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ブラックな聖女『終わっことは仕方がないという言葉を考えた者は天才ですね』  作者: ヨシムラ


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87/222

87 vs黒河膳

正面のソファーには、腹の肉をたぷん、といやらしく揺らしながら、でっぷりと肥えた黒河膳がどっしりと沈み込んでいた。

体重を預けた革張りの座面が、ぎしりと低く軋む。その音だけで、この男の存在感がどれほど空間を占拠しているかが伝わってくる。


そのすぐ横に控える獣人の少女は、背筋を伸ばし、鋭く細めた双眸でこちらを射抜いていた。

ピクリ、と一瞬だけ獣の耳が震える。

ほんの一欠片ほどの動き。

それだけで、室内の空気が薄く、冷たく張り詰めていくのだから不思議なものだ。


警戒心と職務意識。

目に見えぬ二本の刃が、静かに、しかし確実に室内を巡回している――そんな気配だった。


黒河膳の目的は、実に単純明快である。

佐藤翔から預かった、まとまった金を元手に、帝都に温泉をつくる。

ただそれだけの話だ。


とはいうものの、その計画は彼なりに大真面目だったのだろう。

異世界に召喚され、右も左も分からぬ状況で、何かを成そうと必死に考えた結果が、それだったのかもしれない。


――ものの、その誠意を見事に踏みにじった者がいる。

私、三条華月の名を騙り、巧みに金を巻き上げていった詐欺師である。


異世界に召喚されたばかりの者にありがちな、世間知らず。

それが黒河膳を、“絶好のカモ”にしてしまったのだろう。


残念、というより――

もはや哀れ、と言うほかない。


とはいえ、事実は事実として伝えねばならない。

私は胸の奥で一度だけ呼吸を整え、声の調子を柔らかく、それでいて芯を通して切り出した。


「黒河様は先程、温泉事業の融資を受ける約束をした貴族が三条家の当主だと仰いましたが。その者は、本当に本人で間違いなかったのでしょうか」


「もちろん本人ですとも」


黒河膳は即答だった。

まるで疑問そのものが失礼だと言わんばかりに、胸を張る。


「まさか聖女殿、拙者が詐欺に遭ったなどとお考えではあるまいな。心配無用ですぞ! なんといっても拙者は“鑑定眼”の持ち主。拙者の目を誤魔化すことなど、誰にもできぬのでござる!」


