりに、大きく開く。しかしその後、悪魔は力つきたように、ぼとりと彼の足元に落ちた。
デューはすかさず、その黒い姿を足で踏みつけた。
ちょうどその時、中庭側の裏口の扉が音を立てて開いた。飛び込んできたのはドロテ他、エヴィリエ城に行っていた三人の魔術師達。彼らも、あまりの惨状に息を飲んだ。そして、悪魔に取り憑かれながらも、その悪魔を踏みつけにする、デューの姿に目を見張る。
「悪魔の……器……?」
その場にいた魔術師全員が呆然と口にしたのは、同じ言葉だった。
悪魔の器——。
目の前の状況は、この家の誰もが、一族の長から飽きるほど聞かされた話に、よく似ていた。あれは、ドロテの作り話ではなかったのか——。
そんな中、足元の悪魔を睨んでいたデューが、突然我に返ったように顔を上げた。
「ロ……ラ。僕は……」
助けを求めるような瞳を向けられ、ロラもはっとする。
「デュー」
「だめだ! 来ちゃいけない」
ロラが一歩前に出ると、彼が右手を前に出して必死に制止しようとする。それにも構わず、小走りで駆け寄ると彼のその手を強く握った。
「大丈夫よ。その悪魔はあなたの力で押さえ込まれてる。そのまま、気を緩めないで」
真剣な顔でそう告げると、彼の腕を抱きかかえるようにして、強引に歩き出す。
「待ってくれ。悪魔が……」
「その悪魔はデューに取り憑いているの。だから、あなたについてくる」
その言葉通り、彼が歩くと悪魔は苦しそうな唸り声を上げながら、縄で繋がれているかのように、床の上を引きずられていく。
通常は、悪魔憑きに遭った人物を悪魔もろとも捕縛の縄でがんじがらめにし、神殿に運び込む。宿主に引きずられていく悪魔など、ドロテですら見たことがなかった。
「今から、悪魔祓いの儀式を執り行う」
神殿の扉の前でロラが宣言すると、兄と父親のマルクが、両開きの扉を左右に開いた。




