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東経百三十六度 〜第二次世界大戦後、日本は東西に分断された〜  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第二十一話 庁内協力線

朝になっても、旅行鞄は出ていた。

押入れの手前。畳の上。中は空のままだった。

西野芳彦はそれを見なかった。


見なかったが、鞄の位置を覚えた。十年前、伊勢へ行った時についた小さな傷。持ち手の革のひび。紀子が丁寧にしまっていたはずのものが、今はすぐ手に取れる場所にある。


空の鞄は、荷物の入った鞄より重かった。


台所では、紀子が味噌汁を温めていた。麻里は黙ってパンをかじっている。昨夜、何かを書いていたノートは見えない。鞄の中か、机の引き出しか、もっと父親の目が届かない場所にあるのだろう。


「今日も遅いの」


紀子が聞いた。


「分からん」

「最近、そればかりね」

「まあ事件もあるからな。市役所も混んどる」


麻里が小さく笑った。

笑いではなかった。

笑う形をした、疑いだった。


「市役所って、何でも混んでるんやね」


西野は答えなかった。

答えれば、嘘になる。

嘘でなければ、もっと悪くなる。


官舎を出る時、玄関の鍵を二つ外した。


『鍵をかける時は、誰から守るかを決めろ。

決められない鍵は、敵の仕事を手伝う。』


藤堂の声は、朝になっても残っていた。


鍵を開ける時は、誰を外へ出すのか。


そんなことは、藤堂は教えなかった。


市役所へ着くと、保護第一課にはいつも通りの朝があった。

電話。湯呑み。朱肉。湿った傘。前日の処理簿。誰かの咳。廊下を走る若い職員の足音。


民生局の窓口は、開く前から人を待っている。

西野は机に座り、書類をめくった。


大阪冬季救援会関係者身元確認。

加納誠の名前を残す会、関連照会。

朝鮮避難民世帯医療扶助。

中之島国会前広場使用予定照会。


最後の一枚で、手が止まった。

中之島。

まだ正式な回覧に乗るには早すぎる。


木島晴江が書類束を抱えて来た。


「西野さん、これ、変なんです」


声が低かった。


机に置かれたのは、救援会関係者一覧だった。仮名簿。右上には赤い判。


公安照会済。

西野は紙を見た。


「いつ出しましたか」

「出してません」


木島は紙の端を指した。


「昨日、私が作ってた途中の写しです。未成年の名前を外す前のもの。まだ課長にも出してません。ここ、私が間違えて線を引き直したところです」


確かに、木島の癖だった。まっすぐ引こうとして、最後だけ少し右へ逃げる線。

それが、もう公安照会済になっている。

紙が歩いた。

いや。

誰かが歩かせた。


佐伯隆司が隣で煙草の箱を振った。


「役所の紙は、歩くのが早いですからな」


木島が佐伯を見た。


「冗談じゃありません」

「冗談で済んだら楽なんですけどね」


佐伯は火をつけないまま煙草をくわえた。

三好課長が奥から顔を上げた。


「どうした」


木島が説明した。

三好はしばらく紙を見ていた。


「別経路で取ったんやろ」

「別経路で、私の仮写しが行くんですか」


三好は黙った。


否定ではない。

分からない、という役所の沈黙だった。


西野は紙を机に置いた。

赤黒台帳の黒い欄が、頭の中で開いた。


大阪市役所。

民生局。

保護第一課。

庁内協力線あり。


十二年前から。


「木島さん」


西野は言った。


「この仮名簿は作り直してください。未成年者名は外す。住所は区まで。学校名も伏せる。世帯番号も削ってください」


三好が眉を寄せた。


「削りすぎや」

「仮名簿です」

「公安照会が来てる」

「正式名簿ではありません」


三好は西野を見た。


「最近のお前は、正式という言葉を便利に使うな」

「役所の言葉ですから」


三好は何も言わなかった。


認めたわけではない。

止めなかっただけだ。


役所では、その差が大きい。


午前九時、窓口が開いた。


石炭代の相談。入院保証人の相談。公安に拘束された息子の荷物の相談。朝鮮避難民世帯の住宅相談。


誰も、自分の名前がどの欄へ入るか知らないまま、椅子に座った。


昼前、痩せた青年が来た。

眼鏡をかけ、鞄の中に紙を詰めすぎている。大阪市立大学の学生だという。名前は三原浩司。広島の方から出てきたらしく、丁寧な標準語の端に、時々やわらかい訛りが混じった。


