49 思いやりゲーム②
――思いやりゲームは、あえなく失敗に終わってしまった。
その報いとして、つい先ほど、星運と万里の手のひらを、運命の矢が一切の慈悲もなく貫いたばかりだ。
ズブリ、と嫌な感触を残して肉を穿ち、骨に触れたのか、鈍く湿った音が空気を震わせていく。
次の瞬間、2人は自分の掌にぽっかりと開いた異様な穴を目にすることとなる。
それは“今”という瞬間ではなく、これから訪れるであろう激痛の未来を直感させるには、あまりにも十分な光景だったのだろう。
「痛ぇぇぇ!」
「嫌ぁぁぁ!」
悲鳴は重なり、裂けるように響いていく。
左手からは、じわじわと、しかし確実に血が溢れ続けている。
赤黒い雫が、ぽたり、ぽたりと影の地面に落ちていき、乾くことなく広がっていく様子がやけに生々しい。
この状態では、箸を持って食事をするどころの話ではない。
衣服を着る、物を掴む、扉を開ける――そんな日常の些細な動作すら、まともにこなせなくなるのは明白だった。
痛みが遅れて全身を駆け巡りはじめたのか。
星運と万里は、目を限界まで見開き、額には玉の汗を次々と浮かべている。
呼吸は浅く荒れ、肩は小刻みに震え続け、歯の根がカチカチと鳴る音すら聞こえてきそうだった。
四十九と水落は、わずかに眉を寄せたまま、静かにその様子を見守っている。
一方でペンギンは、相変わらず冷え切った視線を2人に向けたまま、身じろぎひとつせず口を開いてきた。
「三華月様、急ぎましょう。処置を怠れば、2人とも出血多量で命が尽きてしまいますよ」
――もっとも。
星運の方は、すでに処刑の神託が降りている身だ。
正直なところ、ここで見殺しにしたとしても、特段問題ない。
万里に至っては、社会のゴミと評しても差し支えない存在で、どう転んだところで信仰心に影響するとは思えない。
とはいうものの。
2人には、“今ここで”死なれると困るのも事実。
私は万里に対し、「正式な処刑の神託」を降ろすつもりでいる。
そのための舞台を整える前に息絶えられてしまっては、すべてが水泡に帰ってしまうから。
早急な止血処置が必要だ。
包帯、ガーゼ、それに痛み止め。できれば水も。
「ペンギンさん。あの2人の出血を止めなければいけません。包帯とガーゼ、それから痛み止め薬と水を――すぐに用意してもらえませんか」
「何なんですかその無理難題は。私は24時間営業のチェーン店でもなければ、何でも出てくる4次元ポケットの持ち主でもありませんよ」
ぶつぶつと文句を垂れながらも、ペンギンはどこからともなく、こちらが指定した品々を取り出してきた。
ガーゼ、包帯、薬瓶、水の入った容器。
やはりというべきか。本当に優秀な奴であることは、疑いようがない。
私はそれらを受け取り、すぐ隣に立つ四十九へ視線を向け、万里への処置をお願いした。
「四十九、あなたは万里の止血を。私は星運の方を診ます」
「承知、です」
星運のそばへ歩み寄っていくと、
彼は血が滴り落ちないよう、左手首を必死に押さえ込み、大粒の涙と汗を同時にこぼしながら、子供のように泣きじゃくっていた。
喉の奥で震える、低く濁ったうめき声が、痛みの深さと恐怖の大きさを雄弁に語っている。
――あなたには、まだ生き続けてもらわないと困る。
きっと私の思惑どおり、あとで期待どおりに動いてくれるだろう。
私は“クソ外道”という生き物の思考パターンを、嫌というほど知り尽くしている。
だからこそ星運には、この先の展開を盛り上げるための“餌”を与えておく必要がある。
血がまだ滲む左手にガーゼを当て、包帯を巻きながら、万里には聞こえないほどの低い声で、星運の耳元へ囁いた。
「特別にお教えしましょう。星運、あなたにだけ――この思いやりゲームの“攻略法のヒント”を一つだけ授けます」
その瞬間。
泣きわめいていた星運の身体が、まるで氷漬けにされたかのように、ぴたりと動きを止めると…
ギロリ。
