48 思い殺りゲーム開始
万里の第一印象は、理知的で落ち着いた、いわゆる知的系のお姉さんだった。
少なくとも、最初に目に映った彼女はそうだった。
そうだったが、もうその面影はどこにもない。その知的な印象は音を立てて崩れ去っていた。
ドガッ、と乾いた衝撃音が裏庭に響く。
万里の足が星運の脇腹を容赦なく蹴り飛ばしたのだ。
知性の仮面を剥ぎ取ったその姿は、もはや冷静沈着な人のものではない。
目は爛々と輝き、口元には歪んだ愉悦が張り付いている。
まるで獲物を甚振ること自体を楽しむ、狂気的なサディストであった。
蹴り上げるたび、星運の体が宙を舞い、砂と汗と呻き声が裏庭にばら撒かれていく。
星運は芋虫のように地面を這いずり回りながら、必死に両腕で頭を庇っていた。
ガッ、ゴン、と鈍い音が連続し、蹴りの衝撃が骨を通じて伝わっているのが分かる。
防御と呼ぶにはあまりにお粗末で、ただ生き延びたいという本能だけが体を動かしている状態だった。
やがて、その体がごろりとこちらへ転がり、星運は急に動きを止めたかと思うと、不意にその場で姿勢を正し――。
ぺたり、と。
地面に額を擦りつける、完璧な土下座を決めてきた。
「聖女様……! 俺は、本当に『盗魔の鎖』なんて聞いたこともなかったんです……! どうか……どうか信じて下さい……!」
声は掠れ、喉が裂けそうなほど震えている。
もはや人としての体裁など残っていない。命を握られた者が絞り出す、濁り切った哀訴だ。
「無限回廊墜ちは……どうにかならないんですか……? 俺に……俺に、せめてもう一度だけ……もう一度だけ、機会を下さい……!」
裏庭を満たす熱気と、舞い上がった砂埃に、その声は今にも溶けて消えそうなほど弱々しい。
とはいうものの、額を地へ押しつけるその土下座だけは、異様なほど力がこもっていた。
爪が土を掴み、肩が小刻みに震え、全身で「生」を掴み取ろうとしている。
――生への執着。
その一点だけは、どこまでも図太く、そして醜悪だ。
盗魔の鎖。
水落の心臓を締め上げていた、あの黒く禍々しい呪具。
星運の“奴隷”として水落が積み上げてきたあらゆる成果を、すべて万里の功績へと転嫁する、悪意を具現化したかのような代物。
知らぬはずがない。
知らなかったなどという言い訳が通るはずがない。
必死に否定を繰り返しているものの、この男にはすでに“処刑の神託”が下っている。
本来であれば、救いの余地など一片も与える必要はない。
ジャッジメントによって無限回廊墜ちが確定した瞬間、星運は最後の矜持すらも投げ捨てていた。
土下座の姿勢を崩さぬまま、視線だけを必死に動かし――、四十九に支えられて地面に座り込む水落を見つけると、縋りつくように叫んできた。
「水落! お前からも聖女様に頼んでくれ! 一生に一度の頼みなんだ……どうか……頼む!」
その声に、裏庭の空気が一瞬、凍りついく。
「絶っ対に嫌!」
水落の返答は即答だった。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、真っ赤に腫れた目で星運を射抜く。
そこには迷いも、躊躇もない。
性奴隷を強いた相手に「助けてくれ」と懇願するとは、どれほどの厚顔無恥なのか。
外道という言葉をそのまま人型にした存在――そう値踏みしたくなるほど、冷え切った視線だった。
外道というカテゴリで言えば、万里もまた似た穴を抱えているのだろう。
――そう。
だからこそ、万里をこのまま無限回廊へ落とし捨てるのは惜しい。
信仰心を刈り取る素材として見たとき、これほど歪みきった逸材は稀有だ。
であれば、私がやるべきことはただ一つ。
場を整え、万里へ“処刑の神託”が下るよう導くこと。
私はわざとよく通る声で、足元のペンギンへ問いかけた。
「ペンギンさん。少々、お伺いしたいことがございます」
ペンギンは、ギロリとこちらを見上げきたその顔は、「また厄介ごとを持ち込む気だな」とでも言いたげだ。
さすがは最古のAI。私の意図など、手に取るように読んでいるらしい。
とはいうものの、渋々といった様子で小さく頷いてきた。
