53 真っ当な反応だな
ここは『幻影通り』に建ち並ぶ酒場。
四十九はテーブルに腰を下ろしたまま、睡魔に抗いきれずにいた。背中がゆっくり丸まり、眼鏡の奥で焦点を失った瞳が揺れている。次の瞬間、すう、と力の抜けた息が零れ、そのまま意識が沈んでいった。
それに真っ先に気づいたのが、カウンターの向こうにいた眼鏡の少女だった。
彼女は慌てる様子もなく、むしろどこか慣れた仕草で四十九の様子を確認すると、自然で柔らかな微笑を浮かべている。そして音も立てずに近づき、「こちらへ」とでも言うように軽く手を差し出し、奥の従業員休憩室へと彼女を案内してくれた。
その後も彼女は、何事もなかったかのように片付けを続けていく。
カチャ、カチャ、とグラスが重なる乾いた音。布巾でカウンターを拭く手つきは無駄がなく、動線も美しい。見た目通り、いかにも委員長タイプ、と言えばそれまでだ。──ものの、ここまで隙のない所作を見せつけられると、思わず感心してしまうのも事実だった。
やがてすべての作業を終えた彼女は、湯気の立つマグカップを手に取り、私の隣、正面の席へと腰を下ろすと、ふう、と静かに息を整え、そのまま落ち着いた声で名乗ってきた。
「私は月姫といいます……名前負けしていて、すいません。こんな綺麗な聖女様の前で名乗ると、余計に恥ずかしくて」
「綺麗で可憐で青春な聖女、ですか」
「そこまでは言っていませんが……、そうだと思います」
……うむ。
あまりにも素直で、感じがいい。ここまで屈託のない肯定を向けられると、こちらが照れてしまうほどだ。
至極まっとうな評価で、反論の余地もない――とはいうものの。
こうして最初は澄んだ眼差しで私を見る者も、時間が経つにつれ、その瞳が徐々に濁っていき、最終的には“駄目なものを見る目”へと落ち着く。そんな光景を、私は嫌というほど見てきた。いや、珍しくないどころか、かなりの頻度で、だったのかもしれない。
……その話はさておき。
今は感傷に浸っている場合ではない。
私がこの場所へ呼ばれた理由。
それを探ることが、最優先事項だろう。
酒場であるにもかかわらず、日付が変わったばかりのこの時間で、すでに店は静まり返っている。カウンターの向こうに並ぶ酒瓶も、火を落としたランプも、どこか「用は済んだ」と言わんばかりだ。さすがにこれは、違和感が強い。
まずはここから、探るべきかしら。
「私は三華月といいます。日が変わる頃とはいえ……随分と静かな酒場ですね。閉店には、少し早いのではありませんか?」
本当に、ただの軽い疑問だった。
雑談の延長のつもりで投げた一言だったのだが。
月姫は、ふう、と深く沈んだ吐息をひとつ零した。立ち上る湯気が、彼女の眼鏡をじわりと白く曇らせる。カップを両手で包み込む仕草には、拭いきれない疲労が染みついていて、マグカップを置く指先が、かすかに震えているのがわかる。
「聖女様のおっしゃる通りです。本来なら、もう少し遅くまでやっているのですが……今は、精霊さんの一大事でして」
その言葉だけで、空気が一段重くなる。
「この幻影通りの男達は全員、地下迷宮へ降りてしまっているのです」
地下迷宮。
精霊。
嫌な単語が、次々と繋がっていく。
「なるほど。私は精霊を守る使命があり、ここへ来ました」
そう告げた瞬間、月姫の表情が、はっとしたように明るく――そして、すぐに縋るような色を帯びていく。
「やはり……! 聖女様は精霊さんに呼ばれて来てくださったのですね。神聖職の方でも、幻影通りには入れないはずなのに……おかしいなと思っていたのです。そういう事情だったのですね」
彼女の言葉は、まるで絡まっていた糸がほどけていくようだった。
私の存在が、この異常事態の“答え”だと信じて疑っていない。
地上世界の精霊は、どれもが固有の役割を持つ重要存在である。
月姫の話によれば、この幻影通りの精霊は『ミスリル鉱石』を精製する存在であり、ドワーフ族が代々、その守護を担ってきたという。
精霊の加護が街の繁栄を支え、高純度のミスリルが生み出される。
それは交易路を巡り、剣となり、鎧となり、時に命を守る盾となる。
世界の隅々まで行き渡る、文明の血液。まさに世界の心臓部と呼ぶにふさわしい役割だったのだろう。
月姫自身も、ドワーフ族らしい。
――ものの、その外見はどう見ても、優等生気質の人間族少女だ。無骨さも、豪胆さも、髭の一本すら見当たらない。血筋と外見が、ここまで噛み合わないこともあるのか、と妙な感心をしてしまう。
「聖女様、聞いてください」
月姫は身を乗り出し、声を落として続けてきた。
「先日、地下ダンジョンの奥……精霊さんのいる場所に、どこからか黒龍が現れ、居座ってしまったのです。そして、そいつが『ミスリル鉱石』を……食べてしまっていて……」
