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僕と狼の日常  作者: ゆり
3/7

2

 体調が良くなるにつれて、僕の周りにある物が壊れるようになっていった。全快すると、僕の部屋、それに僕が歩いた廊下などの壁・床・天井に亀裂が入り、窓ガラスや照明器具も音を立てて壊れていく。

 廊下をすれ違うメイドが次々と、傷だらけになる。すぐ隣を歩くマットは、何ともないのに。むしろ、いつもより元気だ。

 そういえば、あちらの世界で着ていた服はすぐにボロボロに破けてしまい、全て処分した。

何がどうなっているのか、分からなくて不安が募るばかりだった。

 しかし、僕のそんな不安もマットにとっては楽しいことのようで「エリックってさ、歩く破壊兵器だよね。次は、何を壊してくれるの」と、クスクス笑いながら聞いてくる。この言葉には、とても腹が立ち、思いっきり顔を殴ってやった。すると、マットも反撃をしてくるので、そのうちに取っ組み合いの大喧嘩になってしまった。

 殴る蹴るの喧嘩は、次第に野生の獣が争うように牙を剥き爪を立てる喧嘩へと変わっていった。

 屋敷の狼人間の使用人たちが、僕たちの喧嘩を止めようと色々と奮闘していたようだが、僕たちにとっては羽虫が飛んでいるようなものだった。

 僕たちは、どうやったら怒りを納められるのか忘れてしまったかのようだった。

 近くで、父さんとグスターの声が聞こえた。二人は、喧嘩を止める気は全くないらしく、それぞれの息子を大声で応援している。

 その父親たちの応援の声が急に聞こえなくなったかと思うと、僕たちを取り巻く空気が音を立てて振動し、鋭い凶器となり一気に僕たちに襲いかかってきた。

 僕たちは、避ける事も出来ずに床に串刺しにされてしまった。

僕たちの喧嘩は終わった。

 辺りの壁や天井が壊れモウモウと粉塵を巻き上げている。

 僕たちは、肩でハアハアと息をしていた。血まみれの体は、串刺しにされている部分に痺れるような痛みがあり、ピクリとも動く事ができなかった。

 粉塵が落ち着くと、僕は腫れ上がった両目をやっと開き辺りを見回した。

 マットも、僕と同じように血だらけで床に串刺しにされていた。僕と目が合うと、腫れ上がった顔を歪ませた。笑っているようだ。こんな時でも笑えるマットが羨ましい。きっと、この後、とんでもないお説教が待っているだろうに……。

 喧嘩を止めようとしていた狼人間たちも、僕たちを応援していた父さんたちの姿も、なかった。

 父さんたち、逃げたな。

 コツコツコツ。

 怒っていますと言いたげな靴音が、僕たちに近づいて来た。その人物たちは、瞳をギラつかせ牙を剥き、腕組みをして僕たちをあざ笑うかのように見下ろして来た。

「あなたたちは、ここで何をしているのかしら?」

 真っ黒なオーラを背負った母さんが、声を掛けて来た。

「いや、これは、なんと言いますか……、ねえ、マット」

 僕は、母さんと目を合わせていられなくて、マットに話を振った。

「え? あ、これは、その……、えっと……、し、親睦を深めると言うか……」

 ボコッ!

 マットの言葉を遮るように、クララの拳骨がマットの頭に命中し、マットの襟首を掴んで、米神に青筋を立てて怒鳴り始めた。

「何が、親睦よ。周りの者にも怪我させるわ、お屋敷はメチャクチャにするわ、何を考えているの!」

 母さんは、僕の傍にしゃがみ、僕と目があうように両手で固定した。

「そうよ。あなたたちは桁外れの力を持っているのよ。その力を無闇矢鱈と撒き散らしていいと思っているの?」

「そんな事言ったって……、僕がどんな力を持っているかなんて知らないよ!」

 僕は、母さんを睨みつけるように言葉を吐き出した。

「僕も知らな~い」

 ボコッ!

