92 ネガティブな性格
――目的は、ただひとつ。
ふざけきった大会名、「スイカップ杯」を改名すること。それだけである。
……それだけ、のはずなのだが。
どうにも胸の奥がざわついて仕方がない。いっそのこと大会名だけではなく、国名そのもの――S王国という間の抜けた響きすら、A王国にでも変えてしまった方がいいのではないか。そんな暴論じみた考えが、森の小道を歩く私の頭に、ふわりと浮かんでは消えていく。
土を踏みしめるたび、靴底に伝わる感触は柔らかい。苔むした木々、枝葉をすり抜ける風の音。平穏そのものの景色を前にして、思わずため息が漏れそうになるのだった。
佐藤翔――その名前が、ふいに脳裏をよぎる。
本来であれば、最優先で動くべき案件。そう、理解している。しているものの、神託が降りる兆しはなく、確証もない現状では、どうしても後回しになってしまっていた。
とはいうものの。
彼を元の世界へ帰してやるべきなのだろう、という小さな棘だけは、確かに胸の奥に刺さったままだった。抜けない。忘れられない。だからこそ、余計に厄介なのかもしれない。
そんな思考を巡らせながら、スイカップ杯の新名称案をいくつか頭の中で転がし始めた、その瞬間――。
“手駒”が、音もなく姿を現してきた。
レールだ。
ついさっきまで何もなかったはずの森の土の上に、銀色の線が、すうっと伸びていく。片側だけのレールが、まるで私の進行方向に寄り添うかのように、静かに、しかし確かな意志を持って敷設されている。不自然なほどの存在感。誘うような、拒めない圧。
枕木の隙間から、カタン、カタン……と微細な震えが伝わり、足裏をくすぐる。静まり返っていた森の空気が、見えない重みを帯び、じわりと震え始めていた。
振り返った、その刹那――。
ザワッ、と森の影が一斉にざわめいていく。
木々の隙間が裂けるように歪み、霧をまとった黒い塊が、ゆっくりと、しかし確実に迫ってくる。
鋼の車体。冷たい金属の輝き。
異質な巨体が、時間をかけて形を成していく様は、まるで別の世界から切り抜かれて、この森へ無理やり縫い付けられたかのようだった。
次元列車。
F美と黒川膳を元の世界へ送り届けた、霧と鉄の化身。
磨き上げられた金属光沢は、木漏れ日を艶やかに反射し、森の緑と交じり合いながら、周囲に不思議な圧を放っている。
その性格は、癖がある、などという生易しい言葉では済まない。
ものの、能力だけを見れば、これ以上なく心強い存在である。むしろ、持て余すほどに。
ゴウン、と低く、わずかなブレーキ音。
まるで「待っていました」とでも言うかのように、列車は私の目前でぴたりと停止し、扉が音もなく開くと、乗車した途端、誇らしげな声が、森の静寂を打ち破ってきた。
「三華月様。無事にF美と黒川膳の2名を、元の世界へ送り届けてまいりました」
「お疲れ様です。次元航行、お見事でしたよ」
「はい。正直、少し不安もあったのですが……なんて事はありませんでした。数万年もの間、引きこもっていた自分が恥ずかしいです」
「あなたが生まれた意味は、召喚された者を元の世界へ帰すこと。忘れないように」
「……はい! 見ていて下さい。これから僕は、バリバリと世界の役に立ってみせますから!」
――その威勢のいい言葉とは裏腹に。
私を乗せた次元列車は、時速20kmという、散歩と大差ない速度で、のんびりと森の中を走り出してきた。
枕木を踏むたび、カタン……カタン……と、1/fゆらぎの心地よい音が車内に満ち、身体の奥へと溶け込んでいく。
午後の柔らかな陽射し。風に揺れる木々。窓外を流れる、あまりにも平和な光景。
ほんの一瞬、心がふっと緩んでしまうほどの穏やかさである。
――とはいうものの。
悠長に揺られている暇など、本来はどこにもない。
大会名変更。
会場となる競馬場を“破壊”してしまうのが、もっとも手っ取り早い手段だ。もちろん、次元列車の力は不可欠。しかし、彼が素直に頷く姿など、どう想像しても浮かんでこない。むしろ、両手両足を突っ張って全力で拒否する姿ばかりが、やけに鮮明に思い描けてしまう。
けれど――ひとつだけ、確かな希望がある。
彼は願っている。強く、切実に。
佐藤翔を、元の世界へ帰したい、と。
その想いを利用しない理由が、どこにあるというのだろうか。
「次元列車さん。次は、佐藤翔を元の世界へ送り届けなければなりません。一緒に頑張りましょう」
「……はい。頑張りましょう」
穏やかな返事。
流れゆく森。木々の影が揺れ、視界が切り替わるたび、何か得体の知れない気配が、ざらりと動くような錯覚すら覚えてしまう。
「次元列車さん。佐藤翔の周りには、ハイエナ達が寄ってきているのではないかと、私は危惧しております」
「えっ……ハイエナ、ですか」
「ご存知ですよね。迷宮内のドロップ品を地上へ持ち帰っても消滅しない。佐藤翔のスキル効果です」
「つまり……佐藤翔を利用しようと近づく者達が、再び現れつつある……と」
「そう。そいつ等こそが、ハイエナです。
ですから次元列車さんには――重要な任務をお願いしたいのです」
「僕が……重要な任務を」
「あなたにしか頼めないことです」
車体の奥、どこかの金具が、ぎし、と軋むと、森を抜ける風が車内を撫で、空気が一段、張り詰めていく。
「す、す、すみません……! やっぱり僕には無理です! 三華月様の補助だけをさせて下さい! 僕の適正は、そっちですから!」
「私の背中に隠れ続けていては、いつまで経っても世界に貢献することはできませんよ」
「いやいやいや! 貢献なんてしなくていいです! 僕は、ずっと三華月様の背中に隠れていたいのです!」
必死さを通り越し、もはや執念と呼ぶべきか。
ここまで徹底してネガティブに振り切れるのも、ある意味では才能なのかもしれない。
F美と黒川膳を無事に送り届けた、その実績が、少しくらいは彼の背中を押す材料になると期待していた。
……完全に、甘い見通しだったらしい。
あの時、佐藤翔を救いたいと燃え上がっていた姿は、いったいどこへ置き忘れてきたのか。
とはいえ、この及び腰ぶりを見る限り、まだ説得の余地は残されている――はずであった。
「次元列車さん。佐藤翔を助け出すことは、私たちの共通認識でよろしいでしょうか」
「はい。三華月様が助け出して、僕が遠くの安全圏からフォローさせてもらいます」
「私は同族殺しを禁止されています。ですので、制裁鉄拳は使えません」
「じゃあ……手加減とか……すればいいじゃないですか」
「ハイエナ達の中から佐藤翔を引っ張り出せるのは、次元列車さんしかいないのです」
「だから、僕には無理なんですってば」
……うむ。
これはもう、説得という段階を通り越しているのかもしれない。言葉を重ねるたび、彼の拒絶は跳ね返ってくるだけ。
森を走る列車の車輪が、ゴトン、ゴトンと規則正しく刻み、高い木々の隙間からこぼれる光が淡く揺れ、その静けさがやけに耳に残っていく。
穏やかな風景とは裏腹に、胸の奥では“面倒くささ”が、少しずつ、しかし確実に堆積していくのであった。
次元列車の操縦権は、すでに私の掌中にある。
AIの意志がどうであろうと――最後は、強制実行すればそれで終わる話、となるのだから。




