26 黒マント、お前の話しは眠い。
背後では、ふっくらとした体躯の聖女が、胸を内側から押し潰されるかのような、掠れた悲鳴を上げ続けている。
喉を震わせ、息を詰まらせ、それでも止まらない。感情が限界を越え、音として溢れ出ているのだろう。
そのすぐ隣。
黒いマントに全身を沈めた死霊王は、夜の中心に打ち立てられた石柱のように、微動だにせず立っていた。
腕も、首も、呼吸の気配すら感じさせない。
とはいうものの、その沈黙は単なる静止ではない。言葉よりも重く、視線よりも鋭い圧を孕み、周囲の空気そのものを押し下げている。
体感温度が、ほんの数度――確実に下がる。
誰もが無意識に息を浅くし、呼吸ひとつすら慎重にならざるを得なかった。
――前方へ、視線を移すと、
アダマンタイト製の“絶対回避”装甲を纏った黒鉄の機械兵が、怒気を溶かし込んだような重い足取りで、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
ドン……ドン……と、踏みしめるたびに大地が低く震え、地脈を確かめるかのような鈍い反響が足裏を伝ってきた。
その両腕には、すでに声を失った鋼の我が子が抱かれている。
折れ、裂け、動力を喪失した小型機。
硬質な指先が、壊れた装甲を包み込むように、そっと添えられていた。
金属同士の接触音はほとんどなく、その仕草はあまりにも静かだ。
金属でありながら――いや、金属だからこそなのか。
そこには紛れもなく、母性としか呼びようのない体温が宿っているように見えた。
圧倒的な気配。
母親機体から滲み出す電磁の震えが、空間そのものを揺らす。
ピリ……と、皮膚の表面を微細な電流が撫でた。
周囲を取り囲む約500体の機械兵たちは、その圧だけで後退していた。
誰も命令を出していない。
誰も逆らおうとしない。
ただ、固唾を飲み、成り行きを見守るしかない。
夜の冷たさに、鉄と焦げた油の匂いが混じる。
胸の奥が、わずかに沈む。
そして――
私の放った運命の矢は、黒鉄の肩口をかすめ、そのまま夜空へと消えていった。
刹那。
藍倫の怒声が、悲鳴に近い音量で飛んでくる。
「三華月様! 『絶対回避』を攻略できるって、あれだけ堂々と言ってたじゃないですか! なのに全然当たらないじゃないですか! もう勘弁なりませんよ。うちの言うことを聞いて、隕石堕としを発動してください。さぁ、早く!」
完全に信用されていない。
というより――今の藍倫に、説明も理屈も通じないのだと理解するしかなかった。
背後で絶叫し続ける聖女は、もはや風景の一部として切り捨て、予定どおり、2撃目を射て差し上げましょう。
対する黒鉄色の母親機体は、恐れという概念を最初から搭載していないかのように、止まらない。
一歩。
また一歩。
重い足音が、夜の地面を鈍く打ち、空気そのものを押し退けて迫ってくる。
では――2撃目。
私は呼吸を整え、再び運命の矢をリロードする。
その瞬間、天空に浮かぶ白銀の月が、まるで応えるかのように輝きを増しはじめていた。
月光が降り注ぐ。無限とも思える力が、細い糸となって天から垂れ、私の身体へと流れ込んでくるのが分かる。
体内を巡る月の光が、血流に乗って加速し、引き絞られた弓へと集束していく。
さらさら……と、光粒が零れ落ち、夜気に溶けて消えていった。
周囲の気圧が、ひと段階、確かに下がった。耳の奥が、きぃんと鳴る。
弓が、きしむ。
限界点を超えたのだと、直感が告げていた。
それでは――願い、撃たせてもらいます。
―――――――USUALLY SHOOT
ズンッ。
空気が沈み込む。
世界が一拍、遅れる。
次の瞬間、矢は夜を裂いた。
超音速の閃光となって飛翔し、月光を引き裂き、星々の間を一直線に貫いていく。
――しかし。
今回もまた、黒鉄の機体を紙一重で外れてしまった。
1本目とまったく同じ角度、同じ軌道で、矢は星空へと吸い込まれていく。
まるで意図的に描かれたかのような、美しすぎる放物線。
飛行機雲のように、夜空に真っ直ぐ伸びる光跡が、静かに残された。
あまりにも、美しい。
そして――案の定。
「三華月様ぁぁぁっ!!」
藍倫の絶叫とともに、背後から強い力が加わった。
次の瞬間、私の聖衣がわしづかみにされ、身体が前後に揺さぶられる。
「なんで隕石堕としを撃たないんですか! 『絶対回避』が攻略できないなら、喪女とか気にしてる場合じゃないでしょうが! というか、いくら優しいうちでも、本当に切れますよ!」
「いやいやいや。もうだいぶ前から切れてませんか、それ……?」
返答が終わるより早く。
藍倫の拳が、脇腹の下から鋭く抉り上げてきた。
ドスッ――。
軸足に完璧に体重を乗せた回転。
無駄の一切ない、急所を正確に捉えた一撃。