 また、マットの頭にクララの拳骨が命中した。

 母さんは、一つ大きな溜息を付くと話し出した。

「いい、よく聞きなさい。もしも、今この場所に人間がいたらどうなっていたと思う? 怪我だけじゃすまないのよ。命を亡くす事になるの。それでも、あなたたちはほんの些細な事で大喧嘩をして桁外れな力を撒き散らすの? それにね、ここが屋敷の中だからこれだけの被害で済んでいるのよ。もしも、外だったら地形が変形しみんなが住める土地ではなくなっていたわ。それでも、あなたたちは喧嘩がしたい? あなたたちは、この国の人たちを守るために生れて来たのよ。守るべき人々の命を奪うような事でどうするの? エリックが力のコントロールが出来なくて不安がっていたのは知っているわ。だから、……だから、エドガーに『頼んだ事を急いで』とお願いしていたのに……、あの人ったら……」

 怒りの矛先が、僕からそれていった。ホッと一安心したものの、今度は母さんからの怒りの力が針のように僕をチクチクと差し出した。

「母さん、母さん、落ち着いて!」

「これが落ち着いていられますか! あの人は、私が頼んだ事はそっちのけであなたたちの喧嘩の応援をしていたのよ! 絶対に許さないわ。私は、クララを連れてこの家を出る事にします。エリック、短い間だったけれどあなたに会えて嬉しかったわ。またいつか、会いましょうね」

 母さんは、怒ったり泣いたり色々な表情を浮かべそれだけを一方的に言うと、立ち上がりクララを連れて歩き出した。

 僕とマットは、まだ床に串刺しにされたままだ。

「母さん、母さん、これはずしてよ。母さん」 

 そこへ、真っ青な顔の父さんがいきなり現れた。

「ナナ、ナナ、私を置いて行くのかい? 私を一人にするのかい? 一生傍にいてくれると約束してくれたじゃないか。ナナ、行かないでおくれ」

「いいえ、行きます。あの約束はなかった事にして下さい。グスター、クララは私が預ります。それでは、みなさんお元気で」

「ナナ、待ってくれ。ナナに頼まれた事はちゃんとやってあるよ。それに、子供たちの声援をしたのは、どれくらいの力を出せるのか確かめたかったんだ。正確な力の大きさが分からなければ、君に頼まれていた事が正確に出来ないだろう? そんなに、怒らないで。ね、愛しているから」

 父さんの縋るような訴えに、母さんの怒りがおさまっていった。

「本当に? 本当に、そうなの?」

「もちろんだよ。そうしないと、屋敷がもっと酷いことになってしまうだろう。今の二人の喧嘩だって、被害は最小限に収まったと思うんだ。一応、二人の半径五メートルはシールドを張ったから。ナナ、機嫌を直してくれるかい?」

「そうね。ごめんなさい。やっぱり私、あなたの傍を離れるのやめるわ。……こんな私でも愛している?」

「もちろん、愛しているよ。向こうで、お茶でも飲もうか? クララ、お茶を入れてくれるかい? グスターは後の事よろしく頼むよ」

 父さんは、母さんの肩を抱いて、聞いているほうが恥ずかしくなるような言葉を、母さんに囁きながら去って言った。

 クララは、大きな溜息を一つ付くと二人の後を追った。

「あの二人、いい加減にして欲しいよ。毎日毎日、よく恥ずかしくないよな」

 僕は、呆れながらそう呟いた。

「でもさ、あの二人がああだから、この国は平和なんだと僕は思うよ。エリックも、大人なったら、エドガー様みたいになるのかな?」

 マットは、僕をからかうようにクスクスと笑い出した。

「笑うな! 絶対ならないぞ。息子が見ていて恥ずかしいと思うような大人には絶対、ならないからな!」

 僕は、力いっぱいお腹に力を入れて吠えた。

「エリック様、恐れながら申し上げます。エドガー様もエリック様くらいのお歳の時に同じよう事をおっしゃっていました」

 グスターは、笑いをかみ殺しながらそう言い、僕たちの体を床から剥がしてくれた。

「グスター、お前も僕を笑うの? マットのクスクス笑いは、グスターに似たんだね。親子揃って嫌な奴だな。僕は絶対にならないと言ったら、ならないの!」

「エリック様が、そうおっしゃるのなら、そういうことにしておきましょう。では、これから私たちが用意した部屋に行きましょう。その部屋でなら、思いっきり喧嘩も出来ますよ」

