54 vsドラゴン
ここは、世界に欠かせない物質を生み出す精霊たちの住処。
彼らはただ黙々と、自らの役目を果たし続けるだけの存在であり、本来であれば争いなどとは無縁の、静かで穏やかな場所であるはずだった。
……はず、だったのだが。
私のもとへ助けを求めて辿り着いた精霊――ミスリル鉱石を生み出す、世界にとって極めて重要な存在――は、眼鏡女子の案内で迷宮最下層に至った時点で、すでに満身創痍だった。
いや、正確には「満身創痍」という言葉すら生ぬるい。半身は無残にも食いちぎられ、存在そのものが薄れ、今にも消滅しかねない状態であった。
地上世界で“最強生物”と呼ばれる存在に喰われ、命も、役割も、存在意義そのものも、文字通り削り取られている。
その最強生物――黒龍。
体長は、わずか1mほど。
数字だけを聞けば拍子抜けするほど小さい。とはいうものの、迷宮内の淡い光を受けて鈍く輝く暗黒の鱗は、刃物のような冷たさを帯び、じりじりと皮膚に突き刺さる圧迫感を放っていた。
サイズなど関係ない。むしろ、この小ささこそが、油断を誘い、恐怖を増幅させる要因なのかもしれない。
このまま放置すれば、地上に供給されるミスリルは確実に枯渇してしまう。
そうなれば、武具、建築、魔導技術――あらゆる分野に致命的な影響が出るだろう。
だったら、答えはひとつ。
クソ迷惑な黒龍さんには、この場で丁寧に、そして確実に“殺処分”になっていただくしかない。
とはいうものの、ここは迷宮内部。
月の加護は届かず、私の力も完全ではない。黒龍が究極系スキルを解放してきた場合、私といえど受け切れない可能性が高いのが現実。
ドラゴンの上位種である黒龍と真正面から殴り合うなど、分が悪すぎるにも程がある。
しかし、黒龍の処刑を命じる神託が下りてきた以上、退くという選択肢は存在しない。
たとえ、その先に命を落とす未来が待っていようとも、だ。
まずやるべきことは明確だった。
黒龍を精霊から、力ずくで引き剥がす。戦闘の余波で、これ以上精霊を傷つけるわけにはいかない。
目を凝らしていくと、黒く硬質な鱗の隙間――脇腹。その一部だけが、ほんのわずかに薄く見えていた。
あそこだ。
全力を叩き込むなら、そこしかない。
信仰心が刻まれた紋様が、淡く、しかし確かな光を放ち始めていった。
次の瞬間、身体能力が一気に跳ね上がり、全身を電流が駆け抜けるような感覚に包まれ……
息を大きく吐いていく。
腰を落とし、膝に力を溜め、軸足に体重を乗せると、上半身を引き上げるようにひねり――その動きは、まるで時間がわずかに引き延ばされたかのように、周囲の空気を押しのけながら進んでいく。
(狙いは一点。鱗の甘い脇腹……)
渾身の力を込め、脚を振り抜く。
“後ろ回し蹴り”――発動。
“グシャリッ”
嫌な感触が、骨を通して脳髄にまで響いた。
腹部が不自然に凹み、内臓が押し潰される感覚が、脚越しに生々しく伝わってくる。
黒龍は噛みついていた精霊から弾かれるように離れていくと、「――ッ、ガ……ッ」
嗚咽とも悲鳴ともつかない音を漏らしながら、もがくように地面を転げ回り始めていく。
「……あれ?」
思わず小首を傾げてしまうのだが…
もっと余裕たっぷりに鼻で笑い、「痛くも痒くもないわ!!」などと豪語してくるものだとばかり思っていた。
