報復と清算──信長の「信用」の使い方
長政離反への信長の対応は、二段階に分かれる。
第一段階は、封じ込めと切り崩しである。姉川の合戦(元亀元年六月)で浅井・朝倉連合に勝利した後も、信長は小谷城への力攻めを避け、横山城・虎御前山に付城を築いて浅井領を締め上げつつ、浅井方国人・家臣の調略を進めた。
樋口直房、宮部継潤、堀秀村・山本山城の阿閉貞征と、浅井の支城網は三年かけて内側から解体されていく。
そして、この切り崩しの実務担当こそ、横山城代として江北戦線に釘付けにされた秀吉だった。
浅井戦線は、秀吉にとって「敵の家臣団を一人ずつ引き剥がす」実地訓練の三年間となる。天正元年の小谷城最終攻撃でも、秀吉は京極丸への一番乗りで浅井父子の連絡を断つ殊勲を挙げ、戦後、旧浅井領の大半を与えられて今浜(長浜)城主となった。
調略の実績が、そのまま大名への出世に換算された最初の例である。
第二段階は、見せしめの精算である。天正元年八月、朝倉家中の内応──義景の従兄弟・景鏡の裏切りを最後の引き金に、朝倉義景を一乗谷に滅ぼし、返す刀で小谷城を落として浅井久政・長政父子を自害させた。
翌年の正月、信長は朝倉義景・浅井父子の頭蓋に薄濃を施したものを酒宴に供したと『信長公記』は記す。
この行為は残虐趣味として名高いが、機能的に読めば「裏切りの代価」の公示である。信長は、降伏には寛大であり得た(松永久秀の一度目の赦免)。だが、同盟からの離反──信用への攻撃──には、最大限の見せしめで応じた。
信用経済の秩序は、違約への制裁の確実性で維持される。信長は自らを、その制裁の執行者として演出したのである。




