82 クソ迷惑な女のモフモフ
青く澄み渡る空の下、白い雲はまるで湿り気を含んだ重たい布を引きずるかのように、ぐずついた影を抱えながらゆらゆらと漂っていた。広大な草原地帯には、湿気を孕んだ風が途切れ途切れに流れ込み、足元一面に広がる草をざわざわと、ざわざわと揺らしている。風に混じるのは、今にもぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてきそうな、抑え込まれた気配だった。
耳に届くのは、羊たちの低くくぐもった鳴き声――まるで地鳴りのような、うなり声にも似た音と、風が葉や茎を擦る、しゃらり、しゃらりという乾いた音だけである。視界はのどかで、空気も静かだ。とはいうものの、その静けさの底には、確かに薄く張りついた緊張が潜んでいるのを感じ取れた。
その草原の中央で、明らかに異彩を放つ存在があった。
一両編成の次元列車である。
羊、羊、羊。
数え切れないほどの羊の群れにすっぽりと包囲され、次元列車はすでに1時間ほど、その場から一歩も動けずに立ち往生していた。機関車部分が短くクラクションを鳴らす。ぷぺ、と情けない音が響いたものの、それは威圧感など微塵も持たず、羊たちの力強い鳴き声にあっさりとかき消されてしまう。
それでも列車は諦めない。
言葉が通じるはずもない相手に向かって、健気にも訴え続けているのだ。
「羊さん達。僕は早く三華月様をS王国へ連れて行き、異世界から転移してきた佐藤翔を救わなければならないのです。そろそろ周りから動いてもらえませんか」
――もちろん、動くはずがない。
とはいうものの、それも当然の話である。
なにせ、私が羊たちに直接お願いしたのだから。
『死にたくなければ、草原を走るポンコツ電車を囲んで、動けなくしておきなさい』
そう、はっきり命令したのである。
私は魔物や地上世界の動物と会話できる能力を持っている。非常に便利な力ではあるものの、使いどころを間違えれば「痛い子」扱いされかねないため、普段はなるべく控えめにしていた。とはいえ今回は別だ。私の依頼に応え、羊たちは命懸けで列車の動きを阻んでくれている。
その結果、次元列車は外側からぐらり、ぐらりと揺さぶられ、わずかに左右へ傾きながらも、進むことも逃げることもできず、静かに立ち尽くす羽目になっていた。
「三華月様。羊達を何とかしてもらえないでしょうか」
困り切った声が車内に響く。
「羊さん達にも、何かのっぴきならない事情があるのかもしれませんし、私達の方も急ぐ旅でもないのですから、動いてくれるまで気長に待つことにしましょう」
――のっぴきならない事情というのは、“私にラム肉にされないため”というだけのことだが。
まあ、わざわざ口に出す必要もないだろう。
次元列車は、佐藤翔をこちらの世界で更生させ、地上へ返すべきだという私の提案を受け入れ、S王国へ向かっていた。
しかしながら、私は佐藤翔を更生させる気など、微塵も持っていない。
だからこそ、羊の力を借りて、敢えて足止めをしているのだ。
神託によってS王国の崩壊は未然に防いでしまった。とはいうものの、チートスキルを駆使して経済をかき乱し、荒稼ぎしていた佐藤翔には、必ずハイエナ共が群がる。蛆虫とは、どこからともなく湧き出る存在のことだ。少し時間を稼ぐだけで、彼は私の望む通り“復活”することになる。
私は、この広大な草原で、のんびり過ごしていればいいだけなのである。
車内には、周回衛星から送られてくるS王国内情勢の立体フォログラムが映し出されていた。ふわりと浮かぶ光の映像を、気の向くまま眺めていると、その中に見覚えのある人物の姿が、ちらりと映り込んできた。
――帝国の教会にいるはずの聖女・藍倫。
「あら、何故、藍倫がS王国にいるのかしら」
「佐藤翔を捕縛するため、S王国が帝国に応援を要請し、教会が聖女・藍倫様を派遣したようです」
次元列車は、間を置かず即座に答えてくる。
