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美濃調略と半兵衛の帰属
美濃国人の切り崩し(第十六章)における秀吉の具体的な関与は、後世の『太閤記』系の記述が大きく語る一方、同時代史料での確認はごく限られる──というのが筆者の整理である。
だが、次の諸点は指摘できる。
美濃平定直後から、秀吉は織田家の文書行政に奉行として頻繁に現れ、京都周辺の政務、諸勢力との交渉ごとを担当していく。この職掌の偏りは、美濃戦役期に調略・折衝の実績を認められた者の配置と考えるのが自然である。
また、後の秀吉軍団に美濃出身者が厚く含まれることは、秀吉が斎藤旧臣の受け皿として機能した傍証となる。
その象徴的存在が、竹中半兵衛である。稲葉山城乗っ取り(第十六章)で天下に知られた美濃随一の知恵者が、織田家中の誰でもなく、最も家格の低い秀吉の与力に付いた。
三顧の礼の逸話は『太閤記』的脚色を含むが、結果として半兵衛が秀吉の参謀となり、その死まで付き従ったことは事実である。
知恵者は、知恵の使い手を選ぶ。半兵衛の選択は、当時の織田家中で「調略の秀吉」がどう見られていたかを、どんな文書よりも雄弁に語っている。




