第三段階・簒奪──主君追放と、その代償
天文十一年(一五四二)、道三はついに主君頼芸を大桑城に攻めて美濃から追放する(追放の年次・回数には諸説ある)。寄生から数えて約四半世紀、ついに国盗りは完成した。
だが、ここからが道三の誤算だった。
守護追放は、美濃国人衆の広い反発を招く。頼芸を担ぐ勢力は尾張の織田信秀、越前の朝倉氏と結び、道三は外患と内乱の同時対応を強いられた。道三は合戦(加納口の戦いで織田信秀に大打撃を与えた)と和睦を織り交ぜてしのぐが、決定打となったのは婚姻調略である。
天文十七年(一五四八)頃、道三は宿敵織田信秀と講和し、娘の帰蝶(濃姫)を信秀の嫡男・信長に嫁がせた。昨日までの敵に娘を送る──この一手で東の戦線は凍結され、道三は国内の掌握に専念できた。
本章、冒頭の聖徳寺の会見は、この講和の五年後の話である。
しかし、簒奪の代償は消えなかった。道三の権力は、頼芸追放の「原罪」を共有する家臣団の上に立っており、その結束は道三個人の力量だけが支えていた。
晩年、家督を譲った嫡男義龍との関係が破綻すると、美濃の旧土岐系国人は雪崩を打って義龍側についた。
義龍は自らを土岐氏の落胤とする風説──頼芸の子であるという伝承──を否定しなかったとされ、事実がどうあれ、この物語は「土岐の正統への回帰」として国人たちの離反を正当化する装置となった。
弘治二年(一五五六)、長良川の戦い。道三は息子の大軍の前にわずかな手勢で敗死する。国を盗んだ男は、最後に息子に国を盗み返される形で死んだ。
死の直前、道三は婿の信長に宛てて、美濃一国の譲り状を認めたと伝えられる。
文書の真偽には議論があるが、信長が後年、美濃功略を「岳父の遺領の回復」として正当化し得たことは確かである。道三は死の間際まで、大義名分という武器の値打ちを知っていた。