「ひとつ確認です。『ジャッジメント』の審判と、これから私が下す裁定とが矛盾した場合について、伺いたく思います」
「三華月様……公正を旨とするジャッジメントは既に、星運と万里を無限回廊送りと決したところです。まさかとは思いますが……その結論を覆されるおつもりですか」
「はい。ご推察のとおりです」
「……何を問われたいかは、概ね想像がつきますが……一応、お話は伺いましょう」
「私の裁定は、ジャッジメントの決定よりも優先される。――その認識に、相違ないということでよろしかったでしょうか」
言い終えた瞬間だった。
ペンギンは「また訳の分からないことを始めたぞ」という表情を隠そうともしない。
泣き崩れていた水落は、ようやく呼吸を整えつつある。
四十九は場の空気を読みながらも、微動だにせず成り行きを見守っていた。
私は、これから行わせる“思いやりゲーム”に彼らを巻き込むため、あえて希望を与えている。
ジャッジメントの裁定すら覆せる――そう示すことで、外道2人の期待を意図的に煽っているのだ。
案の定、ペンギンは予想どおりの返答を口にした。
「もちろんです。この地上世界においては、何よりも三華月様のお言葉こそが至上の律。ジャッジメントの裁きすら凌ぎ、最優先されることに一片の曇りもありません」
完全に意図を読み切った様子で、ペンギンは呆れたように小さく肩をすくめる。
四十九と水落は、まだ理解が追いつかないのか、戸惑いの表情を浮かべていた。
万里は目を見開いたまま、興味と警戒を同時に孕んだ視線を私へ向けている。
星運はというと――。
ドンッ、と。
土下座のまま、勢いよく額を地面へ叩きつけてきた。
「聖女様……! この命をお救いくださり、心の底から感謝申し上げます!」
必死すぎるほどの土下座。
もはや芸術の域に近い。とはいうものの――。
私は助けるなど、一言も言っていない。
むしろ、助けるつもりなどこれっぽっちも無いのだ。
目的は信仰心の獲得。
そして万里を、簡単に無限回廊へ落とすには惜しいという、それだけの話である。
「さて――」
私は静かに、しかし確かな抑揚をつけて告げる。
「無限回廊送りが確定してしまった星運と万里の2人には、特別に恩赦の機会を授けましょう」
星運は地面へ頭突きを繰り返しながら、感謝の言葉を洪水のように並べ立てている。
一方、万里は深く眉間にしわを寄せ、私を睨みつつも、他に選択肢が無いことを悟った顔だった。
そして私は、最後にこう宣言する。
「星運と万里には、“思いやりゲーム”に挑んでもらいます。その名のとおり、互いへの慈しみを示せるかを見極める試練です」
そう前置きしてから、私はわざと一拍置き、場の空気が静まり返るのを待った。
沈黙が張りつめたところで、淡々と、しかし一語一語を噛みしめるようにルールを語り始める。
白紙の用紙とペンを2人に配布。
カウントダウン開始から10秒以内に、“星運”か“万里”、どちらか一方の名前を書く。
本質的にはそれだけの、驚くほど単純な試験だ。
だが、単純だからこそ残酷というもの。
もし2人が同じ名前を書いた場合、その名前の主は無罪となる。
つまり、互いを思いやる覚悟が本物であれば、確実に1人は救われる仕組み――そういうことになる。
とはいうものの、思いやりの方向がほんの少しでもすれ違えば、その瞬間に即アウトだ。
片方が星運、もう片方が万里と記した場合、ゲームは失敗。
そのときは軽度とはいえペナルティとして、私が運命の矢で“死に至らない範囲”を撃ち抜くだけのこと。
説明を締めくくった、その刹那。
ドンッ、と鈍い音が響いた。
星運が地面を両手で叩き、目をむいて叫んだのだ。
「ふざけるなよ! 万里が俺の名前を書かなきゃ、俺は絶対に助からないじゃないか!」
さすが星運。
理解が速いというより、嗅覚が鋭いと言うべきか。もうこのゲームの核心に辿り着いている。
隣の万里もまた、冷え切った怒気を瞳に宿し、こちらを刺すような視線で睨んでいた。
――せっかくの無罪放免のチャンスなのに、あえて踏み込まないつもりなのかしら。
「では、“思いやりゲーム”は中止にされるのですか?」
その問いに、星運は一瞬だけ唇を噛みしめ、やがて決意を込めて言い切った。