意外にも悶え、身体をよじりながら転がる黒龍の姿に、完全に予想を裏切られた形となってしまった。
もしかすると――この黒龍、見た目ほど強くはないのか。
そんな疑念が、ふっと脳裏をよぎる。
とはいうものの。
凹んだ腹部は、みるみるうちに盛り上がり、筋肉と肉が膨張し、骨格までもが吸い込まれるように元の位置へ戻っていく。
ズズ……と不快な音すらしない、その再生能力。
トカゲめいた自己修復。
やはり“地上最強生物の上位種”と呼ばれるだけのことはあるのだろう。
ゲボゲボと喉を鳴らし、体勢を立て直した黒龍が、怒りに燃える瞳でこちらを射抜くように睨みつけてきた。
「弱者ふぜいが……強者たる我に蹴りを入れるとは、どういう了見だ。我を誰だと思っている!」
――ああ、この“俺様節”。
どこかで何度も聞いた覚えがある。
聖女になる前、教会で権力を振りかざしていた、あのパワハラ司祭。
人格は地面以下。にもかかわらず、地位だけはやたらと高かった、あの最低な男。
『俺はお前の上司だぞ』
『お前のためを思って言っている』
そして最後には、決まってこう言うのだ。
『俺ならもっとできる』
……うん。
黒龍の喋り方は、あの司祭と完全に一致している。
「お前がした今の無礼、我でなければとうに灰にされているところだぞ」
いや、もう十分キレているではないか。
大物ぶりたいのは分かるものの、隠しきれない小物臭が全身からダダ漏れだ。
なんだ、この哀れすぎるほど薄っぺらい性格は――と、鼻で笑いそうになる。
私が静かにため息を落とすと、それが癇に障ったのか、黒龍はさらに声を荒げてきた。
「おい人間、何か言え。沈黙で逃れられると思うなよ!」
「ドラゴンにも、ここまで救いようのない出来損ないがいるのだな……と、思っておりました」
「貴様……今、なんとほざいた?」
「器が限りなく小さく、たぶん群れでも総スカンを食っているのでしょうね、と言いました」
――その瞬間。
視界が、一閃した。
『未来視』。
予兆が流れ込み、黒龍が次に放つ行動――『咆哮』の光景が、鮮烈に脳裏へ焼き付いてくる。
咆哮。
それは単なる叫びではない。
全身の力を乗せ、衝撃波として解き放たれる、ドラゴンの必殺術式。
直撃すれば、私であろうと無事では済まない。
とはいうものの。
撃つ“瞬間”が分かってしまえば、回避も対処も、不可能ではない。
「それでは……さきほどよりも、さらに強烈な苦痛を味わっていただきましょうか」
静かに息を吐き、指先に力を集め、“運命の弓”を呼び出すと、空気がピリリと張り詰め、迷宮全体が沈黙したかのように感じられる。
矢を番える。
未来視で見た通り、黒龍の口が、左右に裂けるほど大きく開き始めていく。
スキル『ロックオン』。
逃がさぬ感覚が、指先から全身へと張り巡らされる。
続けて『必殺』を発動。背筋がすっと伸び、心臓の鼓動が徐々に落ち着いていく。
意識は一点に凝縮され、弓を引く手に、全世界の重さが集まっていく。
「――――」
空気が凍りつき、世界そのものが息を詰め、岩肌の砂粒一つさえ、音を立てることを忘れたかのようだ。
黒龍の口が、限界まで開いた、その刹那。
私は、矢にすべてを託した。
エネルギー――解放する。
――――――――――SHOOOOOT!