「加納誠の名前を残す会、いう集まりを作っとります」


木島が対応しようとしたが、西野が代わった。


「どういったご相談ですか」


三原は紙束を膝に置き、両手で押さえた。


「加納さんのことを、市の記録に残したいんです。公安の発表だけじゃのうて、あの人が何をしとったかも。林さんが、陳情書にした方がええって」

「市民陳情ですか」

「はい。まだ書き方がよう分からんので、どこへ出せばええのか、何を添えたら受け取ってもらえるのか、相談に来ました」


三原は紙束を出した。


加納誠について知っていること。

九条印刷所事件の記録。

公安発表への疑問点。

救護班証言。

学校前での書籍回収記録。

未成年者名簿を外した経緯。


手書きの紙が多い。

その中に、高校生らしい字が混じっていた。


西野はすぐに分かった。

麻里の字だった。

題名は短かった。


加納誠について、私が覚えていること。


西野は、その紙を抜かなかった。

抜けば、三原は気づく。

抜かなければ、そのまま書類になる。


「これは市へ提出するものですか」

「はい。林さんが、記録は残した方がいいって」

「林美沙さんですね」

「はい」

「未成年者の証言は、提出用から外してください」


三原は驚いた顔をした。


「でも、本人たちが書いたものです」

「だからこそです。本人が書いた紙ほど、扱いを誤ると危険です」

「隠せ、いうことですか」


感情が出ると、少し訛りが強くなった。


「保管してください。提出はしない。市に出すものは、代表者名、連絡先、成人の証言、救護記録までです」

「それじゃ、なかったことにされます」

「提出すれば、別の名前にされることがあります」


三原は言葉を失った。

西野は紙束を揃えた。


「残すために、出さない紙もあります」

「それ、役所の人が言うんですか」

「役所の人間だから言います」


三原はしばらく西野を見ていた。


理解した顔ではない。

ただ、言葉の重さだけを受け取った顔だった。


「……分かりました。林さんにも、そう伝えます」

「お願いします」


三原が去ると、木島が小さく言った。


「西野さん、それ、規則にありますか」

「ありません」

「じゃあ」

「あとで直せる。今は、それで持たせる」


木島は一瞬、前にも同じ言葉を聞いた顔をした。


人間は同じ場所に戻る。

戻るたびに、少し違う傷を持つ。


昼過ぎ、庶務から封筒が届いた。


神戸の王海運倉庫からだった。表向きは、救援物資の船荷証券写し。宛先は大阪市役所民生局。担当者名は空白。


佐伯が封筒を持ってきた。


「西野さん、神戸からです。庶務で開けたら、中身が読めんから西野さんへ、だそうです」

「庶務に読めないものは多い」

「わしにも多いです」


佐伯は封筒を置き、自分の席へ戻った。

西野は封を切った。


中には船荷証券の写しが二枚。

その間に、薄い紙が一枚。


赤黒台帳の写しだった。


ごく小さな断片。

左に赤、右に黒、中央に灰色。


文字は少ない。


黒欄:大阪市役所民生局。

備考:紙は人より先に歩く。

灰欄:窓口の名を、群衆工作へ転用する兆候あり。


その下に、走り書きがあった。


藤堂の字だった。


昔、名前の書き方を教えた男の字は、今も癖を殺しきれていなかった。右払いの最後が、わずかに跳ねる。

さらに短く、一行。


庁内協力線、継続中。


西野は紙を伏せた。

佐伯が隣で言った。


「難しい船荷証券でしたか」

「紙は、だいたい難しい」

「読める人が読むから難しくなるんでしょうな」

「読めない人間に渡るよりましや」

「そうですかね」


佐伯は煙草をくわえた。

火はつけなかった。

西野は伏せた紙を処理簿の下に滑り込ませた。


藤堂は神戸にいる。

しかし、紙は大阪へ来る。


夕方近く、木島が作り直した名簿を持ってきた。


未成年者名は消えている。

学校名も伏せられている。

住所は区まで。

連絡先は代表者のみ。


「これでいいですか」


西野は確認した。

麻里の名前はない。

ただし、名前がないことは、安全と同じではない。


「いいです」


木島は少しだけ息を吐いた。


「西野さん」

「何ですか」

「最近、肩がつかれる業務ばかりですね」


西野は紙から目を上げた。

木島は責めている顔ではなかった。

ただ、気づいた顔だった。


「名前を消すのは、悪いことですか」


西野はしばらく黙った。


「誰が消すかによります」

「誰なら、いいんですか」


西野は答えられなかった。


自分がその答えを持っていないことを、加納を撃ってから知っていた。


木島は書類を抱えた。


「私は、名前を消すのは怖いです」

「怖がっていてください」

「はい」

「怖がらなくなったら、別の課へ行った方がいい」


木島は少しだけ笑った。


「課長に言われるより、怖いです」


「なら効きます」


終業時間を過ぎても、西野は席を立たなかった。


処理簿の下にある藤堂の紙が、机の木目よりも重く感じられた。


群衆工作。

窓口の名。

庁内協力線。


まだ、爆弾の言葉はない。

だが、匂いはあった。

紙が火薬の近くへ歩いている匂い。


その時、木島がもう一枚の書類を持って戻ってきた。


「西野さん、これ……さっき総務から回ってきました」


中之島国会前広場 使用申請。

申請者、加納誠の名前を残す会。

代表、林美沙。

事務取扱、戸倉亮二。


右上には、市の仮受理印が押されていた。

西野は紙を見た。


「林さんに確認しましたか」


木島はうなずいた。


「電話しました。林さんは、まだそんな申請は出してないって」


佐伯の煙草を叩く音が止まった。

三好課長が奥から顔を上げた。

西野は申請書の文字を見た。


中之島。

国会前。

加納誠の名前を残す会。

戸倉亮二。


群衆工作。


窓口の名を、群衆工作へ転用する兆候あり。


ようやく言葉がつながった。


まだ火は見えない。


だが、紙はもう火薬の箱に触れていた。

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