「喧嘩は、もういいよ。母さんに叱られたし……。でもね、グスター、母さんには内緒だけど、ずっと、不安で押しつぶされそうになっていたから、マットと喧嘩が出来てとてもすっきりした気分なんだ。すっきりしたからって、不安の種はなくならないけれど……」

「今からいく部屋なら、その不安が解消できますよ」

「えっ! 本当! どんな部屋なの?」

「それは、行ってからのお楽しみです」

 グスターは、屋敷の奥へと歩き出した。

 


 そこは、廊下の突き当たり。普段は、鍵が掛けられ誰も出入りしていない。

 グスターは、そのドアの鍵を開け腕に力を入れて両開きのドアを押し開けた。

 グスターが力を入れなければ開かないほど重いドアなんて凄い。

 部屋は、分厚いガラスで中央から仕切られていた。窓はなく、照明器具は壁に埋め込まれ分厚いガラスで塞がれている。それぞれの空間の奥には、小振りのドアが一つ見える。

「右側がエリック様の部屋です。この部屋では、エリック様から出た力は壁に跳ね返され、戻って来てしまいます。上手に力のコントロールをしないと、ご自分の力で傷だらけになってしまいます。その傷は、マットにも反映されます。左側の部屋はマットの部屋。この部屋は、お前がエリック様から無意識に吸収しているエリック様の力を徐々に吸い取ってしまう。この部屋の広さだと、何もしなくても今まで蓄積してきた力は五日でなくなるだろう。エリック様が多く傷付けばその分お前の体力は減っていく。お前の怪我がすぐ治るのは、エリック様からの力のおかげだ。その力が遮断されたら、傷の治りは普通の人間と同じ。そして体力がなくなるとお前の体はピクリとも動かなくなる。もちろん、意識もなくなり、下手をすると、命もなくなる」

「ちょっと、父さん、僕を殺す気なの?」

 マットは、慌ててグスターに問いかけた。

「お前はエリック様の狼だ。だから、お前の命を私がどうこうすることは出来ないよ。それを、どうこうできるのはこの世でエリック様ただお一人」

 グスターは、何か含むような笑みを僕に向けた。僕は、頭の中が混乱してきた。そんな当惑した僕の顔をじっと見ながらグスターは話を続けた。

「それぞれの、部屋の奥にはトイレとシャワールームがあります。その部屋も、この空間と同じ仕組みです。食事は一切運びません。次に私がこの部屋を訪れる時まで、このドアは開きません。何処にも逃げ場はありません。二人がどうこの数日を乗りきるかで、今後の運命も変わります。生きてここから出るか、あるいは、二人とも命を落とすか……。それは、エリック様しだいです。エリック様、マットをよろしくお願いします」

 カチャン

 小さな鍵がかかる音がして、僕たちはそれぞれの部屋に閉じ込められた。

 僕は、体中に刺すような痛みを感じていた。アッという間に、顔や手にはいくつもの切り傷が出来た。

 マットにも僕と同じように切り傷が出来ている。そして、肩で息をしている。

――マット、マット、大丈夫?

 心の中で呼びかけても、僕の声が届かないのかマットからの返事はなかった。

 どうしたらいい? どうしたら……。

 僕は、パニックになりながらも考えを巡らせた。

 何もしなくても、五日でマットの体力は限界を向かえる。その前……、四日……、いや、三日で何とかしよう。

 まずは、僕が怪我をしないこと。そのためには、自分の力を自分の中に押し込むこと。これを半日から長くても一日でマスターしよう。

 そして、それが出来たら、マットに僕の力を届ける方法を探そう。絶対に何かあるはずだ。マットを失うわけにはいかない。

 僕は、部屋の中央で胡坐をかき目を閉じた。

 僕の耳に聞こえるのは、僕の心臓の音、それと僕の力が壁やガラス・天井を行き来しぶつかる音。僕は、力が勢いよく体から飛び出すのではなく、体の周りに留まるイメージを頭に思い描いた。すると、次第にヒュンヒュンと部屋中を飛び交っていた音が小さくなっていった。

 よし。意外と簡単じゃないか。これをキープ。

 しかし、キープするにはとてつもない集中力が必要だった。マットの事が気になり、ほんの少し目を開けたら、キープが崩れアッという間に力がヒュンヒュン飛び交い始めた。その度に、僕の体にその力が跳ね返りマットの体も傷つけた。

――マット、ごめん。

 僕は、マットに背を向けるように座りなおし、また集中しイメージを思い描いた。

キープを持続する方法を考えながらでは、やはり思うように出来ない。慣れるしかないのだろうか? 