信仰強化がなければ、内臓がその場で霧散していたのではないかと思えるほどの威力である。
「ぐっ……」
荒い呼吸を整えながら、藍倫はなおも戦場を睨みつける。
その指先が、迫り来る黒鉄の母親機体を真っ直ぐに指し示していた。
「三華月様。早く、早く。3本目を撃ってください!」
「承知しております。3本目につきましては、最大火力で撃たせて頂きます」
「今さらですか!? 最初から最大火力で撃ってくださいよ。外したら意味ないって、分かってますよね!」
完全に、駄目な子を見る目である。
とはいうものの、いちいち気にしていては身が持たない。
さて――3本目だ。
私は再度、運命の矢をリロードする。
そして照準を、白銀の満月へと定めた。
夜空には星々が溢れ、冷たく澄んだ光が無数に散っている。
天から流れ落ちる力が、身体の隅々まで満たされていく。
光が、臨界点へと達していくのが分かる。
粒子が、溢れ、零れ、空気を震わせる。
肌がひりつく。世界が軋む。
では――最強の一撃を。
溜まりきったエネルギーを、天へと解き放った。
―――――――HEADING TO THE MOON
矢の後方で、光の渦が巻き上がる。
ゴォォォ……と、天地を揺らす轟音。
描かれる軌跡は、あまりにもまっすぐで、純粋で、破壊という言葉すら追いつけない。
この一撃を、受け止められる存在など――
地上はおろか、神界にすら存在しないはずだった。
そのとき。
千里眼を展開していた死霊王と藍倫のやり取りが、耳に滑り込んでくる。
「ふうー……ようやく、か。ようやく、うちがお願いしたとおり――ようやく『隕石堕とし』を撃ってくれたのか!」
藍倫の声は、肩で息をしながらの叫びだった。
怒り、安堵、焦燥。
それらがない混ぜになり、今にも爆ぜそうな響きである。
だが。
「藍倫様。残念ながら……私の見立てによりますと、今の一撃は『隕石堕とし』では無いものと推察します」
「なんだと。どういうことだ。今のが隕石堕としでないというなら、三華月様が空へ撃ち放ったあの矢は、一体なんなんだと言うのだ!」
「申し訳ありません。ふざけた存在である三華月様の行いなど、私のような凡人に理解できるはずがありません」
また言われた。
正式に「ふざけた存在」と認定される日が来るとは、さすがに思っていなかった。
――とはいうものの。
そんな肩書きなど、どうでもよくなるほど、差し迫った現実が、目の前で唸りを上げている。
黒鉄色の母親機械兵が、なおも迫ってくる。
戦場の闇から押し出された怪物のようだ。
煤を含んだ油膜の光が全身を覆い、関節という関節が、ギギ……と金属疲労で軋む。
それでも、その動きには疑いようのない迫力があった。
巨体が、ゼロ距離へと踏み込む。
影が落ち、私の視界を完全に覆い隠した。
赤熱した鉄塊のような双眸。
真紅の怒気を宿し、こちらを見下ろしている。
焦げた油の匂いが、湿った夜風に乗って押し寄せてきた。
ゴォ……という金属の唸り。
それはもはや、ただの機械音ではない。
地の底から滲み出る、鬼火の呻きのように聞こえていた。
さっきまで、確かに私のすぐ背後にいたはずの藍倫は――
気づけば、屋敷の玄関奥へと退避していた。
太い柱の陰に半身を隠し、こそこそとこちらを覗き見る。
どう言葉を取り繕ってみても。
どうあがいても。
「私を見捨てた」という結論にしか、辿り着かない。
まぁ、藍倫らしいといえば藍倫らしいのだろう。
危険が迫れば、まず距離を取る。
安全が確認できれば、何食わぬ顔で戻ってくる。
その一連の動きは、もはや芸術であった。
そんな呆れ混じりの思考を、真っ向から叩き潰すように。
黒鉄色の母親機械兵が、動いていた。
ギギ……と金属が悲鳴を上げる。
重々しい駆動音とともに、巨体がゆっくりと拳を振り上げる。
装甲の隙間で発声器官が震え――
次の瞬間。
≪潰してやるぅぅぅぅぅ!≫
空気が揺れる。
いや、揺れたという表現では足りない。
まるで空間そのものが歪められ、音圧の塊となって直接鼓膜を殴りつけてくるような、凄絶な咆哮だった。
とはいうものの――私はこの光景を、すでに知っている。
スキル『未来視』で覗いた映像と、寸分違わぬ現在。
拳の角度、音の立ち上がり、機体の重心移動、そのすべてが既視感に満ちていた。
時間は抗うこともなく、予定調和のレールをなぞるように、淡々と進行している。
そして――。
――――――――バチッ。
乾いた破裂音が鳴った。
それは爆発音でも、斬撃音でもない。
強いて言うなら、空間そのものが静電気のように弾けた音だった。
次の瞬間、黒鉄色の巨体から、片腕が――消えていた。
破壊ではない。
爆散でも、粉砕でもなかった。
ただ、存在しない。
そこにあったはずの腕だけが、切り取られたように、いや、履歴ごと抹消されたかのように、完全に消滅している。
