村に届いた一通の廻状
元亀元年(一五七〇)九月、畿内近国のとある村。夜、道場(村の真宗寺院)に門徒たちが集まっている。
やがて、上座の坊主が、大坂の御山──石山本願寺から届いたばかりの廻状を、震える声で読み上げはじめた。
──信長、上洛以来、当寺に難題を申しかけ、破却すべきの由、必定である。これほどの仏法の怨敵はなく、門徒たるもの、この時にあたって馳せ参じ、忠節を尽くすべし。参らざる者は、門徒にては、あるまじきこと──。
読み終えると、道場は静まり返った。それから、ざわめきが起きる。年寄りたちは講の帳面を繰り、若い者は互いの顔を見る。
誰が行くか。鍬を捨てて、御山へ。法主様の下知である。参らねば、門徒の縁を切られる。それは、この村で生きる縁と、来世の縁とを、同時に失うことを意味した──。
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顕如が全国の門徒に発した檄は、こうして講の網の目を通り、村々の道場で読み上げられ、数日のうちに、農民たちを兵に変えた。
大名の動員が、所領安堵という現世の利害で駆動するのに対し、本願寺の動員は、信仰と共同体の絆──現世と来世の両方──で駆動したのだ。「進めば往生極楽、退けば無間地獄」の旗が一揆勢に掲げられたという伝承は、細部はどうあれ、この動員原理の核心を突いている。
以後十一年、信長はこの動員原理と戦い続けることになる。彼の生涯で最長の戦争、石山合戦である。




