31話。 覚悟の話。
ハルちゃんが満面の笑みを浮かべて嬉しそうにメノウに感謝し、元気に走り回る子犬を腕いっぱいに抱き上げ、愛おしそうにそのままギュッと胸に抱きしめる。
それを優しい眼差しで見つめるメノウの表情は、夕暮れ時の淡いオレンジ色の日差しに照らされて、まるで教会に描かれた絵画の聖女のように、美しく、そして温かく輝いていた。
「・・・・・。」
その微笑ましい奇跡の光景を、本人達以外の誰もが、全く異なる感情で見つめていた。
その重い沈黙は、教会からの帰り道の馬車の中でも、ずっと続いた。
メノウだけは
「自分にもやれることがあったっす!」
と晴れ晴れとした笑顔を浮かべていたが、俺とミモザは一言も発する事なく、馬車の窓から見える景色を見つめていた。
ふと、隣のシルヴィアを見ると、彼女も回復魔法の重複という異常性が腑に落ちないのか、神妙な面持ちで考え込んでいた。
もしかしたら、今日の夕食後に出る甘味の事を考えているのかもしれないが、真面目な彼女の事、その可能性は低いだろうな。
・・・ふぅ。
俺は心の中で深くため息を吐く。
しょうもない事でも考えて、気を紛らわせないと、これから確定で起きるであろうイベント前に、気が変になりそうなのだ。
馬車が教会の前に到着し、メノウが先に降りたその瞬間だった。
ミモザの姿をした老婆が、すれ違いざま、俺の耳元でカサついた声でボソリと囁いた。
「・・・・若旦那。
あんた、とんでもない禁忌に触れちまったねぇ。
明日の朝、教会のアタシの執務室へ来な。
とんずらここうなんて、悪い考えは起こさないことだ。
あんたの大切な商会、家族ごと、一瞬で灰にしてやるからねぇ。」
くしゃくしゃの笑顔の裏に、本物の脅迫を隠してミモザはゆっくりと馬車を降りていく。
その背中が見えなくなるまで、俺は息をすることすら忘れていた。
「・・っは!」
小さく吐き出した息が、冷たく凍りついているように思えた。
ミモザの言った家族という言葉が、頭の中で不快な警告音のようにリフレインする。
テオ、マーサ、セブリオン商会の仲間達。
俺がこの世界に転生し、ようやく手に入れた守りたいと思う大切な日常のすべてが、あの枯れ木のような老婆の一言で、いとも容易く燃え盛る炎の中に放り込まれてしまったのだ。
ドクン、ドクンと、耳の奥で心臓が早鐘を打つ。
一気に冷え切った指先が、感情を拒絶するように小刻みに震え始めた。
それを必死に抑え込もうと、膝の上で強く拳を握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走るが、そんな痛みすら現実感が無かった。
「リオ?
どうかした?」
シルヴィアが怪訝そうに俺の顔を覗き込んでくる。
その声にハッと我に返った俺は、顔を引きつらせないように、喉の奥にせり上がってくる絶望を強引に飲み込んだ。
おそらく今の俺の顔は、血の気が完全に引き、幽霊のように青ざめているはずだ。
だが、隣にいるシルヴィアを恐怖に巻き込むわけにはいかない。
俺は、強ばる顔の筋肉を無理やり動かし、なんでもない風を装って
「なんでも、ないですよ。」
と、ひどく掠れた声で微笑むのが精一杯だった。
その夜。
俺は迫り来る翌朝の恐怖と胃の痛みに耐えながら、自室で一人、書類を整理していた。
相手は国が極秘裏に派遣した七百年も生きた最高戦力、ハイ・エルフの筆頭監視官。一般人の俺からしたら、ただの化け物だ。
メノウ本人がパーティ加入を承認しようが、それは何の意味も無い。
すべては、あの化け物が裏で手綱を握っているのだ。
カサリ、と手に持った書類が音を立てる。
冷え切った指先は、さっきからまともに動いてくれなかった。
俺の言葉だけで、果たしてその怪物を切り崩せるのか。
戦えば、一瞬で塵にされる。
逃げても、家族、全てを失う。
俺に手持ちの武器は、目の前にある契約書と、前世から持ち込んだ知識、そしてレビュアーという職能。
「・・・・やるしかない、だろ。」
誰もいない薄暗い部屋で、俺は自分に言い聞かせるように、小さくそう呟いた。
その時だった。
「リオ、夜遅くに失礼します。」
パタンと静かにドアが開き、シルヴィアが盆に乗せた温かいミルクと、ミーシャが作ったパルミエの残りを持って現れた。