そうだ! 僕の周りにシールドを張ったら、少しは考える時間が出来るかもしれない。

 しかし僕の考えは甘かった。僕の力は僕の力で相殺されてしまい、どうにもならない。仕方なく、先程の方法に切り替えた。

 何度も何度も失敗を繰り返し、ようやく思うようにキープ出来るようになったのは、この部屋に閉じ込められてから五時間が経っていた。

 マットは、体の傷が増えなくなった事を喜んでいるようだった。疲れているようだったが、笑顔を見せてくれた。

 これだけの事に時間がかかり過ぎたかもしれない。次の段階は、素早く習得しないと……。

 次は、僕の周りにキープした力を僕の中に押し込む。

 僕は、おにぎりを作るようにこの力を圧縮するイメージを思い描いた。どの位まで圧縮出来るものなのだろう。小さければ小さいほど、周りの人間に危害を加えることがなくなる。僕は、野球ボール位まで小さくしようと頑張った。

 僕の体より一回り小さくすることは、何の苦労もいらなかった。しかし、その後は苦戦した。僕の力は、意思を持っているかのように圧縮されるのを拒み反発してくる。僕が、躍起になればなるほど反発してくるように感じられた。

ここで気分を変えよう。

 僕は、シャワーを浴びる事にした。たくさん汗も掻いたし、体にも服にも血が付いている。

 小振りのドアを開けると、トイレとシャワールームが見えた。シャワールームの横には二段の棚があり、その下には大きめの籠が置いてあった。一番上の棚には、バスタオルが積んであり、下の棚には服が何着も積んであった。僕は、その下の籠に着ていた物を全て放り込み、シャワーを浴びた。

 シャワーを浴びていると、気が抜けてしまい僕の力が壁に当たり跳ね返って来た。

――マット、ごめん。

 僕は、心の中でまたマットに誤った。

 気を張りながらシャワーを浴び、新しい服に着替えると先程の場所に座り、続きを始めた。

 マットもシャワーを浴びてきたのか、新しい服を着て床に座り目を閉じた。マットの表情は少し疲れていた。しかしマットはマットで、自分の中から僕の力が奪われない為にはどうしたら良いのか、試行錯誤しているのかもしれない。僕も頑張らないと。マットを失うわけにはいかないから。

 この部屋に閉じ込められて、丸一日が経った。寝る間も惜しんで力のコントロールに励んだ甲斐あって僕はやっと、自分の力を野球ボール位に圧縮する事に成功した。因みに、壁やガラスに手を触れても、全く何ともない。

 僕は次の段階に進むべき頭を巡らせた。

 マットの疲労は目に見えるようになっていた。

マットは一日三食の食事をこの上なく楽しみにしていた。狼になると二百キロを超える体を維持する為には、食べなければ生きていけないからだ。そして、僕の力もマットの食事のような役目もしている。その両方を絶たれてしまったマットの空腹は計り知れない。少しでも早く、僕の力をマットに届ける事が出来たら、ほんの少しでもマットの空腹を癒す事が出来る。

 僕は、二つの部屋を隔てているガラスの前に座った。そして、ガラスに片手を付きそこからビー球位の大きに圧縮した力をほんの少し出してみた。しかし、ガラスはビクともしない。跳ね返ってきた力で僕の手は、焼け爛れたようになっていた。

 マットが傷みに顔を歪ませた。

――マット、ごめん。

 僕は、心の中でまたマットに誤った

 どうしたら、このガラスの向こうに力を入れる事が出来るのだろう。ただのガラスではないとしても、物質なのだから分子の集まりって事になるだろう。それならば、僕の力を分子レベルまで小さく細くしたらこのガラスを通り抜け向こうの部屋に入り込む事が出来る。分子の大きさは、物質によって様々だが、父さんたちが用意した物だ、強固にする為に普段は存在しないような圧力を掛けられて出来ているかもしれない。そうなると僕の力は相当小さく細くしなければならない。僕の出来うる力を駆使して絶対に向こうへ通してみせる。

――マット、待っていて!

