77 魔界へ繋がる回廊
石床の中央――
そこに、異様な物体が転がっていた。
全身を幾重にも、幾重にも鎖で巻かれ、四肢の判別すら曖昧になったゴブリン。
もはや立つことも、這うことも叶わず、丸められた肉塊のように床に転がされているその姿は、哀れという言葉すら追いつかない。ミノムシなのか、拘束具の集合体なのか、それとも新種の束縛系生物なのか――判断に迷うほどであった。
だが、その正体は明確だ。
この無惨な姿の主。
それは、不完全な転生という致命的な歪みを抱えた存在――十戒である。
私のすぐ隣には、眼鏡をかけた女子生徒――月姫が立っていた。
一見すれば、いつも通り冷静沈着。背筋は伸び、表情は整い、感情の揺らぎなど見当たらない。……とはいうものの、よく目を凝らせば、その仮面が限界を迎えていることは明白だった。
額には、ぴくりと脈打つ一本の青筋。
眼鏡の奥の瞳は、焦点が定まらず、静かに、しかし確実に“据わって”いる。
――ああ、割れている。
真面目優等生の皮が、内側から音を立てて剥がれ落ちているのだ。
原因は言うまでもない。
床に転がる、あのゴブリン――十戒が、必死になって命乞いをしたからだ。
もっとも、その哀願を、私はほんの少しだけ“親切心”でアレンジし、月姫に通訳して差し上げただけに過ぎない。
結果として――月姫の内側で蓄積されていた怒気は、臨界点を静かに超えていた。
ぱきり、と。
氷点下の空気が割れるような、錯覚じみた感覚。
実際、迷宮内の温度が数度下がったのではないかと、本気で思えるほどだった。冷気が肌を撫で、背筋を伝い、呼吸がわずかに白む錯覚すら覚える。
……うむ。
これは、実に良い兆候である。
生真面目の代名詞。真面目番長。
そんな彼女も、ついにこちら側――ややブラック寄りの思想圏へと、足を踏み入れたのではないだろうか。そう考えると、胸の奥がほのかに温まる。実に、喜ばしいことである。
さて。
十戒の処分についてだが――
正直なところ、勢いのまま一度、ブチ殺してみた時点で、予想を遥かに上回る“転生後の姿”を拝めてしまい、私はすっかり満足してしまっていた。
むしろ、もう遊び尽くした、とすら思えてしまうほどである。
とはいうものの。
現在進行形で崩壊しているその転生が、完全に壊れきるまでは、とどめを刺す必要はないだろう。
もちろん――逃げなければ、の話だが。
月姫の周囲からは、視認できないはずの重圧が、まるで実体を伴ったかのように立ち上っている。「ゴォォォ……」という低い唸りが聞こえてきそうなほどだ。
私は微笑を浮かべ、慎重に言葉を選びながら声をかけた。
「月姫。どうやら、少々ご機嫌が斜めなようですね」
「……分かりますか。斜めどころか、直角ですよ」
即答だった。
声は静か。だが、感情の刃は一切隠されていない。
「やはり、ですね。あれを聞いてしまえば、ブチ切れて当然だろうと思います。ですが、今だけ……ほんの少しだけ、その怒りを抑えていただけませんか」
「ええ、承知しています。この魔物を、どう始末するのが最も合理的か……淡々と考えていたところですから」
「ここで処分しても、どうせ転生して、また蘇りますよ」
「……なるほど。では、今は手を出さず。逃走だけ、防いでおきます」
眼鏡が、かすかに傾き、光を反射してキラリと輝いた。
その瞬間、私は確信した。
――これは、もはや委員長ではない。
完全に、インテリヤクザのそれである。
もしここが迷宮内でなければ。
十戒はとうの昔にドラム缶へ詰められ、コンクリートと共に海底へ沈められていたに違いない。そんな想像が、冗談では済まないほどの現実味を帯びて迫ってくる。
———————
私と月姫は、『幻影通り』の結界が張られた最奥――
漆黒の闇が支配する空間の、さらに深部へと戻ってきていた。
静寂は、ただそこに存在するだけで、全てを呑み込もうとするほど重い。音はない。風もない。だが、無音という名の圧が、確かに鼓膜を押していた。