引き絞られた弓弦が解き放たれた、その刹那。
矢は空気を裂くという表現すら追いつかず、摩擦音も衝撃波も置き去りにして、ただ“光の帯”となって空間を貫いていく。
ヒュン、という音すら発生する前に、世界は結果だけを突きつけられる。まるで光そのものが意思を宿し、狙い定めた獲物へ吸い寄せられていくかのようだった。
黒龍が大口を開け、咆哮を放とうとした、その喉奥。
矢は一切の迷いなく、一直線に口腔内へ突き込まれ――次の瞬間、首の後方から爆ぜるように飛び出した。
ドンッ、と遅れて衝撃が現実を叩く。
貫通点を中心に岩壁が砕け散り、粉塵と岩片が花火のように四方へ飛び散った。小石がキン、キンと跳ね、空気そのものがビリビリと悲鳴を上げる。衝撃波に煽られ、地面の砂がさざ波のようにうねっていた。
黒龍は――自分の首が撃ち抜かれたことを、すぐには理解できなかったのだろうか。
咆哮の体勢のまま、顎を開き、目を見開いたまま。まるで時間だけが取り残された彫像のように、その場で硬直していた。
そして、数秒。
ほんのわずかな“ズレ”の後。
「……ゲボ、ゲボボ……!」
喉奥から漏れ出たのは、威厳も迫力も皆無な、情けない嗚咽だった。
黒龍はそのまま巨体をよろめかせ、地面に腹を擦りつけるようにのたうち回る。尻尾が地面を叩き、ズン、ズンと鈍い振動が伝わってくる。
「……この黒龍、本当に地上最強生物の上位種なのかしら……」
思わず疑念が口を突いて出るほど、間抜けな光景だった。
とはいうものの、事態はそこで終わらない。
撃ち抜かれ、貫通されたはずの首元が、ぬるり、と不気味な音を立てて蠢いた。裂けた肉が引き寄せられ、骨が軋み合い、血肉が粘着質に癒着していく。まるで映像を逆再生するかのように、傷口は瞬く間に塞がり、元通りの姿へと再生してしまった。
能力だけは、確かに一級品。
……ものの、その再生を誇る様子も、どこか締まりがないのが困りものだった。
完全復活を果たした黒龍は、たった1mほどの体躯を乱暴に起こし、怒りを叩きつけるように喚き散らしてきた。
「もう絶対に許さんぞ! 何度かお前を諭そうとしたが、俺の徒労に終わってしまったわ──!」
いやいや。
諭すどころか、暴言と罵倒しか吐いていなかったはずだが。
どうやらこの黒龍、自分の都合に合わせて記憶を書き換えるタイプらしい。
生かしておいても、ろくな未来が見えない類の存在であることだけは、はっきりしていた。
怒りの臨界点をとうに越えたのか、黒龍の体表からは熱の奔流が立ち上っている。
ゆらり、ゆらりと空気が歪み、視界が揺れる。地面の砂利がパチパチと音を立て、焼ける匂いが鼻を突いてきた。
――とうとう本気、というわけか。
こちらが少し遊びすぎたのも事実だが、思った以上に面倒な展開になってきている気がしないでもない。
「弱者の人間! お前は噛み殺してやる!」
――――――――――噛み殺す、だと!?
