91 ふざけた名前であるスイカップ杯について
ぐるりと、四方すべてを取り巻いていたのは――無数の骸骨たちだった。
カタ……コト……。
乾いた音が、静まり返った森の奥で淡く反響する。骨と骨が擦れ合う、軽く、しかし確実に不快な音。その一つ一つが、風の存在すら拒むかのような森の静寂に、じわじわと亀裂を刻み込んでいく。
木々は揺れない。葉擦れの音もない。
まるで、この場にいる“死者”たちを刺激しないよう、森そのものが息を殺しているかのようだった。
木漏れ日の向こうへ視線を送ると、白い骨影、骨影、骨影。切れ目なく連なり、どこまでも続く骸の行列が、ゆらり、ゆらりと揺れている。数えるまでもない。ざっと見ただけでも――1000を優に超えている。
森全体が、彼らの支配領域へと沈み込んでしまったような圧迫感。
空気は重く、じっとりと肌へ貼りついてくる。呼吸ひとつするだけでも、存在を晒してしまうのではないか……そんな錯覚が、背筋をなぞってきた。
正面。
死霊王の影武者が、影そのもののような静けさをまとい、そこに立っている。
肩からずるりと垂れた黒いマントが全身を覆い隠し、風など吹いていないはずの空間で、裾だけが不自然に、ゆらりと揺れていた。
生者の理から外れた“何か”が、確かにそこに在る。――その事実を、たった一度の揺らぎが雄弁に語っていた。
「……本当に、生き物じゃないのですね」
思わず零れた呟きが、やけに大きく耳へ返ってくる。
それだけ、この場が張り詰めている証拠なのだろうか。
影武者の話によれば――藍倫は、ギャンブル目的でS王国へ向かったという。
まったく。
どうして、あの子は私のためにならない選択ばかり、嬉々として選び取るのだろう。佐藤翔が保護される危険は、ひとまず遠のいたとはいうものの、藍倫を野放しにするのは、どう考えても危険すぎる。
勢いだけで有り金を全額賭け、無一文から英雄譚を始めかねないタイプ。
いや、むしろ積極的にやるだろう。獲物を掻っ攫われでもしたら、私の信仰心どころか、精神の安寧そのものが脅かされる。ぞっとしない、どころの話ではないのだ。
だからこそ。
今のうちに止める理由は、十分すぎるほど揃っている。
私は影武者へ視線を戻し、さらに問いを投げた。
「影武者さん。藍倫がS王国へ来た理由――そのレース、詳しく聞かせて下さい」
「競馬でございます。明日、大陸3大レースのひとつ、『スイカップ杯』が開催されるとのことで……藍倫殿は、有り金を全額注ぎ込むと、非常に力強く語っていたと耳にしております」
「スイカップ杯!?」
思わず声が裏返ってしまった。
「そんな……“おっぱい星人たちの願望を名札に貼り付けたレース”が、国を挙げて開催されるとは……なんと低俗な!」
影武者は、ゆっくりと首を傾げた。
「おっぱい星人……とは、いかなる異形の種族でございますか。胸部を執拗に観察することで存在意義を確立しようとする……そのような?」
「説明が的確すぎて逆に怖いのですが…。そもそもスイカップとは、スイカみたいに大きい胸を指す単語のこと! 名前の時点で下品さ全開です!」
「三華月様。それは誤解でございます。“スイカップ杯”の名称は、S王国の『S』と、この地がスイカの名産地であることに由来すると伝えられております」
……駄目だ。この影武者。全然、分かっていない。
“スイカが名産だからスイカップ杯”などという言い訳を、素直に信じられるほど、私は世間知らずではない。普通なら“スイカ杯”で十分だ。
あの妙に柔らかな語感は――どう考えても、わざと“余計な何か”を混ぜて楽しんでいる。
これは、想像以上に深刻な問題へ発展しているのでは……?
「うむ。倫理的観点からしても、スイカップ杯を“Aカップ杯”へ名称変更させるべきだと考えます!」
「えっ?」
ざわっ……。
風もないのに、四方の骸骨たちが一斉に震えた。
カタカタカタ……と骨が触れ合う乾いた音が連鎖し、波紋のように空気を揺らす。指の節をぎこちなく震わせ、ひゅっと肩をすくめるアンデッドまでいる。
場の温度が、一段階――確実に下がった。
“おっぱい星人”。
服越しに胸の大きさを当てようと必死になる、哀れな種族。いずれ世界のためにも、叩き潰すべき輩だろう。
むしろ、S王国という国名そのものを“A王国”へ変えてしまえばいいのでは?
そんな極端なのに、妙に現実味のある案が脳裏をかすめた、その瞬間。
影武者が、低く、石が擦れるような声で切り出した。
「三華月様。“ねたみはその身の仇”ということわざをご存じでしょうか。嫉妬を抱けば、巡り巡って最終的には自身を傷つける……その……巨乳を敵視しすぎる貧乳女というのは、見ている側としても、なんとも痛ましいと申しますか」
――バキィッ!
