序章:土の壁 ──天正八年一月、三木
その朝、三木城の本丸に立つ別所長治が見たものは、城を幾重にも取り巻く、土の壁であった。
天正八年(一五八〇)一月。播磨三木城は、二十二ヶ月にもおよぶ籠城を耐え忍んでいた。
城内に兵糧はとうに尽きている。馬を食い、草を食い、壁土に混ぜた藁を食い、それも尽きた。しかしその惨状を生んだのは、間違いなく尾根から尾根へ延々と連なるつけ城と土塁の列──羽柴秀吉が二年がかりで築いた、全長数十キロに及ぶ包囲の壁だった。
長治はもはやのどが渇いてため息も出なかった。
彼のもとには、開城を勧める使者が繰り返し訪れていた。条件は一貫している。城主一族の切腹と引き換えに、城兵と領民は全員助命する──。一月十七日、長治はこれを受けた。
「今はただ、恨みもあらじ諸人の、命に代はる我が身と思へば」
(もはや誰を恨む気持ちもない。この身が、皆の命に代わるのだと思えば──。)
享年二十三と伝わる。辞世の句であった。
若い城主の絶唱とともに三木城は開き、飢えた数千の城兵と領民は、生きて城門を出た……。
後世「三木の干殺し」と呼ばれる惨状である。
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さて、ここで問いたい。この城を落としたのは、いったい誰の、なんの力か。
鉄砲ではない。二年間、この主戦場で火を噴いたのは鉄砲より鍬だった。突撃でもない。秀吉は最後まで総攻撃をしていない。
城を落としたのは、城の外に築かれた土の壁と、城内へ届けられ続けた「降れば生きられる」という言葉と、そして城への兵糧の道を一本ずつ断っていった目に見えない工作の網であった。
毛利からの兵糧搬入路の結節点を潰し、輸送に協力する周辺勢力を切り崩し、海の道を封じる。刀を抜く前に、すでに勝負は決まっていた。
この「目に見えない工作の網」の総体を、当時の人々は 『調略』 と呼んだ。
戦国時代と聞けば、多くの人は合戦を思い浮かべるであろう。騎馬武者の突撃、鉄砲の斉射、槍衾のぶつかり合い。時代劇も大河ドラマも、クライマックスは必ず合戦である。
無理もない。土塁の普請と兵糧の帳簿で二時間の大河ドラマを作れと言われたら、演出家は泣くしかない。しかし、歴史の実像において、戦国百五十年の勝敗の帰趨を真に決めたのは、戦場の外で進行していた「もう一つの戦争」だった。
敵の家臣を寝返らせる。
同盟を切り崩す。
偽情報を流して疑心暗鬼を植え付ける。
婚姻で縛り、人質で担保し、黄金で買い、起請文で誓わせる。
本作品は小説ではない。本書は、この調略という営みを軸に、戦国時代を丸ごと読み直すまったく新たな試みである。そしてその頂点に立つ一人の男は──農民から天下人へ駆け上がり、ついには小田原二十万の大軍をほとんど戦わせずに勝った「調略の天才」羽柴秀吉、後の豊臣秀吉である。
この調略の頂点にして無二に至る道筋を描きたいと思う。三木の包囲壁は、その男の出世作だった。
もはやリハビリ状態