鋭くこちらを睨みつけてきた瞳には、消えかけていたはずの闘争心の火が、確かに揺らめいている。
この男は、臆病ではあるものの、生まれついての悪党気質なのだろう。
自分が有利になる可能性を嗅ぎ取った瞬間、痛みすら理性でねじ伏せてくる。
そういう種類の人間だ。
星運は激痛に顔を歪めながらも、私の口元へ耳を近づけようと、わずかに首を寄せてくる。
私は包帯をきつめに巻き終え、血が止まりはじめたのを確認してから、静かに、しかしはっきりと告げてきた。
「もし万が一、名前を書き間違えたなら――その名前に“取り消し線”を引きなさい。そして、正しい名前を書き直すのです」
言葉が落ちた瞬間、苦痛でこわばっていた星運の顔が、まるでどこかで電流でも弾けたかのように、一変した。
ぎらり、と目が見開かれ、その視線が空間を切り裂く。空気はひとつ重い層をまとったかのように、肌の上にずしりと感じられた。息をする音すら消えたかと思えば、その沈黙が逆に「続きを話せ」と首筋に刃を押し当てるような、圧迫感となって押し寄せてくる。
とはいうものの、ここから先を口にするわけにはいかない。これ以上踏み込めば、この策略の“心臓部”を丸裸にしてしまうことになる。明かしてしまえば、この勝負の意味そのものが、するりと抜け落ちてしまうからだ。
しかし、言ってしまえば、このわずかな“ヒント”こそが、この“思いやりゲーム”の軌道を決定づける、最大の鍵となる。
星運のような悪党肌――いや、狡猾さを秘めた性質を持つ者であれば、私が投げたクリティカルパスを本能で掴み取るはず……だと、信じたい。
「もう一度、よく覚えておきなさい。名前を書き間違えたら――迷わず取り消し線を引くこと。訂正は許される、その事実を決して忘れないで下さい。このヒントは必ず星運を助けることになるはずです…」
星運の瞳には、まだ濁った猜疑が渦巻いている。だが、その奥――薄闇の底に、かすかな理解の灯がぱちり、と瞬いたようにも見えていた。
視線を万里へ移す。彼女は、四十九の止血を終え、痛み止めの薬を一息に飲み干したところだ。
星運が激痛に歯を食いしばりつつも集中を試みているのに対し、万里の目はまるで“抜け殻”の言葉が似合うほどに力なく、光も熱も削げ落ちていた。
善は急げ。
二人にゲーム続行の意思があるかを問うなら、今しかない。タイミングを逃せば、決断の火は一気に冷え、再び燃え上がることはないだろう。
「確認です。もしお二人が望まれるなら、“思いやりゲーム”第2回戦を開始いたします。いかがなさいますか?」
二回戦の提案に、まず反応してきたのは万里であった。
「やるわけないだろ!1回戦で嫌というほど理解したはずだ。星運は絶対に私の名前を書かないし、私だって書くはずがない。つまり、同じ名前になるなんてありえないのよ!」
肩が小刻みに震えている。怒りか、痛みか、あるいはその両方か。判別は難しい。しかし、この状況ではむしろ正しい反応なのだろう。
一方の星運は、私が与えた“攻略法のヒント”を頭の奥で何度も反芻している様子で、表情がわずかに揺れていた。迷い、警戒、そして――ほんの一筋の希望が垣間見える。
とはいうものの、ここで背中を押す材料を提示するのは不可欠である。予定していた次の段階――今こそ“必勝法”という名の切り札を切る時だ。
「良いことをひとつ授けましょう。この“思いやりゲーム”には……揺るぎなき必勝法が存在します」
「必勝法だと!」
万里が息を詰め、星運の眉間がぴくりと震える。
先ほど星運に示したのは“攻略法のヒント”に過ぎない。しかし、今告げたのは、逃れようのない“必勝法”そのもの。
二人の表情には、怒気、疑念、希望――幾重もの感情が層を成して押し寄せ、場の空気はまるで火薬が湿気を帯びて膨張する直前のような、危うい緊張感に満ちていった。
万里がわずかに前へ身を乗り出し、鋭い声音で問い詰めていく。