 僕は、野球ボールを分解し糸をよるように細く細く力を変形させていった。これくらいかなと思うところでその力をガラスに当ててみた。すると、その分の力が跳ね返ってきた。まだまだのようだ。

それから、僕の根競べが始まった。

 跳ね返ってくる力は微々たるものだが、こう何度も跳ね返されるとイライラしてくる。イライラが募ると、野球ボール位にした僕の力がバスケットボール位の大きさに膨れ上がる。それをまた押さえ込み、地道な作業を続ける。頭の中のイメージはしっかりと描いているものの、実際にはなかなか上手く行かない。

 そうこうしているうちに、マットが床に倒れた。座っている事も出来ないくらい弱っているようだ。閉じ込められてから、二日半が経っていた。

――マット、マット、しっかりして! もうすぐ、もうすぐ、僕の力を分けてあげるから。

 マットの答えは返って来ない。僕は、いつの間にか涙を流していた。

 マットを失いたくない! 失いたくない! 失いたくない!

 


「……エリック、……僕の……傍に……来て……くれたんだね」

 マットの弱々しい声が僕の耳に届いた。

 僕は、いつの間にかマットを抱えて号泣していた。顔を上げると、僕の体はガラスの向こうに座り泣いている。僕は魂だけになってマットの傍に来てしまったようだ。

 こんな方法があったのか。

「マット、僕の力をあげるよ。すぐに元気になるからね」

 僕は、マットのお腹の上に両手を付いてバレーボール大の力を流し込んだ。マットの顔色は徐々に良くなっていき、冷たかった手も温かくなっていった。

 これで、マットの命は繋いだ。

 しかし、僕はどうやって戻ったら良いのだろう?

「マット、僕、どうやってここに来たのかな?」

「そんな事分からないよ。僕が気付いた時には、ここに居たんだから。ずっとここに居ればいいじゃないか」

「そうも行かないよ。だって、僕の体はガラスの向こうにあるんだもん」

「えっ!」

 マットは、僕が指をさすガラスの向こうを見ると、両目を大きく見開いた。

「本当だ! エリックが向こうにもいるよ。すごーい。ねえ、どうやったの? 教えて」

「だから、それを知りたいのは僕だよ。あまり長い時間体から離れていると、戻れなくなりそうだよね」

「そうだね。でも、向こうの体は意思を持って泣いているみたいだから、魂の残りがあるってことだよね。そうしたら、こちらから呼びかけてみたらどうかな? 僕たちが会話する時みたいに」

「ああ、そうだね。やってみる」

 僕は、一つ深呼吸をしてガラスの向こうの僕に呼びかけた。

――ねえ、もう泣かなくていいよ。マットは助かったよ。

 すると、ガラスの向こうの僕がゆっくりと顔を上げた。その表情は、マットを見ては喜び、僕を見ては驚いていた。

――なぜ、僕がそっちにいるの?

 ガラスの向こうから呼びかけられた。

――分からないんだよ。そっちに戻りたいんだ。どうにかしてよ。

――どうにかって言われても……。

 ガラスの向こうの僕も、魂だけの僕をじっと見詰め、考えはじめた。しかし、いくら考えても良い案が浮かばないのか、両者とも顔を歪めて唸っているだけで言葉が全く出てこなかった。

 そんな僕たちの様子に痺れを切らせたのか、マットが突拍子もないことを言い出した。

「ひょっとして、普通にガラスをすり抜けて来ただけじゃないの?」

「?」

「だってさ、エリックの体、なんだか変だよ。光にかざしてよく見てみなよ」

 僕は、半信半疑ながら片手を光にかざしてみた。

 まずは、掌を光に当てた。手のひらを通り抜けて僕の目に入って来た物は、魂だけならこんな物なのだろうというものだった。しかし、手のひらの向きを変え、小指側を光に向け親指が僕の方へ向くようにすると、僕の手は光を透かすどころか手自体が何も見えなくなっていた。