「いや、俺はやる。万里には……自由に生きてほしいと、ずっと願ってきたんだ。だから俺は迷わず、万里の名前を書く」
間髪入れず、万里も応じる。
「私も参加します。もし一人しか救えないのなら……私は星運様のお名前を書きます」
――このまま互いの名前を書けば、その瞬間に失敗。
……なんだけど。
まあ、その心配はないだろう。
なにせ目の前では、星運が地面に額を擦りつける勢いで土下座し、万里に向かって謝罪を繰り返しているのだから。
「万里……本当に、ずっとお前には罪悪感があった。だから俺は迷わず、万里の名前を書くと決めたんだ」
「私は星運様の名を記します。生きるべきは星運様です。どうか……生きてください」
なんだ、この息の合い方は。
二人とも、まるで舞台の主演俳優か何かのように、感情の波まで完璧にシンクロしている。
星運は土下座、万里は正座。視線をぶつけ合いながら、互いへの想いを真剣に言葉へと変えていく。
その光景が、妙に胸の奥へ染み込んでくるのだから不思議なものだ。
正論だけでは、人は動かない。
理解し、歩み寄り、相手のために自分を動かす――そうした心こそが“思いやり”なのだろう。
とはいえ、感傷に浸っている暇はない。そろそろゲームを始めなければならない。
「それでは、カウントダウンを開始してもよろしいですか」
星運と万里が、ほぼ同時に頷いた。
ふと横を見ると、ペンギンが死んだ魚のような目でこちらを見ている。
この温かくも歪な人間ドラマを、AIの彼には理解しづらいらしい。まったく、残念な生物だ。とはいうものの、それがまた面白い。
四十九に白紙用紙と鉛筆を渡すと、頭上に電光掲示板が浮かび上がってきた。
赤い数字が、まるで呼吸するかのように明滅し、場の空気がきゅっと引き締まる。
「カウントダウンを開始します」
宣言が落ちた瞬間、星運と万里は一切の迷いなくペンを走らせていく。
たった10秒。
されど胸の奥で、わくわくとした高鳴りが膨らんでいく、不思議な時間だ。
やがて、カウントダウンがゼロへ。
四十九が静かに2人の用紙を回収し、中身を確認すると…
――――――――結果は、星運1、万里1。
うむ。
見事に、私の期待を裏切らない結果である。
だが、その報告を聞いた瞬間、星運の怒りは臨界点を超えたのか。怒鳴り散らしてきた。
「なんだそりゃぁ! 万里、お前、俺の名前を書くって言ったじゃねぇか!」
吠え声とほぼ同時。
万里は一切の躊躇もなく、刀の鞘で横殴りを叩きつけていく。
ゴッ――!
星運はとっさに腕でガードしたものの、衝撃が強すぎたのか、膝から崩れ落ち、そのまま地面を転がった。
砂と土が舞い、鈍い呻き声が漏れている。
なんとも言えない和気あいあい……なのか、判断に困る光景だ。
それでも2人の距離感が妙に自然なのだから、ある意味で仲が良いのだろう。
「この……!」
転がる星運に、万里は容赦なく蹴りを叩き込み、怒気混じりの罵声を浴びせていた。
「星運、おまえの名前なんて書くわけないだろ、このくそ不細工! お前のせいで私がこんな目に遭ってるんだぞ! 私の名前を書けって言ってるんだ!」
互いに罵倒し合うその姿も、なかなかに見応えがある。
だが、ゲームが失敗した以上、こちらも役目を果たさねばならない。
私は静かに手を上げ、運命の弓を召喚した。
白銀の光が空間を裂き、全長3メートルを超える巨大な弓が、ギギ……と空気を震わせながら姿を成す。
その瞬間。
2人の怒号はぴたりと止まり、場の空気が一気に水底のように重く沈んでいく。
「“思いやりゲーム”が失敗したペナルティとして、2人の体を撃ち抜きます」
星運と万里の顔が、みるみる血の気を失っていく。私は運命の矢を呼び出し、ぎりぎりまで弓を引き絞った。張り詰めた緊張が肌を刺し、冷たい沈黙が辺りを覆う。
――――――――TWIN_SHOOT。
解き放たれた矢は、スローモーションの中で弓弦を離れ、キィン、と空気を切り裂きながら超音速で一直線に飛翔していく。
次の瞬間。
2人の左手を正確に貫き、鮮烈な痛みだけを刻み込み――
矢は何事もなかったかのように、静かに霧散したのだった。