その闇の中で――
魔導の精霊たちが、縦横無尽に舞っている。
虹色の光の軌跡が宙を滑り、ふわり、ふわりと粒子が散るたび、闇そのものが呼吸しているかのように微かに揺れた。
カサリ、カサリ。
砂を踏むような音と、淡い光が交錯し、空間全体が生き物のように脈打っている。
そして中心部。
白い砂利が敷かれた広場の中央には――信じがたい光景が広がっていた。
体長15mのサーペントが、なぜか正座している。
本来であれば、A級相当以上の魔物。
だというのに、背筋をぴんと伸ばし、尾を地面に揃え、微かに震えているその姿は、どこか滑稽ですらあった。
原因は明白だ。
眼鏡女子――月姫の放つ、あの鋭利な雰囲気。
シュル……シュル……と尾を揺らし、警戒しながらも完全に固まっている。
それは、恐怖というより、“逆らってはいけない存在を前にした魔物の本能的な理解”に近い緊張感だったのかもしれない。
その脇には、グレイプニルの鎖でがっちりと縛られた十戒ゴブリン。
ミノムシのように丸まり、微動だにしない。
しかも、十戒が所持していた全スキルには、すでに『SKILL_VIRUS』が注入済み。
7日後。
彼は、ただの魔物へと堕ちることが確定している。
想像するだけで、背筋がひやりとした。
私は、迷宮主の支配が及ばぬサーペントへ、ゆっくりと声を投げかけた。
「サーペント。あなたには、重要な使命があります」
≪何でしょう!! 命をかけて、必ず遂行いたします!!≫
「この、ぐるぐる巻きのゴブリンを……7日間だけ、護衛してください」
≪7日間、ですね……その後は、いかがいたしましょう≫
「その後は、『幻影通り』の外へ放り出して構いません」
≪承知しました!! 7日後、この者を地下迷宮へ戻すこと……命に代えても、必ず達成いたします!!≫
……いや、重い。
ただ見張って、外に投げるだけなのだが。
とはいうものの、魔物社会にも厳然たる上下関係が存在するのだろう。ここまで徹底されると、逆に少し心配になってくる。
そもそもゴブリンという種は、集団戦に特化した魔物だ。
だが、この地下迷宮は世界最高難度。弱すぎて、存在自体が危うい。
仮に脱出できたとしても、待ち受けるのは果てしなく続く岩砂漠の寒冷地帯。仲間と合流できる可能性など、ほぼゼロに等しい。
というものの。
仮に奇跡的に合流できたとしても――進化不能となった十戒は、種族内で奴隷扱いされるだけだ。
強くなれるのは、ほんの僅かな例外のみ。どれほど足掻いても、“ただのゴブリン”から抜け出せない。
待っているのは、地獄。
それだけである。
月姫は、相変わらず表情を崩していない。
だが、眼鏡の奥の瞳だけが、静かに、確かに笑っていた。
――あれは、処刑人の目だったのかもしれない。
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体調が回復した四十九を魔界へ送り届けるため、私たちは迷宮の最深部へと到達した。
天井も、幅も、100mを超える巨大な回廊。
それが、果てしなく、まっすぐに伸びている。
一歩、踏み出した瞬間。
空気が変わった。
ひんやりと湿った魔力の香りが肌に絡みつき、全身を駆け巡る緊張感。ここを越えれば、もう魔界だ。
進めるのは、魔神の加護を受けた者か――
あるいは、地上世界で唯一『自己再生』を持つ私だけのはずだった。
だが、月姫は違った。
影使いに呑み込まれた際、『闇耐久』を獲得し、知らぬ間に魔界適正を得てしまっていたのだ。
……本当に、彼女はどこまで強くなるつもりなのか。
四十九と月姫には、メタルスライムを同行させる。
『影使い』を操る四十九。
グレイプニルの鎖を自在に扱う月姫。
そして、高耐久のメタルスライム。
この3つが揃えば、魔界でも無双できるだろう。
むしろ、魔界側が気の毒になるほどである。
私は、四十九と月姫、そしてメタルスライムに別れを告げ――
静かに、地上へ戻る道を選んだのだった。