約束された勝利。
そう、はじめから私の勝利は確約されていたのである。
死霊王は思わず息を呑み、藍倫は柱の陰で口をぱくぱくと動かすばかりで、言葉という概念そのものを見失っていた。
遅れて、黒鉄色の母親機械兵が自分の異変を理解する。
ギィィン、と。
金属板を叩き合わせるような、甲高い悲鳴が屋敷に反響した。
「これで終わりではありません。もうまもなく、2本目がやって来ますよ」
私が淡々とそう告げた、その直後――
まるで時差があるかのように、ほんの一拍遅れて。
――――――――残る腕も、光の刃に呑み込まれるように消滅した。
支えを失った子供機械兵が、重量を持て余すように傾ぎ、やがて転がり落ちていく。
ゴロゴロ、と地面を転がる音は、妙に軽く、どこか無邪気で、だからこそ背筋が冷えた。
ふと気づけば、藍倫がいつの間にか私の背後へと戻ってきている。
さっきまでの臆病さはどこへやら、ゲラゲラと豪快に笑いながら、私の背中をポンポンと叩いてきた。
「さすが三華月様! ウチは信じとったよ! で、三華月様は何をしたんですか?」
……いや、絶対に信じていなかっただろう。
全力で逃げていたし、しかも先ほどは脇腹に鋭いフックまで入れてきていたではないか。
――というものの、言い返すよりも早く、死霊王が静かに一歩、前へと歩み出た。
「藍倫様。三華月様が何をされたのか、私から説明をさせていただきます」
「黒マントよ。お前、うちと同じで何が起きたか分からんかったじゃろ。『かもしれない』なんて中途半端な説明はいらんぞ」
「中途半端で申し訳ありませんでした」
「うむ。素直なのは良いことじゃ。その素直さ、三華月様も見習ってほしいものだな!」
「藍倫様。よろしければ、中途半端な私ですが説明を――」
「黒マント。しつこいな。さすが三華月様のストーカーじゃ。三華月様への恨みを晴らしても無理じゃ、三華月様は相当ふざけた存在なのじゃ!」
「ストーキング行為は恨みのためではありませんが……確かに三華月様は相当ふざけた存在ですよね」
「うむ。理解したならよい」
「それでは、黒鉄色の機体の腕が消滅した原因ですが……三華月様が射た1本目と2本目の矢が、黒鉄色の機体を撃ち抜いたのです」
「それくらいうちでも分かっとるわ! 勝手に説明を始めるな!」
「藍倫様。外れたはずの矢が、なぜ黒鉄色の母親機械兵の腕を破壊したのか……そのカラクリが、気になりませんか」
「気にならん。黒マント、お前の話は眠うなる。もうよい!」
緊張すべき局面のはずなのに、場の空気はどこか牧歌的ですらあった。
とはいうものの――黒鉄色の母親機械兵は、まだ完全には死んでいない。
両腕を失ってなお、その巨体は健在。
質量の塊となり、頭から叩きつけるように落下しようとしている。
未来視どおりの動きだ。
影が広がる。
黒鉄色の巨体が落下姿勢に入った、その瞬間。
藍倫が横からひょいと顔を出し、視線だけで語りかけてきた。
「ここから先は、ウチにお任せ下さい」
「承知しました。何を任されているのかは分かりませんが、よろしくお願いします」
「うぃ」
藍倫が手で「下がるように」と合図をする。
それに従い一歩引いた藍倫は、まるで舞台役者のように姿勢を決め、腕を真っ直ぐ突き出して黒鉄色の巨体を指差した。
妙にサマになっている。
風が吹けば、背景にスポットライトが入っても不思議ではないほどだった。
「既に最後の一撃は撃ち終わっておる! 黒鉄色の死は、もう確定しておるのじゃ!」
ちらりと、藍倫が振り返る。
その視線が、「3本目はまだなのか?」と雄弁に語っていた。
はいはい。今、落ちてきます。
次の瞬間――
――――――――黒鉄色の巨体は、光の粒すら残さず消し飛んだ。
藍倫は一瞬きょとんと目を丸くし、次いで勢いよく拳を夜空へ突き上げる。
「よし! 訳は分からんがトドメを刺したぞ!」
「藍倫様。中途半端な私ですが説明します。三華月様の矢が月を周回し、光速を超える速さとなり、黒鉄色の脳天を正確に貫いたと推測されます」
「黒マントよ。今、なんか言うたか?」
「ちなみに1本目と2本目の矢も、惑星を周回し光速を超え、『絶対回避』のアダマンタイトを撃ち抜いたようです」
藍倫はゲラゲラと笑い、完全に聞き流していた。
とはいうものの、死霊王は淡々と、どこか満足げに説明を続けている。
その時、亜里亜に仕える5人の救出が完了したという神託が降りてきた。
信仰心が、ほんのわずか、上昇する。
流星群を堕とし、辺境の都市へ甚大な被害を与えたにも関わらず、信仰が下がらなかったことを思えば……
むしろ、幸運だったのかもしれない。
けれど――
まだ終わりではない。
私にとっての物語は、ここからが本番なのだから。