「えっ! どういうこと?」

「だから、ガラスを通りぬけられる分だけの魂が来ちゃったんじゃないの? 体もそうなっているよ。僕もこれやってみたいよ。ねえねえ、どんな感じ? 感覚はあるの? 体は軽いの? ねえねえ、教えてよ」

 マットは、また面白いものを見つけたようだ。興味津々の瞳をランランと輝かせている。いつものクスクス笑いのほうがまだましだ。

 どうやったら出来るのかと、しつこく聞いてくるマットに向かって一つ大きな溜息を付いて僕は立ち上がった。マットの予想が当たっているなら、このままガラスを通り抜けて体に戻ることができる。やってみる価値はあるだろう。

 僕は、ガラスの向こうにある僕の体の前に立ちガラスに右手を当てた。すると、僕の右手は何の抵抗も無くガラスの中へ吸い込まれるように入っていった。そして、ガラスの向こうにある体の中へ消えていった。体の中へ消えた右手を引いてみた。すると、何の抵抗もなくガラスを通り抜けてもとの形に維持された。

 僕は、体中の力が抜けるほどホッとした。これで体には戻れる。しかし、一度戻ってしまったら、またこちらに来られるかどうかは分からない。それに、グスターがいつこの部屋の鍵を開けてくれるかも分からない。分からないのなら、もう少しマットに僕の力を分けておいた方がいいのかもしれない。それとも、魂のままの今の僕自身がマットの体の中に入る事は出来るのだろうか? それが出来れば、あらゆる事態にも備えられるような気がする。しかしその場合、僕の体は大丈夫なのだろうか? マットの体への影響はどうだろう?

――ねえ、ガラスの向こうの僕、今の体調はどう?

――どうって、特に何ともないよ。どうして?

――あのさ、僕、このままマットの体に入ろうかと思うんだけど、どう思う?

――うーん。いい方法のように思えるけど、僕の意思までマットの中に入るのはどうかと思うよ。

――どうして?

――だってさ、僕がマットを支配しているって感じがするんだ。いくら体が維持できたとしても、マットは喜ばないと思うよ。

――そうだね。考えてみれば僕も嫌かも……。

――そうでしょ。だから、意思が混ざらない程度にマットの体の中に入れたらいいんじゃないかな。

――分かった。やってみる。

 僕は、マットに向き直り説明をした。

「分かった。僕の体の中には、エリックの力を蓄積しておける場所があるんだ。ちょうど、心臓の辺り。そこに入って。そうすれば、僕はその力を有効に使えるし、他の場所には何の影響も出ないから」

「でも、僕の意思と切り離す方法が分からないんだ……」

「それは、心配しなくても大丈夫だよ。僕の体はエリックには乗っ取れないから」

「え?」

「エリックは、まだ知らないかもしれないけれど、ヴァンパイアには他の生き物の体や心を乗っ取り、意のままに操る事が出来る力を持っているんだ。でも、僕たちホワイト狼が簡単にヴァンパイアに乗っ取られていたら大変な事になるでしょ。だから、エリックの意思でも僕の中には入って来られないんだ」

「そうなんだ。安心したよ。それじゃあ、始めるよ」

 僕は、マットの心臓の辺りになる蓄積場所を探し当てると、その場所に一気に力を注ぎ込んだ。その場所の体積はとても小さいが、底なし沼のように僕の力をドンドン吸収していった。全ての力が注ぎ込まれると、僕の意思は僕の体に自然に戻っていた。

 ガラス越しにマットを見ると、満面の笑顔で部屋の中を走り回っていた。

――マット、そんなに走っていたら、また体力なくなっちゃうよ。

――大丈夫。もう僕からエリックの力がなくなる事はないから。

――あれ? 僕の声聞こえるの?

――聞こえるよ。僕の体の中にエリックの一部があるから。これからは、こっそりエリックから力をもらわなくても済むね。

――こっそりってなに? なんか変な言い方だな。

――だって、本当にそうだったんだもん。あちらの世界に居る時。あの頃は、すぐにお腹が空いたよ。真夜中にならないと、エリックの力を分けてもらえなかったから。

――真夜中でも、僕はただの人間だっただろう?

