壇ノ浦の朝──裏切りが戦を決めた先例
元暦二年(一一八五)三月二十四日、長門壇ノ浦。この日の海戦を、人は忘れまい。
後世の物語は源義経の戦術の冴えとして語っているが、戦いの帰趨を決したものは、ある水軍の去就だった……。
関門の海峡に、展開している平家方の船団。
その中に、平家譜代の家人として西国の海を支え、四国の水を知り尽くした阿波水軍・田口成良の船があった。
だが彼の一族は、すでに源氏方に人質同然の縁者を握られ、水面下の交渉が進められていたのである。
開戦後、戦況が傾き始めたそのとき、田口の船団は突如として旗を変えた。平家の側から見れば、自軍の一角が、そのまま敵の一角に変わったのである。
海が寝返る──陸の武士には想像もつかなかった光景だろう。
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『平家物語』や『吾妻鏡』が伝えるこの阿波重能(田口成良)の寝返りは、細部の史実性には議論があるものの、治承・寿永の内乱(一一八〇〜八五)全体の構図をよく凝縮している。
この内乱の帰趨を決めたのは、個々の合戦以上に、地方武士団の「乗り換え」だった。
平家は西国の武士や水軍を家人として組織していたが、頼朝が「本領安堵」──先祖伝来の所領の支配権を保障する──という新しい主従契約を掲げると、東国武士は雪崩を打って源氏方についた。
熊野の水軍は湛増のもとで去就を占い(紅白の鶏を闘わせて決めたという有名な伝承がある。神慮の形式を借りた意思決定であり、要するに湛増は、白い鶏が勝つまで闘わせたのかもしれない)、伊予の河野水軍も源氏方へ転じて、海上兵力の均衡は崩れた。平家は合戦に負ける前に、味方の切り崩しに負けたのである。
南北朝の動乱(十四世紀)は、これをさらに徹底した。
六十年に及ぶこの内乱では、ほとんどすべての有力武士が少なくとも一度は所属陣営を変えたと言ってよいだろう。
足利尊氏自身が後醍醐天皇に叛き、その弟直義と争った観応の擾乱では、尊氏が南朝に降伏して弟を討ち、直義もまた南朝と結ぶという、敵味方の概念がころころと変化した。
「昨日の敵は今日の友」が文字通り日常となったこの時代に、日本の武士たちは一つの重要な学習をする。すなわち、忠誠は絶対ではなく交渉可能である、という認識である。
軍記物『太平記』は、この時代の裏切りと謀略を膨大に記録し、後世の武士たちの愛読書となった。戦国武将は『太平記』を、物語としてだけでなく事例集として読んでいた。
楠木正成の権謀、赤松円心の去就、そして佐々木道誉──鎌倉幕府を裏切り、建武政権を裏切り、幕府内の政争でも常に勝ち馬に乗り続けながら、なぜか誰からも殺されずに天寿を全うした婆娑羅大名の変わり身と行動。
戦国の調略者たちの本棚には、常にこの書があったと考えてよいだろう。『太平記』は日本史上最も読まれた「裏切りの判例集」なのである。