「それなら早く、その“必勝法”とやらを明かしてもらおうじゃないか!」
「はい。ただし、この必勝法は……二人のうち、どちらか一方に著しく有利な策となっております。つまり今は、誰にとって有利なのか明言できません。“2回戦をやる”とお二人が宣言してから、お伝えすることにいたします」
その言葉には、“どちらか一方には必ず救いが用意されている”という、重く深い意味が宿っていた。
万里は舌打ちをし、星運は「そりゃそうだよな」と薄く笑っているが…
“有利なのは自分だ”と、都合よく信じ切っているのだろう。なんとも平和な男だ。
そんな二人を見下ろす位置で、足元のペンギンがぽつりと声を落としてきた。
「三華月様。必勝法が存在すると知ったとしても、星運と万里は、再び失敗すれば身体を撃ち抜かれる――その恐怖がまだ心から消えてはいません。やり直したいと願っても、一歩を踏み出せないのが自然ではありませんか」
確かに、この“思いやりゲーム”には、誰の目にも分かるほど痛烈なペナルティが存在していた。
白紙の用紙が一枚。
そこに、カウントダウン10秒以内で名前を書く。
自分の名前か、相手の名前か。
もし2人が同じ名前を書けば無罪。
どちらか一方を思いやることができれば、最低でも1人は確実に助かる。
だが、名前が揃わなかった場合は、私は“運命の矢”を放ち、その身体を正確に射抜く。
もちろん即死するほどの威力ではない。とはいうものの、肉を抉り、骨を震わせる痛みは一切容赦しない。
逃げ場のない激痛が、確実に刻み込まれる仕組み。
ペンギンの指摘は、至極まっとうだった。
星運と万里の2人の足が、すぐには前へ進まない理由も明白。
それは、先ほど受けた“矢の痛み”が、まだ記憶の底で生々しく疼いているからだろう。
皮膚の奥、筋肉の奥、もっと深いところで、ズキズキと嫌な感触が蘇っているに違いない。
というものの、その恐怖をやわらげる方法も、当然こちらには準備してある。
「皆様。第2回戦については、ルールを一部変更いたします」
静かな声だった。
しかし、その一言が放たれた瞬間、空気がピン、と張りつめていく。
「第2回戦は……たとえゲームに失敗しても、ペナルティを科しません」
その言葉が空間に染み込んだ瞬間。
星運と万里の表情が、ほぼ同時に弾けた。
「……っ!」
2人とも思わず前のめりになり、肩がわずかに跳ねている。
喉奥で、ごくり、と小さく唾を鳴らす音すら聞こえてきそうだった。
“ノーリスク”“無料”。
この2語に弱いのは、人間という生き物の、どうしようもない本能なのだろう。
とはいうものの、それは古来より他者を油断させるための、最も甘美で、最も危険な餌でもある。
追い詰められた状態の星運と万里には、わずかな疑心が残っていたとしても、もはや選択肢など存在しなかった。
進むしかない。
立ち止まれば、待っているのは確実な破滅だ。
「繰り返します。第2回戦はノーリスクで『思いやりゲーム』を行います。もう弓矢で身体を撃ち抜くような、あの無慈悲なルールは一切ありません。どうぞ安心して下さい」
「聖女様……ノーリスクというのは、本当なのですか?」
星運の声は、期待と疑念が入り混じり、微妙に上ずっていた。
「もちろん。本当ですよ。私が責任を持って保証します」
「聖女様……ありがとうございます!ノーリスクなら、俺はやります!」
勢いよく言い切る星運に対し、万里は一拍置いたまま沈黙を挟んできた。
視線は鋭く、思考を深く沈めているのが分かる。
「万里はどうなさいますか?」
「……分かった。その条件なら、私も参加しよう」
星運は身を乗り出すように前へ。
万里は静かに、しかし確信を帯びた声で応じている。
2人の覚悟が、場の空気をじわりと変え、温度をわずかに押し上げていく。
その横で、ペンギンがこちらを見ていた。
まるで“どうしようもない駄目なやつを見る目”だ。