――違うよ。真夜中になると、薬の力で押さえつけられなくなる程の力が溢れ出していたんだ。それを毎晩こっそりともらっていた。

――そんなの初耳だよ。

――そりゃそうだよ。僕しか知らない事だもん。それに、その時もらっていなかったら、僕は生育不良児だったと思うよ。普通の食事はなかなかお腹一杯にならないんだ。一杯食べようとすると、マリーに『食べすぎ!』って叩かれたよ。

――マットも色々苦労したんだね。

――そうだよ。エリックが知らないところで苦労の連続だったよ。

 僕たちは、その後他愛のないことを話しながら時間を過ごした。

 いつの間にか、僕の魂も簡単にガラスの壁を行ったり来たりすることが出来るようになった。そのおかげで、僕もお腹を満たす事が出来た。

 僕が直接血をもらうのはこの世でマット一人だけだ。

 こちらの世界に戻ってまだ寝たり起きたりしている時、早く元気になるからと父さんが僕に血を分けてくれようとした。すると、マットが父さんに向かって狼の姿で怒り出した。牙を剥き空気が振動するほどの低い威嚇の声をあげて。

 僕は、マットがこんなに怒るところを見たことがなかったので、目が点になるほど驚いた。マットを落ち着かせようとグスターが声を掛けると、今度はグスターにも威嚇し始めた。これには父さんもグスターも苦笑していた。

「分かったよ。マットのエリックだもんな。この役目はお前に譲るよ」

 父さんが、やれやれと言った表情で僕の傍から離れると、アッという間にマットの機嫌はよくなり、踊り出すのではないかと思わせるほどの軽やかな足取りで僕の傍に来ると、僕の血を飲めと首をさらした。

 そんな事があってから、父さんも母さんも僕に血を分けてあげようとは言わなくなってしまった。


 

 閉じ込められてから四日目。扉の鍵を開ける音が聞こえた。

 重い扉を開けて入って来たグスターの顔は安堵が滲み出ていた。

 グスターは、僕の前まで歩いて来ると何も言わずに深々と頭を下げた。その瞳には、光るものが見えたような気がした。

 その後、僕とマットはドクターの診察を受けた。

 様々な医療器具に繋がれ、様々な検査を受けた。どの検査も結果は異常なしと診断された。しかし、数日間の疲労が蓄積しているとの事で、食事を摂ったらベッドへ入るよう言い渡された。

 僕がベッドに入る支度をしていると、父さんがニコニコと僕の寝室に入って来た。

「お前にとってとても有意義な四日間だったようだね。検査結果も異常なしで、本当に安心したよ」

「そうだね。一次はどうなる事かと思ったけど、何とかなったね。ところで、何か用?」

 僕の何気ない言葉に父さんの表情が見るみる変わっていった。不味い事を言ってしまったようだ。

「何も用が無いと息子の顔も見に来てはいけないかい?」

 父さんは、始めて会った時のように拗ね出した。

 僕は、気付かれないように溜息を一つついた。全く、この親は……。

「そんな事は、ないよ。父さんは忙しそうだから、僕に構っている時間はあまりないでしょ」

「お前は優しい子だね。そんなに気遣ってくれるのかい? でも、今は大丈夫。私のたった一人の愛する息子が大きな試練を乗り越えたところなのだから、一緒に喜んであげないとね」

 この親は、気分の浮き沈みが極端なのかもしれない。さっきまで、ドヨンとした空気を背負っていたのに、もう今はたくさんの花を背負っているみたいだよ……。どうやったらこんなに変化できるのだろう。僕もこうなるの? 想像がつかない……。

