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天正伊賀の乱──自治の里の最期
忍びの里の運命を決めたのは、織田政権だった。
天正七年(一五七九)、信長の次男信雄が独断で伊賀に進攻して惨敗する(第一次天正伊賀の乱)。面目を潰された信長は天正九年、四万とも五万ともいう大軍で伊賀を四方から包囲殲滅した(第二次天正伊賀の乱)。
惣国一揆は壊滅し、伊賀の自治は終わった。
この戦役は、調略史の文脈では二重の意味を持つ。
第一に、「調略の効きにくい共同体」の抹殺である。合議制の一揆には、寝返らせるべき単独の当主がいない。買収すべき意志決定の急所を持たない相手に対し、信長は例によって殲滅戦で応じた。
第二に、技能者の離散と再配置である。乱を生き延びた伊賀者・甲賀者は諸国に散り、その一部は徳川家康に吸収される。本能寺の変の直後、堺にいた家康が明智の勢力圏を避けて三河へ脱出した「伊賀越え」では、甲賀・伊賀の土豪たちが警固に働いたと伝えられ、この縁で伊賀者は後に江戸幕府の御家人(伊賀組同心)として制度化された。服部半蔵(正成)の名で知られる伊賀者の統率も、この流れの中にある。
自治の輸出産業だった忍びは、統一権力の常備機構へと飼い慣らされた。戦国の終わりは、フリーランスの調略実務者の終わりでもあった。