藍倫は15才で聖女となった鬼才であり、教会の未来も、世界の行く末も背負う逸材中の逸材だ。優秀ではある。とはいうものの、どうにも私の思惑と違う行動ばかり取る、厄介者でもあった。
映像を見る限り、ハイエナたちはすでに佐藤翔に接触しているようだ。
とはいえ、奴らごときが藍倫たちを止められるはずもない。藍倫自身がA級相当であり、さらに護衛として、地上世界で私に次ぐ実力を持つ、超S級の死霊王がついているのだから。
帝国も、よくまあこんな危険物を、平然と送り込んだものだと感心する。
このまま放置すれば、佐藤翔は確実に捕縛される。
となると、選択肢は1つ。
アンデッドを始末するしかない。
世界を滅ぼす力を持つ彼を、浄化できる存在は、私以外にはいないだろう。死霊王は信仰心を稼ぐ対象にならなかったため、これまで放置していた。だが、まさかこんな形で障害になるとは思わなかった。
今更ながら、ここで片付けさせてもらおう。
ただし、問題が1つある。
奴の『千里眼』だ。
草原から2000km離れた位置から狙撃すること自体は可能である。だが、千里眼は“見えない攻撃”すら捕捉する。つまり、普通に撃つだけでは意味がない。奴を仕留めるには、『ロックオン』を刻み、『転移』を利用して、0秒で撃ち抜く必要がある。
さて、どうするか――。
……うむ。
『ロックオン』を刻むために、あいつを使ってみるとしようか。
そう考えながら、ひときわ大きな魔石を手に取り上げると、次元列車は、その動きに即座に反応してきた。
「……その手のひらにあるもの。もしかして、魔石、ではありませんか?」
かすかに震えた声。
視線は、真っ赤に脈打つ小さな結晶へと、ぴたりと釘付けになっている。
「はい。これは、S級相当の魔物からドロップした魔石でして」
「まさか……それ……。以前、帝国で大虐殺を行っていた魔獣の……魔石、だったり?」
「よくお気づきで。ご指摘の通り、これは『黒猫の黒ちゃん』と呼ばれていた魔獣の魔石です」
言った瞬間、相手の表情が、ぴしりと固まった。
空気が張り詰める。
警戒、恐怖、そして――あきらめの混ざった、深い溜息。
「三華月様。そんなものを持ち出して……まさかまた、良からぬことを考えているのではありませんか?」
全力で疑われている。いや、もはや確信している顔だった。
“また良からぬこと”――とはいうものの、なかなか鋭いではないか。
魔石には、元となった魔物の“設計図”が記録されている。
次元列車はそれを読み取り、復元に利用できるのだという。直径は約2cm。真紅の光が、どくん、どくんと規則正しく脈打ち、まるで今も命が宿っているかのようだった。
「これから次元列車さんの力を借りて、黒猫の黒ちゃんを復活させようと思っています」
黒猫の黒ちゃん――。
かつてこの世界に召喚された、クソ迷惑なビーストテイマー女が飼っていた魔獣だ。ふわふわで、妙に愛嬌のある見た目をしていたものの、その本性は、女の障害となり得る者を闇に葬り去る、冷酷無比な暗殺獣であった。
女は帝国で英雄として讃えられ、人々は手のひらを返すように彼女に従った。逆らえば殺される。そんな噂が瞬く間に広がり、彼女の望みはすべて叶い続けた。
だが――私が黒ちゃんを討伐した瞬間、状況は一変した。
潮が引くように人は離れ、女はあっけなく犯罪者として牢獄送り。
哀れな話だ。とはいうものの、自業自得だったのかもしれない。
以来、黒猫の魔獣の“設計図”を保管し、復元のノウハウも握っている。組み立てに要する時間は、ほんの数秒。ただ、ひとつだけ足りないものがあり、それを次元列車に融通してもらう必要があった。
魔石を軽く掲げ、言葉を落とす。
「次元列車さん。黒猫の黒ちゃんを復活させるためのエネルギーを、少し分けていただけませんか」
「……何のために、その魔獣を復活させるのですか?」
問われるまでもない。
答えは、最初から決まっている。
何のためって――もちろん、私のために決まっているじゃないですか。
とはいうものの、わざわざ教える必要も、ないのだけれど。