テーブルにそれを置くと、シルヴィアは机の椅子をグイッと引き寄せ、俺の前に置くと、ドカッと跨るように座り、笠木の部分に腕を置くと、そこに顎を置き俺の顔をじっと心配そうに見つめてきた。
「ありがとうございます、シルヴィア様。
わざわざ持ってきてくれたんですか?」
「ええ。
なんだか、あなたの部屋の明かりがずっと消えなかったから。」
ホットミルクの湯気が、ゆらゆらと立ち上る。
「今日の、メノウさん魔法、凄かったですね。」
「ええ。あれは驚いたわ。
回復魔法の常識が、あの子の前では全く意味を成さないなんて。」
そう言って、彼女は少だけ視線を落とした。
「でも、ミモザ様は、ひどく警戒しているようだったわ。
・・・リオ、あなたにも、私には話せない難しい事情があるのよね?」
ホットミルクの優しく甘い香りが満ちる部屋で、彼女の静かな声だけが響く。
その言葉には詮索するような鋭さはない。
ただ、俺が一人で抱え込んでいる重荷を、少しでも分けてほしいと願うような、不器用で温かい気遣いを感じた。
「シルヴィア様、申し訳ありません。
今はまだ、すべてをお話しするわけにはいかなくて。
でも、大丈夫ですから。」
「・・・そう。」
シルヴィアはそれ以上無理に聞き出そうとはせず、ふっと穏やかに微笑んだ。
「リオがそう言うんだったら、私はそれを信じる。
でも、あまり一人で抱え込みすぎないでね。
・・・私はあなたの隣にいますから。」
ホットミルクを一口、優雅に喉に流し込む彼女の横顔を、俺はただじっと見つめていた。
特別な約束をしたわけじゃない。
けれど、ただ静かに寄り添ってくれた彼女のおかげで、胃の痛みが、少しだけ和らいでいくのを感じた。
明日、何があっても、家族と仲間達を守り抜く。
その覚悟だけが、俺の胸の中に静かに灯っていた。
翌朝。
教会へと赴いた俺とシルヴィアは、案内されるがまま、ミモザの執務室へと通された。
そこは窓がなく、重厚な石造りに囲まれた、まるで地下の監獄のような部屋だった。
当然だが、そこにはメノウはいなかった。
「さぁさぁ、狭い部屋だけどね、どうぞ。
昨日のお茶会には及ばないけど、これでも教会じゃ一等いいお茶なんだよ。」
ミモザは昨日と変わらぬ、背の曲がった好々婆の顔でお茶を勧めてくるが、部屋の空気はナイフのように尖っていた。
世間話を終え、いよいよ本題に入ろうとしたその時、ミモザがお茶のカップを静かに、けれど乾いた音を立てて置いた。
「ところで、お嬢さん。
・・・ここからの話は、実務を仕切る若旦那と二人きりで進めたいんだよ。
悪いけど、少しの間、外で待ってておくれでないかい?」
俺の背筋に冷たいものが走る。
「ええ、構いませんわ。」
シルヴィアは俺を一瞥し、気高く微笑んで立ち上がった。
「リオ、後はお任せします。
私は外で待っているから。」
シルヴィアが退室し、パタンと重い木製のドアが閉まった。
完全に遮断された密室。
残されたのは、俺と、ミモザの姿をした老婆の二人だけ。
次の言葉を探そうと俺が口を開きかけた、その瞬間だった。
ソファーに深く腰掛けたままの老婆が、ゆっくりと顔を上げた。
その顔から、先程までのお節介で優しそうなお婆ちゃんの気配が完全に消え失せる。
見た目はくしゃくしゃに萎びた老婆のままだというのに、そこから放たれるのは、周囲の空気を歪ませ、呼吸すら拒絶するほどの圧倒的で冷徹なハイ・エルフの殺気だった。
そのあまりにも暴力的なギャップだけで、俺の膝はガクガクと震え、胃がギリリと悲鳴を上げる。
据わった一対の濁った瞳で、俺の存在そのものを魂ごと値踏みするように見据えながら、ミモザの姿をした怪物は、低く、しゃがれ、けれど鼓膜に直接響くような冷酷な声で静かに言い放った。
「お前さんは、一体何なんだい?」
それは、ただの小さな商会の若旦那に向けられる言葉ではなかった。
俺が昨日、彼女の隠蔽を暴いてそのステータスを覗き込み、さらには最高機密である回復魔法の重複という奇跡を利用してみせたことへの、逃げ場のない、死の尋問の始まりだった。
「あの娘が使う理の外の、回復魔法の秘密をハナから知ってたねぇ。
何故、国の最高機密を、市井の商人の小童が握ってるんだい?
・・答えによっちゃあ、ここで刻むよ、若旦那。」
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