残った狂人
扉を規則的なテンポでノックすると、すぐに中から千尋が顔を飛び出した。
「智也さん! 良かった、ちゃんと帰ってきてくれた……! 怪我はないですか!」
「ああ」
血相を変えて質問してくる千尋に短くそう言うと、千尋は目に見えて安堵した。
俺が中に入ると、功も「お兄ちゃん!」と飛びついてくる。そのとき手の甲に功の身体が偶然当たり、思わず俺は顔を顰める。
「っ……」
「あ、ごめんなさい!」
「智也さん? ……あ! その手、怪我してるじゃないですか!」
千尋の視線が俺の腫れ上がった左手に止まり、慌てたように駆け寄ってくる。勿論、功の身体にぶつけて痛がったのは全て故意だ。
予想通り、千尋は心配そうに俺の左手を手に取る。
「この手……怪我してないなんて嘘ですね! 一体どうしたんですか!」
「いや……さっきの奴ら、最初は危害を加えないと近づいてきたんだが、いきなりバットを振り回してきてな……。運悪く手で受け止め損なったんだ」
この前半の内容など、むしろ俺が逆の立場だったもいいとこだ。だが、俺の言葉を疑うそぶりすらしない千尋は、みるみる顔を蒼くした。
「どうしてそんな事を黙ってたんですか! と、とにかく、ここにあるものだけで少しでも治療しないと……!」
千尋は準備していたのか、机に置いてあった救急箱を持ってくる。しかし、肝心の知識がなく、ガサゴソ箱の中をごった返した後で、「と、とりあえずこれを貼りましょう!」と湿布を取り出した。
「ありがとう千尋。だけど、まずは冷やして少し炎症を抑えてから貼ることにするよ」
「あ……そ、そーですよね! すみません……」
俺が苦笑しながらそれをやんわり断ると、千尋はがっくりしたように肩を落とした。すると、功がバケツを持ってやってくる。
「んしょ……はい、お兄ちゃん。バケツに水入れてきたよ。捜したんだけど、氷は全部融けちゃってたから温いかもしれないけど……」
俺は目を丸くする。
「功。よく俺のしようとしてたことが分かったな」
「サッカーの時、足を捻挫した友達がこうしてもらってたから。こんなの誰でも知ってるよ」
「ゔ……」
弟の一言に、姉は苦しそうに胸を抑える。俺は笑って千尋の背中をポンポンと叩き励ますと、バケツの中に左手を入れた。キンキンにとまではいかないが、水はひんやりとして気持ちいい。
俺は手を入れながら、少し真面目な調子で二人に話しかける。
「いいか、功、千尋。信じられないかもしれないが、俺たちを襲ってくるのは感染者だけじゃない。生きている人間もそうなんだ。現にこれだけ偉そうに言っている俺でさえ油断すればこんなことになる。もし、これから俺以外の人間に会っても、無暗に信用するな。優しい二人には酷なことだろうが、生きてい
くためにはそれは必要なんだ。分かってくれ」
二人の目を視ながら、出来るだけ誠実そうに話す。二人は神妙に頷いた。
「……分かったよ。お兄ちゃんとお姉ちゃん以外の人には気を付ける」
「はい。さっきの人たちも外から見た時は親切そうな人達だとひっかかりましたし、これからは見た目に関わらず警戒します」
「よし、約束だぞ、二人とも」
俺は頷くと、左手を持ち上げた。少し動かしてみるが、鈍い痛みが走る。骨までは大丈夫だと思うが、しばらくは安静にしておいた方が良いだろう。
(やっぱり人数差があれだけあると、流石に少し厳しいか)
先ほどの一戦を振り返る。向こうは、まだ成人もしてなさそうな奴ばかりで、正直、油断もあった。だからこそ、感染者を閉じ込めている部屋へ誘導しようとしたのを看破されたり、奇襲に対しての迅速な対応には驚かされた。以前に暴徒などと闘った経験もあったのだろう。
(……特に、あの女は聡いな)
俺の頭に浮かぶのは、灯と呼ばれていた理知的な少女。彼女も十八かそれくらいにしか見えないというのに、俺の誘導を見破り、戦闘中も臆することなく仲間を叱咤し、士気を盛り上げた。彼女と先頭を歩いていた俊介という少年の二人が、奴らのグループをまとめあげているのだろう。
あの二人がいるうちは、ここに仇討ちなどはしてこないだろう。こちらは一人を殺っている。食料を失っているとしても、あの人数で敗走する羽目になった奴のところへは流石に来ないだろう。それに地の利はこちらにあるのだ。来れば正に飛んで火にいる夏の虫だ。
だが逆に、地の利が無ければこちらにリスクがあるのも事実だ。あのとき何もしなかった無口な少女。 あのときは単に怯えてるだけだと思っていたが、よく考えると、立ち位置を常に変えていた気がする。背中には弓を背負っていたことから、おそらく射るタイミングを狙っていたのだろう。デパートという屋内だからこそ使わせる機会もなかったが、屋外で奇襲などされれば危険だ。流石の俺も、矢避けの経験はしたことがない。
「? どうしたんですか智也さん」
「ああ、いや、なんでもない」
ずっと黙っている俺に首を傾げた千尋に、なんでもないと首をふる。そのときには、既に俺の頭の中には既に次のするべきことを考えていた。