鼻息ぶぅぶぅ。

自信満々、というより、疑いを知らない顔だ。


隣の獣人少女は何も言わない。

ただ、尻尾をほんの少し、ゆらりと揺らしただけだった。


その仕草が、逆に雄弁だった。

――いやいや、それはどうなのか。

そんな無言のツッコミが聞こえてくるようである。


避けては通れない。

私は言葉を慎重に選びながらも、あえて踏み込んだ。


「その三条家当主と名乗った者に、手付金のようなものを、すでに渡されていたりしませんか」


「もちろんです。手持ち金のほとんどを、とりあえずな!」


「……渡してしまいましたか」


どうしようもなく、深い溜息が喉の奥から漏れ落ちた。

黒河膳は、その意味にまったく気付かぬまま、にこにこと上機嫌で書類を広げていく。


次の瞬間。

黒河膳は全身のたぷついた肉を誇らしげに揺らしながら、勢いよく紙束を突き出してきた。


「聖女殿! これをご覧あれ! 三条華月様ご本人が直筆でお書きになった契約書でござるよ」


パサリ。

紙が私の視界へ滑り込んだ、その瞬間――私は悟った。


この筆跡。

私が書くはずがない。

私の名前ですら、そこでは不格好に歪み、どこか他人行儀な線を描いている。


要するに黒河膳は、幸せそうな顔で詐欺師と共同事業契約を結び、所持金をほぼすべて差し出してしまったのだ。

なんとも哀れで、なんとも救えない話ではないか。


異界神の神官が召喚する異世界人の多くは、不満や未練を抱え、世間慣れしていない。

黒河膳も、まさにその典型例だった。


手にしたスキル“鑑定眼”で膨らんだのは、自信だけ。

というものの、その鑑定眼は最低ランク。

見抜けるのは事実の外殻のみで、詐欺師がひと工夫すれば、あっさりと突破される代物だ。


正直に言えば、私は黒河膳そのものに興味などない。

次元列車がF美を元の世界へ送還し、再び戻る際、ついでに彼も荷物扱いで送り返してもらうつもりだった。


――とはいうものの。

逃げ場のない現実は、今まさに彼の眼前へ突きつけられようとしていた。


「黒河様。落ち着いて聞いてください」


「なんでござるか」


「あなたは、詐欺に遭ってしまいました」


「何度も申しておろう! 拙者は鑑定眼の持ち主! 誰にも騙されぬのでござる!」


必死の否定。

痛いほど見苦しい自尊心だった。


私は淡々と、しかし確実に追い詰める。


「黒河様がお金を渡した相手は、三条華月ではありません」


「な、なにを申す! そんなことあるはずがないでござる! 拙者が会った女性こそ本物の――!」


逃げ道のない真実を、私は静かに投げつけた。


「偽物だという理由は……私こそが本物の三条華月だからです」


ピタリ。

空気が止まった。


黒河膳の瞳孔が大きく開き、口がぱくりと開いたまま固まる。

瞬きすら、忘れている。


隣の獣人少女は、“やっぱりね”とでも言いたげな、呆れ切った眼差し。

――完全に、駄目な奴を見る目だった。


彼女が先ほど私に威嚇したのも、主人を守るふりをしただけ。

実際には、金づるとしての黒河膳を失いたくない――そんな浅い計算が透けて見える。


現実を拒んだ黒河膳は叫ぶ。


「拙者が詐欺に遭うなどありえぬ! 鑑定眼があるのだぞ!」


なんとも薄っぺらな自信だ。

私は静かに問いかける。


「黒河膳。あなたが持つ『鑑定眼』のクラスは、どれほどなのです?」


「ク、クラス……?」


その瞬間、黒河膳は硬直した。

表情から何かが抜け落ち、瞳に曇りが差す。

まるで、脳の主電源が落ちたかのようだった。


鑑定眼にもランクがある。

AからFまで。

そして彼は、その最低限すら知らなかったのだろう。


とはいうものの、異世界に突然放り込まれた一般人に専門知識を求めるのも酷かもしれない。


だから、私は丁寧に告げた。


「一般的に言う鑑定眼は、最低のFランクです。珍しくはあれど……Fでは、使い物になりません」


沈黙。

黒河膳の瞳から、完全に光が消えていく。

ストレスに耐えきれず、現実逃避へ滑り落ちる、人間特有の表情である。


彼を召喚した異界神の信奉者は、A級相当ばかりの強者。

そんな連中が説明しなかったということは――

黒河膳の鑑定眼が、最底辺なのだろう。


だが、私が確信した理由は別にあった。


彼の瞳を覗き込んだ、その瞬間。

私は気付いてしまったのだ。


――黒河膳は、『催眠』をかけられている。


スキルがあっても、絶対の安全など存在しない。

この世界最強クラスである私ですら、弱体化スキルへの耐性はない。


認められたい欲と、積み上げてきた“無行動”の結末。

スキルを得た途端に社会へ放り込まれた野良猫が、あっという間にハイエナの餌になる。

そんな現実も、確かに存在するのだ。


私は、置物のように動かぬ黒河膳へ静かに告げる。


「黒河様。まだ、あなたにお伝えしなければならないことがあります」


「……」


「あなたは今、誰かに『催眠』をかけられています」


「……」


「鑑定眼を持っていても、欺く手段はいくらでもあるものですよ」


「ガブガブガブガブ」


……妙な音だった。

人間の喉から出るものとは思えない、湿った異音。


黒河膳は口端から粘ついた泡をだらだらと垂れ流し、むき出しの白目は焦点を結ばない。

理性も人格も断ち切られた操り人形――そのものの姿だった。


ぞくり。

背骨をなぞるように、冷たい何かが走る。


――これは、なにかが弾け飛ぶ前触れなのだろうか。


その刹那。


――スキル『未来視』発動。


未来の断片が、映像フレームのように意識へ滑り込み、視界の奥で鮮明に展開する。

黒河膳が狂声を上げ、火山の噴火の如くドバッと大量の唾液を噴射する未来。

もはや飛沫ではなく散弾。

浴びたくなど、あるはずがない。


危険信号が脳髄を叩く。

私は反射的に、神経系のリミッターを外していた。


処理速度が跳ね上がっていく。

世界の音が遠ざかり、潮の底へ沈むように静寂が満ちている。

視界は薄くセピアに染まり、空気がどろりと粘りついていた。


――時間が、止まりかけている。


向かいのソファーで、黒河膳は立ち上がりかけた姿勢のまま硬直していた。

口は開き、叫びの衝撃波が出る直前。

唾液が発射されるまで、あとコンマ1秒。


私は静寂の中、そっと腰を回し…

ソファーを離れ、身体がふわりと宙を滑ると、軸足へ重心を移し、蹴りの軌道が、しなやかな弧を描いていく。


動いているのは、私と――高鳴る心臓の音だけ。


つま先が、迷いなく黒河膳の顎へ吸い込まれていく。

ひどく正確で、ひどく静かな破壊。


ほんの一瞬の選択。

理屈では回避だけで十分だったはずなのに、

本能が囁いた。

――蹴れ、と。


————一閃。


真一文字に走る爪先が、黒河膳の顎先を撃ち抜いた。


その直後、私は頭の片隅で思う。

……黒河膳、生きているのだろうか。


やがて、セピアに落ちた世界へ、少しずつ音が戻る。

時間が波打つように再起動し、黒河膳は怒号を放とうとした、その瞬間――

私の蹴りの衝撃に逆らえず、糸の切れた人形のように崩れ落ち、床へ沈んでいった。


ぽかん、とその光景を見つめていた獣人ちゃんが、頬を紅潮させ、熱を帯びた吐息を漏らす。


「ヤバ……超格好いい……!」


その声には、尊敬とも憧れとも違う、確かに“ときめき”の響きが混ざっていたのだった。


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