この状況で、その語彙が飛び出してくる意味が分からない。
理解が脳内で迷走し、斜め740度ほどねじ切れた末に完全停止するレベルで意味不明だった。
黒龍を前にしても微動だにしなかった私の心臓が、ここにきて初めてドクン、と跳ねていく。
――動揺している。自分でも驚くほど、はっきりと。
ならば、確認しよう。
今の“噛み殺す”発言に、何かしら隠された理屈があるのか。
それとも、ただの思考放棄なのか。
「黒龍さんに質問があります。少し、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ。聞いてやる」
不機嫌そうに鼻を鳴らしつつも、黒龍は応じた。
「黒龍さんは、無限煉獄とか、永久凍結とか、雷神天槌……そういった究極系スキルは、使用されないのですか」
「我はドラゴン種族最強の強度を誇る黒龍だ! そんなものは必要ない!」
“必要ない”と言い切るその自信は見事だが――問題は、そこではない。
――使わないのか。
それとも、使えないのか。
「今一度、はっきりさせてください。黒龍さんは、私のような雑魚相手には究極系スキルを使う必要がないとお考えですか。それとも、最強の強度ゆえに、そもそも究極系スキル自体を獲得していないのでしょうか」
「我は究極の強度を極めし存在だ! そんなスキルなど、獲得する必要はないわ!」
……ああ。
なるほど。
つまり――究極系スキル、使えないのか。
斜め740度を超え、斜め1100度へ突き抜ける回答に、思わず笑いが込み上げてくる。
楽しすぎる。この黒龍。
肩を震わせて笑っていると、黒龍は泡を吹きそうな勢いで怒気を膨らませてきた。
「弱者の人間! 何故、笑っている!」
「ドラゴンなのに究極系スキルが使えないからです。硬いだけのドラゴンって、相当ダメな部類じゃないですか。それでいて、どうしてそんなに威張っていられるんですか」
「人間……お前のせいで、人族が滅ぶことになったぞ」
黒龍の顔面は、怒りで完全に崩壊していた。
釣り上がる目尻、浮き出る青筋、歪みきった口元。まるで三流悪役の見本市である。
この黒龍、クソ雑魚なうえに、救いようのないほど馬鹿なのだろう。
自分がすでに“処刑される側”であることに、まるで気付いていないのが不思議でならない。
――そろそろ、現実を教えてあげましょう。
――――――私は『物干し竿』をリロードさせてもらう。
その瞬間。
空気が重く沈み、神気が世界の根幹へと圧し掛かる。音は剥ぎ取られ、風も振動も消失し、世界は完全な無音に包まれた。色彩は一気に褪せ、視界はセピア色へと沈んでいく。
黒龍の動きもまた、粘度の高い水底へ沈むように、ゆっくり、ゆっくりと停止していった。
どうやらこの黒龍、“時が静止した世界”では完全に無力化されるタイプの雑魚らしい。
止まった世界の中で、地面がミシリと音もなく割れ、その亀裂から姿を現す。
――“物干し竿”。
月を周回して帰還し、アダマンタイト装甲すら粉砕した、全長10mの規格外兵器。
無音の空間で、『物干し竿』は私の横をゆったりと旋回し、黒龍へと正確に照準を合わせる。
そして。
ゆっくりと音が戻り、色彩が世界へ流れ込んでいく。
――――――――――時が、動き始めた。
傲慢に吠えていた黒龍は、眼前に出現した巨大な矢を認識した瞬間、顔を引きつらせた。
次の瞬間、なぜか敬語を選ぶという、謎の行動に出てきた。
「せ、聖女さまに質問させていただきます。その巨大な神気を帯びている棒は……もしかして、神槍なのでしょうか」
「私は史上最強に鬼可愛い聖女ではありますが、さすがに神槍なんて代物をリロードすることは出来ませんよ」
「で、では……僕に照準を定めているそれは……一体、何なのですか」
「これは二六話で月を周回して戻り、アダマンタイトを破壊した矢です」
黒龍の喉が、ゴクリと鳴らした。
声は震え、先ほどまでの横柄な態度は微塵も残っていない。
どうして急に敬語になったのか。
答えは単純明快。――命が惜しいからだ。
月の加護を秘めた全長10mの『物干し竿』は、リロード済みの運命の矢と完全にシンクロしている。
私は弓を引き絞り、ただ放つだけでいい。その軌道を、“物干し竿”も寸分違わず追随する。
黒龍は両手を合わせ、頭を地面に叩きつける勢いで下げていた。
「生意気なことを言って、すいませんでした。命だけは、どうか……!」
「私は今日、耳が日曜日なのです」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「古代文明の言葉で『聞こえていない』という意味ですよ」
「い、いや……聞こえていますよね。僕の声、ちゃんと……」
それが、黒龍の最後の言葉となった。
―――――――――――SHOOT
音より速く、光より鋭く。
運命の矢は世界を貫き、黒龍は断末魔を上げる暇すら与えられず、跡形もなく消滅した。




