99 vsペンギンその1
帝国旗艦ポラリスが重々しい音を立てて碇を下ろしたその直後、私は腕にペンギンを抱えたまま、待機していたタグボートへと乗り換えていた。
小型船は波を裂くたびにぐらりと揺れ、ばしゃり、ぴちゃりと冷たい水しぶきが跳ね上がっていく。その一滴一滴が、頬や髪、指先へと容赦なく降りかかり、深夜の海の冷えを否応なく伝えてきた。
海面は闇に沈み、空と海の境界すら曖昧だ。光源と呼べるものはほとんどなく、視界は黒に近い濃紺に支配されている。
――にもかかわらず。
次の瞬間、信じがたい光景が、不意打ちのように視界へ飛び込んでくる。
歓声だ。
しかも、その数が尋常ではない。
漂流者たちが一斉に声を張り上げている。その理由は単純で、そして異常だった。
「清く可憐な聖女を見た」
ただそれだけで、300人を超える人々の感情が、一瞬で沸騰点を突破していた。
絶望の底に沈みかけていた心が、唐突に光を見つけてしまったかのような――そんな、震えるほど生々しい熱狂。
風に乗った歓声は、鉄と木材で組まれた浮島の隙間へと流れ込み、きしきしと構造物を震わせ、遠く離れたこのタグボートの船体にまで、低い振動となって伝わってくる。
そんな騒然とした空気の中心で。
私の腕の中にすっぽり収まっているペンギンが、ぐいっと首を傾けてくると、妙に生意気な目つきで、じっとこちらを見上げてくる。
……その表情がまた、実に嫌な意味で完成されており、場末の酒場で、セクハラ発言を投げつける親父が浮かべる、あの「いやらしさ」と「驚き」が絶妙に混ざった顔。
どう見ても、まともな感想を抱いている目ではない。
言いたいことがあるのは明白だ。
とはいうものの、ろくでもない話題である可能性が、限りなく高い。
案の定、その視線の圧に背中を押されるように、漂流者たちの熱狂は、妙な方向へと雪崩れ込んでいった。
――どちらが“愛されキャラ”なのか、この場で決着をつけよう。
そんな、どう考えても今やる必要のない勝負へ。
当然ながら、この勝負は、私にとって圧倒的不利。
漂流者たちは、私の聖衣、その胸元に刻まれた十字架の文様を見た瞬間、疑いもなく私を“治癒を授ける聖女”だと信じ込んでいるからだ。
その期待値は、もはや跳ね上がるという表現では足りない。うなぎ登りどころか、天井知らず。
――にもかかわらず。
私は超武闘派の聖女であって、治癒や回復といった奇跡は、一切扱えない。
もし、この期待を裏切ったなら。
その瞬間、海底の泥よりも深く、重く、暗い落胆が、漂流者たちの心を一斉に沈めることとなるだろう。
そう想像しただけで、胃の奥がきゅっと縮まり、膝から力が抜けそうになる。
愛されキャラどころではない。
“鬼可愛いだけで役に立たない駄目聖女”。そんな、取り返しのつかない称号を押し付けられる未来が、ありありと浮かんでしまう。
ならば、選択肢は一つしかない。
策を練り、主導権を奪い、一気に形勢をひっくり返すだけのこと。
潮に押されながら、タグボートは闇の海面を滑るように進み、浮島へと距離を詰めていく。
ガラクタの山のような島全体が、波に乗って押し寄せる歓声に揺れていた。
見た目だけで判断されると損をする――まさに典型例だな、と、思わず苦笑が漏れている。
その瞬間。
腕の中のペンギンが、私の表情を見透かしたかのように、追い討ちをかけてきた。
「三華月様。その聖女っぽい容姿が災いし、聖女への期待感がさらに増しているようです」
「なんですか、その『聖女っぽい容姿』って……まぁいいです、気にしません。見ていてください。皆さんの期待には、ちゃんとお応えしますから」
「ふっ。また何か悪巧みを始めているようですが……ここは素直に治癒が出来ないと告白し、紛らわしい服装で誤解を招いたことを謝るのが得策なのでは?」
「私は、どこかのイケメン騎士団長や腹黒イケメン王子に気に入られるタイプの聖女では無いと認めます。というものの、困難を己の力で突破してきた正真正銘の聖女です。今回も、溺愛したがるイケメン共に頼らず、この状況を切り抜けてみせましょう」
「無自覚にイケメン限定で溺愛される聖女が存在したなら、女子に嫌われるのは必然ですよ。まぁいいでしょう。三華月様のお手並み、拝見させてもらいます」