一応、私は鬼可愛い聖女のはずなのに、なぜこんな視線を向けられるのか。
とはいうものの、もう何度も浴びせられてきたので、完全に免疫がついてしまっていた。
気がつけば、星運と万里までもが、同じような無言の圧をこちらへ向けている。
“さっさと必勝法を言え”。
そんな声なき要求が、重くのしかかっくる。
沈黙は、もはや皮膚を刺すほど鋭い。
「それでは約束通り、思いやりゲームの『必勝法』をお教えしましょう」
私は指を一本立て、淡々と告げていく。
「カウントダウンが開始されたら、10秒以内に用紙へ自分か相手の名前を書かねばなりません。ただし――そのカウントダウンは、2人が合意しない限り始まりません」
星運が目を瞬かせている。
「開始前の交渉は完全自由。それまで、私は一切干渉しません」
星運は首をひねり、頭の上に「?」を浮かべたような顔で固まっている。
一方で、万里の瞳には、刃物のような光が宿っていた。
言外の意図を、即座に読み取ったのだろう。
さすがと言うべきか、星運よりも頭の回転が速いのは明らかだった。
万里は、ゆっくりと手を挙げてきた。
「用紙に名前を書き始めるまで。つまり、カウントダウンを開始するまでは……私は何をしても自由、という解釈でよいな」
「はい。おっしゃる通りです」
「どういう事だ!俺にも分かるように言ってくれ!」
焦った星運が割り込むが、万里は一瞥すらくれず、冷ややかに言葉を続けてくる。
「つまりだ。カウントダウン中であれば、私が星運を殺害したとしても……何のペナルティも発生しない。そういうことだな」
「はい。問題ありません。カウントダウンがゼロになるまでなら、相手を殺しても構いません」
その瞬間。
万里の表情が、ゆっくりと変貌していった。
口元に浮かぶ、静かな笑み。
それは勝利を確信した者だけが見せる、冷え切った微笑だった。
まるで空気が、数度下がったかのように感じられる。
星運はまだ理解の途中で、必死に思考をかき集めている。
そんな彼に向けて、万里はとどめを刺すように言い放った。
「つまり星運様は、私にこう言えばよいのです。『俺の名前を書け。従わなければ、今すぐ殺す』と。強制的に私へ星運様の名前を書かせれば、星運様の勝ち。……理解頂けたでしょうか?」
「なるほど……万里を脅して俺の名前を書かせれば……」
一瞬、納得しかけた星運だったが、次の瞬間、顔を歪めて叫んだ。
「いや無理だろ!俺の方が弱ぇんだよ!どう転んでも俺が殺される未来しか見えねぇ!これ、完全に万里だけが得する必勝法じゃねぇか!三華月!お前、俺を騙したな!」
顔を真っ赤にし、声を張り上げる星運。
だが、真理はあまりにも単純だった。
『思いやりゲーム』の必勝法とは――
戦闘力の高い者が、絶対的な支配者となる。
それだけの、残酷な理である。
万里は使えない左手をだらりと垂らし、右手でゆっくりと刀を抜いていく。
シャリ……と、刃が鞘を擦る音が響いている。
それはまるで、静かな破滅の足音だった。
空気がピン、と張りつめ、呼吸すら重くなる。
星運は、その殺気に押し返されるように、無意識のうちに数歩後ずさっていく。
「畜生……万里の名前を書かなきゃ殺されるし、書いたら『無限回廊送り』だ!俺にどうしろって言うんだよ!」
「私は星運を、この手で確実に殺したいと……ずっと願っていた」
万里の声には、一切の揺らぎがなかった。
完全なる本心。
その場の空気は、“思いやり”などという生ぬるい概念を捨て去り、“思い殺り”へと変質していた。
私は、そっと天を仰いだ。
万里が外道の星運を殺そうとしているというのに、肝心の『神託』は、一向に降りてくる気配がない。
――うんこ同士で殺し合わせれば神託が出ると思ったが……結局、“うんこはうんこ”だった、ということなのだろうか。
策を練ったつもりが、どうやら完全に外れてしまったようである。
とはいうものの――まだ、別の手が残っていないわけでもない。