……ミスリルを、食べる、のか。
その事実だけでは、精霊が私を呼ぶ理由としては、やや弱い。
いや。
それだけではないはずだ。
黒龍が“そこに居座る理由”そのものが、あまりにも不穏だった。
偶然、では済まされない。精霊の領域に、黒龍が腰を据えるなど、どう考えても異常事態だ。
月姫は、祈るような声で、さらに言葉を重ねていく。
「ミスリルが採れなくなると、街が本当に困ってしまいます。だから男達は、聖剣『ドラゴンキラー』を手に、黒龍討伐に挑んだのです……でも、勝てるはずがありません」
ぎゅっと、胸元で手を握り締める。
「どうか……どうか、聖女様のお力で、傷ついた皆を癒してあげてください」
祈るような視線。
小刻みに震える肩。
必死に抑えた声の奥から、恐怖と希望が、波のように押し寄せてくる。
……ものの。
私は、首を横に振るしかなかった。
「申し訳ありません……歴史上もっとも可愛い聖女なので、回復の天才だと誤解されがちなのですが」
一拍置き、はっきりと告げていた。
「私は武闘派でして、治癒スキルは使えないのです」
――その瞬間。
月姫の瞳が、ぱちりと大きく見開かれ、まるで時間が止まったかのように、彼女の身体が固まり。静止してしまった。
……まあ、当然の反応だろう。
外見だけを見れば、奇跡を振り撒く存在そのものなのだから。
――なのだが。
現実は、いつだって残酷である。
とはいえ、問題はそこではない。
もし、精霊が私を呼んだ理由が、“黒龍討伐”そのものだったとしたら。
それは、完全に無理ゲーだ。
月の加護が届かない迷宮の奥。
精霊が究極系スキルを振るえば、こちらに残される対処手段は、ほとんどない。
外で耳にした枝葉のざわめきが、ザワ……ザワ……と、死の予感となって肌を這う。そんな錯覚すら覚えてしまう。
神から授かった使命により、精霊が呼ぶ以上、応じない選択肢はない。
とはいうものの、この流れは、あまりにも気が重い。
胸の奥で、不安だけが、じわじわと音を立てて広がっていく。
固まったままの月姫が、ようやく我に返り、震える声で、小さく問いかけてくる。
「つまり……聖女様は、黒龍を討伐するために、来てくださったのでしょうか……?」
「きっとそうなのでしょう。全くやる気はありませんが、人助けは聖女の務めですし、嫌々ではありますが……そのクソ迷惑な黒龍を討伐するために、命を懸けて努力しようと思います」
その言葉を聞いた瞬間だった。
月姫は椅子から弾かれたかのように立ち上がり、ぱっと表情を明るくすると、静まり返った酒場の空気を、歓喜の声がビリッと切り裂き、店内の温度が一気に上昇したかのようだった。
人間の力が到達する最強クラスはS級と呼ばれる。
しかしドラゴンだけは、その上に位置する。唯一、絶対的に認められた最強位、“ドラゴン級”。月の加護が届かない状況で勝てる気など、さらさらなかった。いや、生還できるかどうかすら怪しい。
「聖女様。迷宮へ向かった者たちを、急いで助けに行ってください!」
「承知しました。まったく気は進みませんが……とはいうものの、黒龍討伐に向かうしかなさそうですね」
そう口にした瞬間、胸の奥がざわりと波立っていく。今この瞬間にも、迷宮のさらに奥深くで、ドワーフの男たちが無残に命を奪われているのだろうか。
眠っている四十九には、「私を探さないでください。」と、最低限の置手紙だけを残したはずだった。
それなのに月姫は、余白を見つけるや否や、「すぐ戻るので安心してください。」と、几帳面な文字で追記してしまったのである。
チッ……。
置手紙の“味わい”が完全に薄れてしまったではないか。
地下迷宮の入口は、酒場の隣に建つ古びた石造りの建物の中に、ひっそりと息を潜めるように存在していた。扉をくぐった瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫で、まるで地の底へと引きずり込まれるかのような錯覚に襲われる。
幅も高さもおよそ5mほどの大階段が、ゆるやかな角度で下へ下へと続いていた。
コツ、コツ、と足音が反響するたび、静寂が薄く裂け、すぐにまた飲み込まれていく。
天井と壁に埋め込まれた発光石は、淡く柔らかな光を放ち、地下とは思えぬほど明るい。
とはいうものの、その光が届く範囲の外側には、確かな“闇”が口を開けて待っているのが分かる。
先を歩いていた月姫が、不意に足を止めた。
壁際の一枚の石板を見つけると、指先で軽く、コン、と叩く。
「聖女様。こちらに隠し扉があります。少々危険なため、私以外は使用しておりませんが……こちらを通れば近道となります」
「つまり、これから近道を使う、というわけですか?」