「何が“まぁいい”のか分かりませんが……とにかく、手際の良さをお見せしますとも」
その直後だった。
腕に抱えたペンギンが、くいっ、と愛らしくも鋭い動きで短い首をひねり、闇に沈む浮島の中央を、ちょん、と指し示した。
「三華月様。深夜だというのに、島に火が焚かれていないのは良く無いと思いませんか。真っ暗な環境に長く置かれると、人は不安を覚え、強いストレスを溜め込みます。付き従う下級下僕――『魔道の精霊』達に、島に明かりを灯させてはいかがでしょう」
「……確かに。そうですね、承知しました。ではペンギンさんの提案どおり、魔道の精霊さん達に浮島全体へ光を届けてもらいましょう」
精霊たちは、月の加護を甘い蜜のように吸い込み、それを喜びとして身体全体に纏う存在である。
そのせいだろうか。私の周囲にはいつも、薄い光の膜のように、彼らが寄り添っていた。
旅の最中も、気づけば肩の横、足元、髪先のすぐそばに、ふわり、ふわりと小さな影が浮かんでいたもの。
私は、そっと呼びかけていく。
次の瞬間。
まるで「待っていました」と叫ぶかのように、精霊たちは一斉に弾け飛んでいくと、月光を溶かした光の粒が、ぱぁっと空間へ放たれ、大地へと降り注ぎ始めた。
沈んでいた地面に、ぽつり。
湿った草の上に、ぽつり。
瓦礫の隙間にも、ぽつり……。
最初は、虫の瞬きほどの小さな灯り。
けれど、ひとつ、またひとつと精霊が増えるたび、灯火はほわりと膨らみ、息を吹き返すように、柔らかく明滅し始めていく。
光が重なった、その時――
闇に沈んでいた島全体が、ゆっくりと暗黒の底から浮かび上がり、失われていた輪郭を取り戻している。
大地そのものが呼吸を再開し、大きな心臓が静かに、どくん、どくんと拍動し始めたかのような錯覚。
暖かなぬくもりが、空気の中にじわりと満ちていった。
漂流者たちの表情が、一斉に明るさを取り戻す。
強張っていた肩が落ち、安堵の息がこぼれ、涙を拭う者もいた。
そして――
「灯りが付いたぞ!」
「聖女様に付いてきた精霊達が灯りをともしてくれたぞ!」
「精霊使いの聖女様だ!」
「おぉぉぉぉぉ!」
「奇跡だ!」
「奇跡が起きたぞ!」
歓声が、ばぁっと弾けると、光の粒が空気を揺らし、人々の声がその光を震わせている。
夜気が震えるほどの熱が押し寄せ、島全体が一気に高揚の波へと包み込まれていく。
美しい聖女。
精霊を従える聖女。
そんな視線が、四方八方から突き刺さってくる。
悪い気はしない。
実際に、世界を救う聖女だからな。
期待が爆発的に膨れ上がっているのが、怖いほどはっきりと伝わってくる。
そんな喧噪の最中――
胸元のペンギンが、ひっそりと小声で告げてきた。
「三華月様。更にまずい事態に陥ってしまいましたね」
「さらにとは、今度は何ですか」
「はい。期待値が高まるほど、裏切られてしまった場合の喪失感が高くなる法則が働くとしたなら、治癒・回復が出来ない聖女と知った時のダメージが、跳ね上がってしまうことになりませんか」
「なるほど。この流れは、良くない展開になってしまっておりますね」
視線を落とすと、丸く可愛らしい顔には、似つかわしくない黒々とした笑みが、にたりと浮かんでいた。
……やはり罠だったのか。
精霊の使用を勧めたのも、この“期待のインフレ”を見越した策略。
油断した。さすが参賢者の一角、その腹の読めなさは、もはや職人芸だ。
ペンギンは、さらに口角をつり上げ、楽しげに囁いてきた。
「三華月様のお手並みを拝見させて頂きます、とは言いましたが……私がただ指をくわえて見ているだけと、思っていたのでしょうか。三華月様も、まだまだですね」
タグボートは、うねる海面を巧みにいなしながら、浮島へと接近していく。
船体がきしむたび、ぱしゃり、と波が跳ね、水しぶきが白い粒となって散っていた。
潮の香り、水の匂い、鉄と木が混ざった独特の匂いが、鼻腔へと染み込んでくる。
桟橋の上では、人々がぎゅっと身を寄せ合い、救助を待ち続けた緊張と期待が、霞のように立ち上っていた。
手を振る影、涙を拭う影。
それらが波音と混ざり合い、細かな感情の振動となって空気を震わせている。