「……ところでさ、父さんとグスターもあの部屋に入った事があるの?」

「もちろんあるよ。エリックと同じ位の歳の頃だったと思うよ。私だけじゃないよ。代々その位の年齢になると一度は入れられるんだよ。それが、この家のしきたりなんだ」

「しきたり?」

「そう、その子供の能力に合わせて壁やガラスの強度は多少変わるけれどね」

「あの中で死んでしまった狼はいるの?」

「いないよ。どの子も悪戦苦闘して自分の狼の命を守ってきた」

「他国でもしていることなの?」

「していないよ。こんな命がけの試練なんて、たった一人しかいない息子にさせる親はいないでしょ。でもね、その分狼との絆が一番強くなるんだ」

「じゃあ、僕とマットは今回の事で今まで以上に絆を深めたことになるんだね」

「そうだね。これで先日のように私に牙を剥く事は無くなりそうだね」

「どうしてあの時マットは怒っていたの? グスターにまで牙を剥いていたよね」

「あれはマットが焼もちを焼いたんだよ」

「焼きもち? どうして、そこで焼きもち焼くんだよ」

「どうしてって、お前はホワイト狼の事が分かってないみたいだね。ヴァンパイアの子供は授乳期が終わると歯が生え揃い自分の牙で血を飲むようになるんだ。我が家では代々、その血を与える役を親ではなく、レヴィン家が負ってきた。それは強制ではなく、自分の主の体は自分が作るという使命感からいつのまにかそうなったんだ。とても面倒見のいい優しい種族だね。だから、マットは私にエリックを取られてしまうと思ったんだよ」

「そうなの? 父さんには母さんがいるんだから、そんな心配全くないのに」

「でも彼らは本当に一途なんだ。彼らは主を守るためなら何でもする。主を害する者には躊躇いもなく牙を剥き命を奪うし、自分の命を投げ出す事にも何の躊躇いも持たない。これは、マットの意思というよりも本能だ」

「そんな事、絶対にさせないよ」

「そうだね。マットの心を守るのはお前の役目だからね。そういえば、お前は人型のマットから血をもらっているかい?」

「……もらっていないよ。人型はまだちょっと抵抗があって……」

 人型から血をもらう事が出来ない自分は、ヴァンパイアとしての自分を受け入れきれていないのだろう。父さんには、あまり知られたくない事だった。

「どうして?」

「……あちらの世界の……本の影響かな?」

「ああ、あちらでは悪者だもんね」

 もじもじ答える僕に、父さんは何も気にしていないといった表情で返してきた。

「エリックはまだ、この屋敷から出た事が無いから分からないと思うけれど、私はこの国の人たちから怖いと思われた事は一度もないよ。ヴァンパイアの力を使って抑えつけているわけでもないし、狼人間を使って虐げているわけでもない。それが出来る立場にいるけれどね。でも、そんな事をしなくてもこの国の人間たちはとても友好的に私たち種族を受け入れてくれる」

「どうして?」

「それはね、私たち種族は人間の母親から生れることを彼らはとても誇りに思っているんだよ。人間がいなければ、王は生れない。王が生れなければこの国は他国に滅ぼされてしまう。自分たちの暮らしの平穏を維持していく為には力の強い健康な王が必要なんだ。ヴァンパイアの健康を維持する為には、人の血が欠かせない。その事も彼らは良く知っている。だから、私が散歩に出掛けると『お腹は空いていないか』とか、『喉は渇いていないか』とか、声を掛けられる」

「父さんが、お腹が空いているって答えたら、彼らはどうするの?」

「もちろん血を提供してくれる。それが、彼らの役目だと思っているようだよ。そして、私の役目はそんな人たちの暮らしを守ること。これから、お前もB階級地区へ行く事が増えてくると思う。その時に、人間たちに声を掛けたれたらどうする? お前がそれを拒めばこの子は大丈夫なのかと心配されてしまうだろう。もし、それを受け入れたら今度はマットの機嫌が悪くなるだろう。マットはお前の体は自分が作るものだと思っているからね。ホワイト狼の嫉妬深さは半端じゃないから……。それを回避する為には、人型のマットの首からもらいなれている事が重要だ。そして人間に声を掛けられたら手首からほんの少しもらうんだ。首と手首の差を付けるだけで、ホワイト狼は焼もちを焼いたりする事は無くなる」

「ホワイト狼って、意外と面倒な奴だね」

「そうだね。マットは、お前が生きていく上で欠かせない存在だ。大事にしてあげなさい」

「うん、分かった」

 その後、ベッドに入ると疲れがどっと押し寄せてきて深い眠りについた。夢を見ることもない深い深い眠りだった。


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