25、母親
短剣を持ったまま動きを止めた千尋。
「どうした。お前が長年待ち望んでいた機会だよ」
背後から声をかけた八芽。わずかに千尋の肩が動くが、右手はその場で静止したままだった。
おもむろに足を踏み出し、両者の間に立つ八芽。『石の魔術師』の顔に手を置くと、マスクを脱がせるように一気に引っ張った。魔術的な作用か、体格までもわずかに縮む。
素顔をさらした女は、髪の長い、とても美しい女性だった。
「体が動かないのも無理はない。母親を殺そうだなんて、そう簡単に割り切れるもんじゃないからね」
驚いたのはステラだ。
「『石の魔術師』の正体が……千尋くんのお母さん……?」
そのつぶやきに応えるものは誰もいない。さつきの顔は依然として険しいまま。とても息子に向けるような目ではない。黙っているのは、この状況を打破するための案を模索しているからだろう。ここにいるのは千尋の母親ではなく、正太郎の式神なのだから。
一方、八芽は淡々と語っていく。
「さつきが千影を狙うかもしれないから、母親を殺す、か。少し動機が弱いね」
「動機とか、関係ない」
絞り出したような声。
「ならなぜ今動かなかった?」
「……………………」
「いくら写真でしか母の顔を知らないからって、この子はお前を産んだ、正真正銘の母親だよ。まぁ、顔をさらして会わなかったからこそ、客観的な事実にお前の心が縛られることになったのだろうがね」
「違う」
「なぜ否定できる。まさか自分には感情がないとか、心が壊れているとか、そんなこと言っているわけじゃあないだろうね」
「その通りだよ。僕は術者である三上清之介からそのように造られた」
「ならなんで千影やここにいる『石の魔術師』は感情豊かに話しているんだい? 同じ式神であるのに、お前だけ人の心が備わっていないなんて道理が通じるか」
「僕の場合は『生命の魂源』以外にも、父から『式の技術』を余分に焼きつけられている。それで心を失った」
「少し違うね。確かに犠牲になるものは必要だったろうよ。でもそれは感情の揺らぎであって、心が無くなったわけじゃない。お前は式神であると同時に、一人の人間でもあるのだから」
「違う。僕は人間ではない。ただの式神だ」
「そう思い込みたいだけだろう」
「違う」
「だったら、なぜ目の前にいる『敵』を殺せない。ここにいるのは、お前の大好きだった父を殺した咎人だよ。お前が一度躊躇したのは、相手が母親であることを思い出したからだろ」
「殺せるよ」
短剣を突き出そうとした千尋。しかしその手を八芽が叩いた。頬を打たれたようにパシィンと乾いた音がした。
「何をする」
千尋のまぶたが細まる。
「自棄になるな」
聞き分けの悪い子供に向けるような顔。しかしすぐに穏やかな微笑が浮かぶ。
「千尋、いいんだよ、それで。出来なくてもいいんだよ。お前には人の心がちゃんとあるんだ。その気持ちは大事にした方がいい」
胸が、じんわりと温かくなった気がした。だがそれは錯覚だと千尋は考える。
式神になってからの九年間、彼に諭すように声をかけてくれる大人はいなかった。こんな言葉をかけられたのは、あの事件が起きるより以前。千尋が人間だった頃だ。きっとその時の記憶が浮かび上がってきただけだろう、そう思う。
だが、
「違う。僕には人の心なんてない。存在しないんだ」
否定の言葉は、これまでのどれよりも小さなものだった。八芽はジロリと千尋を見上げると、
「なら、なぜ三年前の戦いでここにいるステラ《お嬢ちゃん》を助けた? 残り一羽となった式鳥。勝算は薄かったとはいえ、あの時のお前には『石の魔術師』に攻撃できる唯一の手段だった。ラルド学長を逃がしたのもそうだ。目的に向かって真っ直ぐ突き進むことしかできない式神なら、そんな無駄なことなんてしないよ」
何も答えない千尋。何も答えられないのか――
「先日の一件。なぜバフォメットのメンバーをあんな残酷な手を使って殺した? わざわざ時計台の壁に磔にし、手足に杭まで打ち込んで……。逆さ十字の刻印に対する皮肉なら、少し毒が効きすぎているんじゃないかい? 正直に答えな、千尋。憎かったんだろ。村人を殺され、父親を殺され、千影を殺した、あの忌々しい連中が、憎くて憎くて仕方なかったんだろ?」
「……………………」
何も答えない千尋。八芽の追及はまだ終わらない。
「千尋。なぜここにいる母親を刺し殺せなかった? 今さら殺せるなんて喚くなよ。一度躊躇したことがお前の式神としての不完全性を証明している。それを否定できるだけの材料がお前にはあるのか?」
