謙信は本当に調略をしなかったのか
史実を精査すれば、上杉陣営も当然、調略を行っている。
関東出兵のたびに北条方国人の帰属工作を行い、川中島の前哨戦では北信濃国人の切り崩し合戦を武田と演じ、晩年の越中・能登経略では畠山家中の親上杉派と結んで七尾城内の政変を誘発している(七尾城は疫病と内応で落ちた)。
「調略をしない大名」は戦国に存在しないのだ。
正確に言うべきはこうだ。謙信は、調略の使用域を限定した。婚姻政略をほぼ用いず(生涯不犯とされ、実子を持たなかった)、主家簒奪の類を行わず、誓紙の反故を──少なくとも表立っては──しなかった。そして自身の旗印に反する謀略は、勝てる局面でも自制した形跡がある。
この「制限付き調略」は、軍事的には非効率を生んだ。
関東に十数回出兵しながら、雪解けの帰国のたびに北条方の再調略で国人が離反し、版図は定着しなかった。小田原城を包囲しながら力攻めも長期包囲もできず撤退したのは、遠征軍の構造的限界と同時に、北条の民心支配(第五章)を崩す調略の不在でもあった。
十万で囲んだ城を落とせず、帰れば味方が半分敵に戻っている──謙信の関東経営は、賽の河原の石積みに似た消耗戦であった。
だが謙信の「義」は、獲得の道具としては鈍かった代わりに、保全の道具としては最強だった。謙信の生涯、越後の家中は、外部勢力の調略で決定的に割られたことがない(死後の御館の乱は相続戦争であり、別の問題である)。
裏切らない主君は、裏切られにくい──この相関は、戦国の実例が繰り返し示すところである。