その群衆の奥から。
気安さと軽やかさを纏った青年が、一歩、前へと歩み出てきていた。
両手を大きく広げる姿は、どこにでもいそうな地元の若者そのもの。
しかし、その奥には、夜空の星のように滲む自信の光が、確かに宿っている。
「俺はここのリーダーをやらしてもらっています。緋色と言います。俺は、美しい聖女さんを歓迎します」
緋色と名乗ったその青年は、見た目だけを見れば16〜18歳ほどだろうか。背丈は私よりも低く、顔立ちは特別整っているわけでも、印象に強く残るほど突出しているわけでもない。武を極めた者の引き締まった体つきでもなく、かといって貧弱というほどでもない。良くも悪くも、どこにでもいそうな普通の少年──第一印象は、それだけだった。
なのに。
彼の内側から滲み出る自己肯定感だけは、妙なほど堂々としている。薄く張り付いた虚勢の膜が全身を覆っているようで、その奥底には「自分が中心であって当然」という感覚が、確かに存在しているのが透けて見えていた。とはいうものの、それを誇示するほど露骨ではない。だからこそ厄介で、胸の奥にじり、と嫌な警戒心が生まれてくる。
この島には、明らかに年齢層の高い者も多く見える。そんな中で、こんな青年がリーダーを務めているという事実──本当に、この集団は機能しているのだろうか。
「私の名は三華月。ここにいる皆様は、地上世界から遭難し、漂流されてきたのですか」
「そうです。ここにいる者全員が、巨大な海王生物に船を壊されましてね。流された皆を、俺が造ったこの浮島に救助したのです。三華月さんも、どうか俺を頼ってください」
──うむ。
どう考えても、頼ってはいけない男の香りしかしない。
巨大な海王生物。話の流れから察するに、それはクラーケンのことだろう。とはいうものの、彼の説明が事実であるならば、この浮島にいる者たちは確かに地上世界から流れ着いた漂流者たちである可能性が高い。そこについての嘘は、今のところ感じられなかった。
視線を緋色の背後へと滑らせると、そこには、三人の少女が静かに控えていた。年若く、可愛らしい容姿。荒れた服装や疲労の色が滲む他の漂流者たちとは対照的に、彼女たちだけは髪も服も整っている。その様子は、まるで意図的に飾られた置物のようで──胸の奥を、嫌な予感がすっと横切っていく。
……まさか。
ひょっとして、緋色の“ハーレム要員”なのだろうか。
私の視線の意味を察したのか、緋色は頬をわずかに赤く染め、どこか得意げに胸を張っていた。
「後ろの三人は、俺の嫁です。後ほど、詳しく紹介させてもらいます。三華月さんをこちらに引き上げますので、さぁ、俺の手を握ってください」
女が自信のある男に惹かれる心理は理解できる。だが、どう見ても、この三人が彼に恋をしているようには見えないのだが…。そこにあるのは愛情ではなく、立場と権力によって形作られた関係──そう感じられた。
この環境下では、緋色の庇護を受けなければ生きていけなかったのだろう。本来なら“嫁”などという距離に踏み込む必要など、なかったはず。
緋色は片足をタグボートに乗せ、ぐっと勢いをつけてこちらへ身を乗り出してくると、差し出された手は強引で、逃げ道を塞ぐ壁のように感じられた。
緋色の指が私の手を掴んだ、その刹那。
ぞわり、と背筋を這い上がる嫌悪感。
反射のように、マインドが反応し……
——————『SKILL_VIRUS』が発動してしまった。
『SKILL_VIRUS』。
対象者にVIRUSを送り込み、特定のスキルをじわじわと侵食・破壊する遅効性スキル。発症からおよそ7日で、能力は完全に崩壊する。
不用意な攻撃は信仰心の減少に直結する。だが──今回は“正当な行為”と判断されたのか、信仰心は一切減少しなかった。
さて。
緋色のどのスキルが壊れ始めたのか。とはいうものの、遅効性ゆえに、彼自身が気づくのはまだ先だろう。信仰心に影響がない以上、大きな問題ではない。
それよりも。
ここからの立ち回りこそが、重要だ。
ペンギンとの“愛されキャラ対決”で巻き返すための、神の一手を打たなければならない。
まずは、緋色の提案どおり、治癒行為ができないという事実を、誠意をもって全員に伝える必要がある。