「……………………」
「無くていいんだよ。お前は式神である以前に、一人の人間なのだから」
「……………………」
「そもそも『生命の魂源』とは、対象者を式神化させるための術ではない。死した者が再び生ある者として生きるために、その足りない部分を術式で補っているだけに過ぎないんだから。清之介の魂によって蘇ったお前が、その魂の在り方を否定するような真似するんじゃないよ」
「……………………」
視点を落とした千尋。反証の材料は、どこを探しても見つからなかった。
『石の魔術師』は黙って二人のやり取りを眺めていた。眺めながらここからどうすれば脱出できるか考えていた。
力ずくではこの縄はほどけそうにない。それなら、この窮地から脱するにはどちらかと交渉する必要がある。
『石の魔術師』こと、さつきとしては千尋よりも八芽の方が与しやすい相手と言えるだろう。立会人としてこの場に引っ張り出させることに成功したこともそうだが、幼い頃から八芽を見てきた『記憶』が彼女には残っている。
八芽を突き動かすには、『感情』と『損得』と『義』を同時に刺激してやる必要がある。どれか一つだけでは駄目。難しいが不可能ではない。
ここまで無言だったのは、八芽なら千尋を抑え込んでくれるのではないかと期待していた部分があったから。そして実際にその通りの展開になった。あとは八芽が食いつきそうな情報をテーブルに載せ、取引を進めるだけ。
そう思っていたのだが――
「さて――」
十五年振りに娘であるさつきの姿を目に収める八芽。ただし外見はそうでも、ここにいるのはさつきでない。『石の魔術師』だ。
「『時の魔女』。提案があります」
早速交渉を図る石の魔術師だが、
「その名であたしを呼ぶんじゃないよ。どうせなら昔みたいに『お母様』でいいんだよ?」
『石の魔術師』の攻めを軽くいなす八芽。主導権を握らせるつもりはないようだ。
「そんなことより――」
言いかけたさつきの顔に、八芽は手のひらを当てた。
「何を……ッ!」
「お前の肉体から魂を引き剥がす」
「やめろ!」
「なんだい、その喋り方は。外見と中身が一致していないといけなかったんじゃなかったのかい? さつきはそんな風に声を荒げたりしないよ」
「くっ!」
もがき、逃れようとするが、無論縄は締まったまま。
八芽は反対の手で一本のナイフを取り出し、ケースを投げ捨てる。抜き身のまま胸に引き寄せ、早口で不可解な言語をつぶやき始めた。
もちろんこれは武器として運用されるために作られた道具ではない。刀身には円形状の刻印が描かれており、魔術的な記号で解釈するなら『還元・循環』。
二つの意味を備えた触媒を持って、正太郎の魂だったものをさつきから解き放つのだ。
「やめてッ! お願い……、やめてえぇぇぇ……ッ!」
発狂しているのかというほどその場でじたばたもがき始める。
術者の命令をこなせない式神に存在価値はない。それが、人間でもあるさつきの心に恐怖の感情を呼び起こさせている。
縄をギシギシと引っ張りながら動き続けるさつき。
「安心しな。何も恐れる必要はない」
ハッと顔を上げる。八芽が話しかけてきたということは、もう術式は唱え終わったということ――
ぼんやりと全身が光り出し、一箇所に纏まりながら背中側に集まっていく。
ゆっくりと、だが確実に魂と肉体の癒着が解けている証拠だ。
それをさつきが実感した時には――抵抗する意思を失っていた。
だが、嫌な気分ではない。むしろ満たされていくような錯覚さえ生じる。それが正太郎の呪縛から解き放たれていく最中の安心感であることを、さつきは感じ取ることができた。
しかし、すぐに怨念のように纏わりついてくる湿った空気が、まだ二十代と見まがうさつきの柔肌を撫でていく。
八芽がかけた術による影響ではない。
これまで自分が犯してきた罪という名の意識が、体中から冷や汗となって噴出してきたのだ。
式神としての使命を解かれ、ギリギリ人の意識を保った今のさつき。
観ているものに違いはない。記憶にも齟齬はない。
ただ、それを受け取るさつきの感じ方だけが劇的なまでに変化を起こしているのだ。
「あ……あ……あ……」
あるのは後悔。解消できない焦りが不安定な精神に作用し、泣き叫びたい衝動となって駆け抜けていく。
しかし、それを許してくれない男が目の前にいる。
「ち……ひろ……」
お腹を痛めて産んだ大事な息子。駆け寄って抱き締めてあげたい愛すべき息子は、憎しみを帯びた眼で自分を見下ろしていた。