空気が爆ぜた。否、裂けた。
私の拳が、音を置き去りにして影武者の死角へ滑り込んでいく。
スローモーションのように、時間が引き延ばされている。
踏み込み、腰の回転、肩の沈み。すべてが一本の線で繋がり、弧を描いたブーメランフックが、紙一重の隙間だけを穿ち抜けいていた。
まるで最初から、そこを通る運命だったかのように。
フード越しに、骨がねじれる鈍音が拳へじん……と伝わってくる。
アンデッドでなければ、その瞬間に戦闘不能だったはず。
パラ……パラパラ……。
余韻の粉塵が沈むように消え、周囲のアンデッド達が、ざざっ……と薄影のように後退していく。
……あれ?
今の私、完全に“危険人物”認定されてしまったのではないだろうか。
めくれたフードの隙間から、砕けかけの頭蓋が覗いてくると、影武者は骨の指でそれを押さえ、ぎしり、と音を立てながら、揺らりと立ち上がってきた。
「聖女様。我々は痛みを感じませんが……恐怖は覚えるのです」
「“口は災いの元”。このことわざの意味、ご存じですよね」
「不用意な発言が災いを招く、という意味ですね。以後、気をつけます」
さっきまで張り詰めていた戦闘の気配が、影武者の急な真面目さによって、ふっと霧散していく。
少し、拍子抜けである。
とはいうものの。
佐藤翔を放置すれば、再び神託によって“討伐対象”に指定される未来があり得る。
だが――S王国の現状を見る限り、このふざけ散らかした気配を野放しにしておく方が、よほど危険なのではないか。そんな思いが、胸の内で膨らんでいく。
「S王国内に深く根を張る“おっぱい星人”達を、見つけ出さなければならないのか……」
「……なるほど」
表情筋など存在しないはずなのに、骨だけの頭蓋から、焦りの気配が滲み出てくる。不思議なものだ。
とはいうものの、彼らが声を放つ仕組みは、相変わらず謎のまま。まあ、どうでも良いのだけれど。
私は少し視線を落とし、問いかけた。
「影武者さん達の目的は、死霊王を守ることなのでしょうか」
「そうです。我々はその使命を与えられ、創造主に造られました」
骨の指先が、かすかに震える。
使命という言葉に、縋るように。
「でも、私はもう――あなた達の創造主、アンデッド王を攻撃する気がありません。攻撃する動機が消えた以上、あなた達の使命も……消えた、ということになるのではないかしら」
影武者は、ほんの一拍遅れて、深く頷いた。
「……はい。三華月様の仰る通りであれば、我々の存在意義は、無くなりました」
ふっ、と。
風の流れさえ奪われたような静寂が落ちている。
胸の奥が、ひりり、と痛い。
今の私にとって、最優先すべきは――
**「スイカップ杯」**などという、ふざけた名称の大会を、粉々に打ち砕くこと。
神格へと近づきゆく自分が、人であるうちに片をつける最後の宿題……なのかもしれない。
とはいうものの、一人でやるより、仲間は多い方が良いに決まっている。
役目を失った骸骨軍団。
これは……都合が良い。いや、協力をお願いするには、最適な状況だ。
「影武者さん達は、使命を失ったら、どうなるのですか」
「……やはり、成仏かと思われます」
「成仏する前に――少し、私に力を貸してもらえませんか」
「ぼ、僕達が三華月様に、協力をですか?」
ガクッ、と影武者が一歩後ずさっていく。
骨の足が地をぎしりと鳴らし、迷いの重さが響いてくる。ざわ……ざわ……と周囲の骸骨達も一斉に震え、不安が波打っていた。
「三華月様。具体的に、我々は……何をすれば良いのでしょう」
「最初の目的は、『Sカップ杯』という名前を変えることです。あなた達には、できる範囲で構いません。協力して下さい!」
「できる範囲、ですか」
「ええ。――S王国の首都へ赴き、『スイカップ杯名称変更』を訴える抗議デモをお願いします」
「わ、我々がS王国内に、進入するのですか」
影武者の声が、震えていた。
「お願いします。どうか、力を」
その一言を境界線として――
ざわめきが、音を奪われたように止まった。
空気が凍り、息が胸で詰まる、その直後だった。
カラ……ン。
乾いた音を残し、一体の骸骨が膝から崩れ落ちていく。
そして、ぼろり、ぼろぼろと、砂の粒子へ変わり始めていた。
――え?
思考よりも早く、周囲の骸骨達が次々と塵へ変わっていく。
まるで、大波が一瞬で引いたかのように、存在そのものがさらわれていく。
神聖魔法の直撃でも受けたのかと思うほどの、一斉成仏。
呆然とする私に、影武者が穏やかに声を向けてきた。その身体も、すでに薄く、透け始めているのに。
「三華月様。僕達に新しい役目を与えようとしてくださり、有難うございます。ですが……僕達骸骨が街中に入れば、国内は大混乱となるでしょう。誰にも迷惑をかけたくないのです。……僕達は、ここで成仏することにしました」
気づけば、すべての骸骨は塵に変わり、ただ静寂だけが残っていた。
最後の影武者も、身体の輪郭をゆっくりとほどき、光に溶けるように消えていく。
――最近出会った者達の中で。
もしかすると、一番まともだったのかもしれない。