私は抱えていたペンギンをそっと桟橋へ下ろし、姿勢を正していく。両手を腹の前で静かに組み、呼吸を整えた。少しだけ申し訳なさを滲ませた表情を作り、ゆっくりと上体を倒す──30度。最も美しく、誠意が伝わるお辞儀の角度である。
その姿勢を保っていると──割って入ってきたのは、やはり、いらない男だった。
「聖女さん。頭を上げてください。僕はあなたを歓迎すると言ったではありませんか。お礼なんていりませんよ!」
……無視で十分だろう。
私は緋色に向けて頭を下げているのではない。この島に集う人々、その期待そのものに対して、頭を垂れているのだ。ひとつひとつの視線が重みを持ち、背中に小さな圧としてのしかかってくる。だが、それも悪くない。
私がお辞儀を続けるにつれ、漂流者たちの間に困惑と戸惑いがざわりと広がっていく。先ほどまで満ちていた歓迎の空気は、音もなく、静かにしぼんでいった。
──良い。
狙い通りだ。
ゆっくりと頭を上げ、緋色の肩を邪魔にならない程度に脇へ押しやる。深く息を吸い込み、胸の奥で小さな鼓動が微かに響く。慎重に一歩、前へ。
「私は聖女ですが、皆様の回復や治癒をするスキルは持っておりません」
その瞬間、世界が止まったかのような冷たい静寂が島を包み込んだ。期待は氷のように砕け、失望の影が一人ひとりの顔に広がっていく。空気が、一拍遅れて凍りつく。
──だが。
やはり、空気を読まない男が一人。
緋色だ。
「俺が三華月さんを守ります。安心してください!」
……守ってもらう必要は一切ない。
今後も、丁寧に無視するに限るだろう。
重苦しい空気が漂い、絶望の気配がじわじわと広がっていく。だが、まさにこの瞬間こそが、私の狙いどころだった。
島の全員が、次の言葉を待っている。その期待と渇望を、肌で感じ取りながら、私は宣言した。
「私は聖女として、皆様をこの領域から地上世界へとお連れすることをお約束いたします」
声は、雲間を割って差し込む光柱のように、空へと突き抜けた。透き通った音が浮島全体をわずかに震わせる。静寂の膜が張りつめたまま、時間が一拍だけ遅れたような、不思議な間。
そして次の瞬間。
ざわっ、と、期待の波が一斉に押し寄せた。
緋色との会話で得た情報──この島に集う者たちは皆、地上から流され、戻る術を奪われた漂流者たち。話を聞けば聞くほど、彼らがどれほど地上への帰還を望んでいるかが、痛いほど伝わってくる。
願いは、ただひとつ。
ラグナロク領域から抜け、地上へ帰る。それだけ。
まず不安を提示し、次に最も望まれる言葉を差し出す。ある意味、それは吊り橋効果のようなものなのかもしれない。
理解はしても、心が追いつかない。そんな揺らぎが、人々の隙間から伝わってくる。「本当に?」という震える声が漏れ、その一言を合図に、期待の火花が連鎖していった。
今、この浮島にいる全員の目には、私は“聖女の中の聖女”として映っているのだろう。
とはいうものの。
私の足元には、相変わらずふわふわの羽根を揺らすペンギンがいる。小さな体を抱き上げ、耳元へそっと囁いた。
「ペンギンさん。浮島の皆さまには、鬼可愛い私が、いま希望の光を灯す聖女に見えていることでしょう」
「はぁ。聖女のような姿に騙されたわけですか」
冷静極まりない声。すべて予測済みとでも言いたげな余裕が滲む。
「98話では、私のことを聖女のコスプレイヤーだとディスってくれましたが、もう私に土下座して泣きながら謝るしかないのではありませんか」
「やれやれです。38話でやった、うつ伏せでしたら、いつでもやってあげますよ」
……やはり、あの38話の姿勢は土下座ではなく、ただのうつ伏せだったらしい。ペンギンはくちばしの端をわずかに上げ、揺るがぬ余裕を見せつける。
「さてと」
短く呟いた、その瞬間。
ペンギンの視線が、鋭く跳ね上がった。
空気が変わる。密度が増し、重力がわずかに強まったような錯覚。見えない風の輪郭がぎゅっと縮まり、浮島を渡る風が、一瞬だけ止まった。
──まるで、この場そのものが、戦闘の号令を待っているかのように。
「三華月様。次は私。ペンギンのターンです」