二人の様子を眺めていた八芽。術をかけている最中にさつきを拘束していた縄をほどいた。
「何をする」
キッと鋭い視線を向ける千尋だが、
「安心しな。ここにいるのは、もうあんたの知っている石の魔術師ではない。お前の母親だよ」
「そんなの関係ない。ここにいる女は、村を壊滅させ、千影を狙った危険人物だ。今すぐ始末するべきだ」
「この子に罪はないなんて言わないよ。いくら術によって操られていただけとはいえ、その手で人を殺めた事実が変わるわけではない。やってきた過去が清算されるわけでもない。でもね、『今のこの子』は『石の魔術師』ではない。何度も言うが、お前の母親なんだよ」
「関係ない」
認められないのか、認めたくないだけなのか、それでも千尋の答えは変わらない。
その時さつきが二人の間に入ってくる。
「ごめ……ごめんなさい……。ごめんなさい、千尋」
足に力が入らない。引きずるように近寄っていくが、
「来るな」
短剣を突きつけて拒絶される。顔を引きつらせるさつき。
わかっている。許してくれるはずないのは。こうさせているのは自分。千尋をこんな風にしてしまったのは自分。
正太郎の式神として操られていただけなの――そんな言い訳をするつもりはない。
自我はあった。例え操られていたとしても、自我を持って夫を殺し、村を壊滅させ、千影を狙い、千尋を殺そうとした、その事実は変わらない。
「千尋、ごめんね。馬鹿なお母さんでごめんね……」
許してくれるはずないのはわかっている。今さら償いの言葉が届くわけないことも……。
それでも、
「ごめんなさい……、ごめんなさい……」
謝ることしかできない。いつの間にか頬を流れ落ちていた冷や汗は、熱い雫となって滴り落ちていた。
「近づくな」
明確な千尋の拒絶。だが、近づけば殺すとぞと強い調子で言っているわけではない。そもそも、それだけの意思があれば最初に一突き入れている。わざわざ八芽の話に耳を傾けてはいない。今の彼が目的だけを遂行する完全なる式神であれば……。
千尋は揺れていた。動揺していた。息苦しかった。
手足に力が入らない。自分の体じゃないみたいだ。それを振り払うように、
「近づくな」
もう一度告げる。一歩後ずさり、震える腕を制御しながら――
「千尋……、許して。お願い……」
さつきの目に短剣は映っていない。ただ自分の想いをわかってほしいが故に、必死になって千尋との距離を詰めようとしている。
これで終わりなんて嫌だ。愛する息子との決別をこんな形で迎えるなんて、それだけは嫌だ。
自分勝手だってわかっている。都合のいいこと言っているのも……。
だから、嘘でもいい。嘘でもいいから、最後に、私を受け入れてほしい。
後ずさる千尋。短剣を突き出し、棒のようになった足を必死に動かす。
それでも、涙で濡れたさつきの瞳には困惑した顔の千尋しか映っていない。
両腕を伸ばす。その手は人を殺めるためのものではない。愛する人を抱きしめるためのもの。
永遠に交わることのないと思われた二人の距離が、今ゼロになる。
太く、たくましくなった我が子の背中に、小さな両手がまわされた。
しなだれた千尋の手から、短剣がするりと抜け落ちていく。
動くことはできなかった。胸の中で嗚咽をもらす母の姿を、にじんだ視界で見つめることしかできなかった。
非情な運命に左右された一組の親子。
悲しみの涙は、今だけは別の色によって塗り替えられていた。
「時間だよ」
さつきの背に置かれた八芽の右手。それはさつきの魂をこの世に繋ぎとめているもの。
「はい、お母様」
その一言を聞くのに、どれだけ不安な夜を過ごしたことだろう。しかし八芽はその手を離さなくてはならない。一度は死後の世界から引き寄せた娘を、再び自分の手で送り出してやらないといけないのだ。
表情にこそ表れていないが、やさしく置かれた手には娘を気遣う母の労わりが見て取れた。
だが――
罪を憎んで人を憎まず。それで済ませるには、あまりにも多くの血が流れ過ぎてしまった。
八芽は厳しい口調のまま、
「清之介と正太郎の遺体は?」
完全にこの一件を終わらせるためには、聞いておかなければならないことだった。
答えるさつきに、黙ってうなずく八芽。その後も一言二言会話を交わしたようだが、呆然と立ち尽くしたままの千尋には何も聞こえていなかった。
ステラが号泣しながらしがみついてくる。普段なら鬱陶しい旨を態度で示す千尋だが、この時ばかりは何も反応しない。
ただ、さつきの問いかけだけは別だったようだ。「千尋」と名を呼ばれ、ピクッと反応する。