「はい。それほど危険ではありません。どうか、ついてきてください」
――いや、その言い方は、どう考えても信用できない。
とはいうものの、ここまで来て案内役を疑っても仕方がないのだろう。
月姫が押し開いた隠し扉の先に広がっていたのは、思わず息を呑むほどの断崖だった。
足元には、幅も心許ない一本道が続き、しかもところどころで道が途切れている。
わずか1cm、踏み外すだけで奈落へ真っ逆さま。落ちた先に待つのは、軽口では済まされない“終わり”である。
だが月姫は、その断崖をまるで散歩道のように進んでいく。トン、トン、と軽やかに跳び移り、その動きは風に身を委ねているかのように自然だった。
筋肉の無駄な緊張はなく、重心移動は完璧。
恐怖という概念そのものが、彼女の中には存在しないのかもしれない。
インテリは運動音痴、という定説を、彼女は完全に覆しているのか。
あるいは、頭のネジが何本か抜け落ちた結果、恐怖心だけを置き忘れてきたのか。
いずれにせよ、只者ではない。それだけは疑いようがなかった。
やがて、最下層へと到達すると、視界いっぱいに荒々しい岩地帯が広がっていた。10mほど上空の裂け目から差し込む淡い光が、地形全体を幽かに照らしている。小さな岩山がいくつも影を落とし、その隙間を抜ける風が、ざわ……ざわ……と不穏な音を運ぶ。奥の闇からは、皮膚の下に冷たい針を差し込まれるような“圧”が押し寄せてきた。
普通の者なら、たった一歩踏み込むだけで正気を削られるだろう。
最下層入口付近では、幻影通りの男たちが陣を敷いている。しかし、その圧に押され、前に進むことすらできず、足が地面に縫い止められたかのように動けないでいた。
その中の一人、若い少年がこちらに気づき、必死の声を張り上げてきた。
「――月姫!」
ドタドタッ、と岩肌を蹴る靴音。
細い通路の奥から、少年が息を切らしながら駆け寄ってくる。
背は高く、日々鍛えていることが一目で分かる引き締まった体躯。
腰には、淡く神気をまとった剣――《ドラゴンキラー》が下げられていた。
月姫の幼馴染。
そして勇者候補……らしい。
とはいうものの、現時点の実力はD級相当、といったところだろう。竜圧にすら近寄れない段階では、勇者の資質があろうと、力不足は否定できない。
「ここは任せて、早く戻ってください」
私は簡潔にそう告げ、月姫と少年をその場に残し奥へ進むこととした。
そして、禍々しい圧力が噴き出す最奥へと、静かに歩を進めていく。
ズシリ、と空気が重くなり、肌にまとわりついてくる。
一歩、また一歩。
進むほどに、皮膚を針で刺すような痛みが、じわじわと強まっていく。
――ゴゴゴ……ッ。
圧が濃くなるにつれ、地の底から響くような振動が加わった。
骨の髄まで、じん、と震える。
最下層の、さらにその奥。
闇が裂けたその先に――“それ”は、いた。
精霊。
だが、その姿は、悲惨という言葉ですら生ぬるい。
透き通るはずの身体には、真っ黒な影がべったりと張り付き、内側から喰らい尽くしていた。
黒龍――。
体長はおよそ1mほど。
重油のような漆黒の鱗が、わずかな光を弾き返し、そこに存在するだけで周囲の岩壁を震わせていた。
「――グルルル……ッ」
低く、腹の底を抉るような唸り声。
呼吸するだけで空気が震え、ぞわり、と冷たいものが肌を走る。
精霊の身体は、すでに半分以上が失われていた。
おそらく、ここに眠るミスリルを食い尽くし、その“締め”として精霊の本体を喰らっているのだろう。
精霊の命は、まさに風前の灯火だった。
黒龍。
ドラゴンの中でも上位種に分類される存在。
史上最強の私でさえ、正面から挑んで勝てる保証は……残念ながら、無いのである。
となれば――まずは交渉。
そう判断した、その直後。
「……よいしょ」
そっと忍び寄り、黒龍の背をトントンッと軽く叩いた。
ピタリ、と動きが止まる。
ギロリ、と振り返った赤い瞳が、闇の中で妖しく光った。
「人族の聖女が……我に何の用だ?」
声は、炭を擦るように低く冷たい。
背骨を一本ずつなぞられるような感覚が、背中を走っていく。
「ええと……その精霊さんから離れて、この迷宮からご退場、いただけませんか?」
「ふんっ。聖女ごときが我に交渉とは笑わせる。今すぐ失せろ!」
鼻で笑い、黒龍は再びガブリと精霊に噛みつくと、精霊から「……っ!」か細い悲鳴が響き、その音が胸の奥に突き刺さってくる。
やれやれ。
どの世界にも一定数いるものだ。こういう“うんこ野郎”というやつは。
その瞬間――
私の内側に、濁りのない殺意が、すっと芽生えた。
……その時であった。
頭の奥に、澄み切った声が響いたのは。
『――そのブラックドラゴンを討伐せよ』
YES MAIN GOD。