「一樹や百香は元気にしている?」
「……会っていない。二人とも日本にいるみたいだけど……」
「そう……。千影は? あの子は……、どうしているのかしら……」
「普通に……元気だけど……」
「そう……。最後に、会ってみたかったけど……。これ以上はわがままね。私にはそうできるだけの資格はないもの。ありがとう、千尋。答えてくれて。最期にあなたとこうして話すことができただけでも、私は――」
話の途中で、千尋は胸ポケットから『何か』を取り出した。スッと差し出してきた『それ』を見て、さつきの中で張った気が再び緩んでしまった。
「ああああああぁぁぁぁ……」
その場で泣き崩れる。
『それ』は、一枚の写真だった。
無表情のまま顔をそむける千尋と、その腕にしがみついてピースサインを送る千影。
亡くなった娘のために、命を投げ出し、そして抜け殻となったさつき。
二度と目にすることはないと覚悟し、それでもこの子が元気に笑っていてくれれば。
そう願い、そうなるように信じ、それだけを祈った現実が、写真の中にはあった。
千影の笑った顔。これ以上の贈り物はない。
写真を胸に抱き寄せる。
「みんな、ごめんなさい。そして、ありがとう」
その言葉を最期に、さつきの中から一つの魂が抜けていった。
力なく倒れる体。八芽が支え、地面に寝かせる。
二度式神として蘇った弊害か。一度目よりも早いスピードで体が朽ちていく。
ものの数分でさつきは骨となり、自然に還った。
その様子を眺めていた千尋。
しばらくの間、その場を離れようとはしなかった。
□ □ □
三日後。
千尋は再びノーベリー・パークに足を運んでいた。
傍らには姉の千影。色とりどりの花を持ちながらキョトンとした顔をしている。
「ねぇ、千尋ちゃん。一体わたしは何しにここまで来たの?」
一本の大木の前に片膝ついたままの千尋。背後からかけられた姉の言葉を聞いて、ゆったりとした動作で振り返る。
「姉さん、その花をここに」
答えてもらえないことをいぶかしみながらも、言われるまま両手一杯の花を木の根元に供える。
「ここは死んだ母さんが眠っている場所なんだ」
「えっ!? そんなの聞いてないよ!? どうして今まで黙っていたの!?」
「ごめん、いろいろ事情があって」
三日前、白骨化したさつきを千尋が一人でこの大木の下に埋めたのだ。そこに至ることになった経緯を含め、千影には何も話していない。
六歳の頃、半分しかない呪術書を頼りに式神化された彼女は、その影響で生まれた時からの記憶を完全に失ってしまった。両親はとうの昔に亡くなっていると伝えてもいた。
当然、世間を騒がせている『石の魔術師』の正体が母などと言えるわけないし、言う必要もないことだった。
彼女は、自分が『生命の魂源』によって蘇った式神であることすら知らないのだから……。
知らなくて済むことなら、わざわざ伝えてやる必要はない。
彼女は可能な限り『人』として生活させてやりたい。
それが父の願いであると、そう千尋は判断している。
その命令を守るために自分はいるのだと、そう千尋は考えている。
それなのに、なぜ千影をここに連れてきてまで母のいる場所を伝えてしまったのだろうか……。
わからない。
なぜ自分がこんなことをしているのか、なぜ目的から反するようなことをしているのか、千尋はまだ自分の心境の変化というものを正確に把握できてはいなかった。
それでも、以前なら決してやらないことを今の自分はしてしまっている。
なぜかはわからない。
わからないが、そうしたいと思ってしまったのだ。そうした方がいいのではないかと思ってしまったのだ。
自分にも人の血が流れているのかもしれない。それを認めてしまうと、感情の揺らぎが、心が自分にもあることを認めてしまうと、きっと今よりも弱くなってしまうだろう。
これからも姉を守る上において、弊害となる不必要なものだ。
それでも、
そうしたいと思ってしまった自分を、今の千尋は否定したくなかった。
手を合わせて目をつぶる。心には何も浮かばない。
それでも、いつか悔やみの言葉が浮かべばいいのに。
そう思った。
隣りを見る。千影も手を合わせていた。
この人を守るのが自分の使命。
式神の魔術師としてだけではない。父さんの息子として、母さんの息子として、この世に生を受けた一人の男として、そうすべきじゃないかと、そう思ってしまったのだ。
空を見上げる。
笑ってうなずく母の姿が、そこにあるような気がした。
第一章 『託された使命』 完




