第二十一話 庁内協力線
朝になっても、旅行鞄は出ていた。
押入れの手前。畳の上。中は空のままだった。
西野芳彦はそれを見なかった。
見なかったが、鞄の位置を覚えた。十年前、伊勢へ行った時についた小さな傷。持ち手の革のひび。紀子が丁寧にしまっていたはずのものが、今はすぐ手に取れる場所にある。
空の鞄は、荷物の入った鞄より重かった。
台所では、紀子が味噌汁を温めていた。麻里は黙ってパンをかじっている。昨夜、何かを書いていたノートは見えない。鞄の中か、机の引き出しか、もっと父親の目が届かない場所にあるのだろう。
「今日も遅いの」
紀子が聞いた。
「分からん」
「最近、そればかりね」
「まあ事件もあるからな。市役所も混んどる」
麻里が小さく笑った。
笑いではなかった。
笑う形をした、疑いだった。
「市役所って、何でも混んでるんやね」
西野は答えなかった。
答えれば、嘘になる。
嘘でなければ、もっと悪くなる。
官舎を出る時、玄関の鍵を二つ外した。
『鍵をかける時は、誰から守るかを決めろ。
決められない鍵は、敵の仕事を手伝う。』
藤堂の声は、朝になっても残っていた。
鍵を開ける時は、誰を外へ出すのか。
そんなことは、藤堂は教えなかった。
市役所へ着くと、保護第一課にはいつも通りの朝があった。
電話。湯呑み。朱肉。湿った傘。前日の処理簿。誰かの咳。廊下を走る若い職員の足音。
民生局の窓口は、開く前から人を待っている。
西野は机に座り、書類をめくった。
大阪冬季救援会関係者身元確認。
加納誠の名前を残す会、関連照会。
朝鮮避難民世帯医療扶助。
中之島国会前広場使用予定照会。
最後の一枚で、手が止まった。
中之島。
まだ正式な回覧に乗るには早すぎる。
木島晴江が書類束を抱えて来た。
「西野さん、これ、変なんです」
声が低かった。
机に置かれたのは、救援会関係者一覧だった。仮名簿。右上には赤い判。
公安照会済。
西野は紙を見た。
「いつ出しましたか」
「出してません」
木島は紙の端を指した。
「昨日、私が作ってた途中の写しです。未成年の名前を外す前のもの。まだ課長にも出してません。ここ、私が間違えて線を引き直したところです」
確かに、木島の癖だった。まっすぐ引こうとして、最後だけ少し右へ逃げる線。
それが、もう公安照会済になっている。
紙が歩いた。
いや。
誰かが歩かせた。
佐伯隆司が隣で煙草の箱を振った。
「役所の紙は、歩くのが早いですからな」
木島が佐伯を見た。
「冗談じゃありません」
「冗談で済んだら楽なんですけどね」
佐伯は火をつけないまま煙草をくわえた。
三好課長が奥から顔を上げた。
「どうした」
木島が説明した。
三好はしばらく紙を見ていた。
「別経路で取ったんやろ」
「別経路で、私の仮写しが行くんですか」
三好は黙った。
否定ではない。
分からない、という役所の沈黙だった。
西野は紙を机に置いた。
赤黒台帳の黒い欄が、頭の中で開いた。
大阪市役所。
民生局。
保護第一課。
庁内協力線あり。
十二年前から。
「木島さん」
西野は言った。
「この仮名簿は作り直してください。未成年者名は外す。住所は区まで。学校名も伏せる。世帯番号も削ってください」
三好が眉を寄せた。
「削りすぎや」
「仮名簿です」
「公安照会が来てる」
「正式名簿ではありません」
三好は西野を見た。
「最近のお前は、正式という言葉を便利に使うな」
「役所の言葉ですから」
三好は何も言わなかった。
認めたわけではない。
止めなかっただけだ。
役所では、その差が大きい。
午前九時、窓口が開いた。
石炭代の相談。入院保証人の相談。公安に拘束された息子の荷物の相談。朝鮮避難民世帯の住宅相談。
誰も、自分の名前がどの欄へ入るか知らないまま、椅子に座った。
昼前、痩せた青年が来た。
眼鏡をかけ、鞄の中に紙を詰めすぎている。大阪市立大学の学生だという。名前は三原浩司。広島の方から出てきたらしく、丁寧な標準語の端に、時々やわらかい訛りが混じった。
「加納誠の名前を残す会、いう集まりを作っとります」
木島が対応しようとしたが、西野が代わった。
「どういったご相談ですか」
三原は紙束を膝に置き、両手で押さえた。
「加納さんのことを、市の記録に残したいんです。公安の発表だけじゃのうて、あの人が何をしとったかも。林さんが、陳情書にした方がええって」
「市民陳情ですか」
「はい。まだ書き方がよう分からんので、どこへ出せばええのか、何を添えたら受け取ってもらえるのか、相談に来ました」
三原は紙束を出した。
加納誠について知っていること。
九条印刷所事件の記録。
公安発表への疑問点。
救護班証言。
学校前での書籍回収記録。
未成年者名簿を外した経緯。
手書きの紙が多い。
その中に、高校生らしい字が混じっていた。
西野はすぐに分かった。
麻里の字だった。
題名は短かった。
加納誠について、私が覚えていること。
西野は、その紙を抜かなかった。
抜けば、三原は気づく。
抜かなければ、そのまま書類になる。
「これは市へ提出するものですか」
「はい。林さんが、記録は残した方がいいって」
「林美沙さんですね」
「はい」
「未成年者の証言は、提出用から外してください」
三原は驚いた顔をした。
「でも、本人たちが書いたものです」
「だからこそです。本人が書いた紙ほど、扱いを誤ると危険です」
「隠せ、いうことですか」
感情が出ると、少し訛りが強くなった。
「保管してください。提出はしない。市に出すものは、代表者名、連絡先、成人の証言、救護記録までです」
「それじゃ、なかったことにされます」
「提出すれば、別の名前にされることがあります」
三原は言葉を失った。
西野は紙束を揃えた。
「残すために、出さない紙もあります」
「それ、役所の人が言うんですか」
「役所の人間だから言います」
三原はしばらく西野を見ていた。
理解した顔ではない。
ただ、言葉の重さだけを受け取った顔だった。
「……分かりました。林さんにも、そう伝えます」
「お願いします」
三原が去ると、木島が小さく言った。
「西野さん、それ、規則にありますか」
「ありません」
「じゃあ」
「あとで直せる。今は、それで持たせる」
木島は一瞬、前にも同じ言葉を聞いた顔をした。
人間は同じ場所に戻る。
戻るたびに、少し違う傷を持つ。
昼過ぎ、庶務から封筒が届いた。
神戸の王海運倉庫からだった。表向きは、救援物資の船荷証券写し。宛先は大阪市役所民生局。担当者名は空白。
佐伯が封筒を持ってきた。
「西野さん、神戸からです。庶務で開けたら、中身が読めんから西野さんへ、だそうです」
「庶務に読めないものは多い」
「わしにも多いです」
佐伯は封筒を置き、自分の席へ戻った。
西野は封を切った。
中には船荷証券の写しが二枚。
その間に、薄い紙が一枚。
赤黒台帳の写しだった。
ごく小さな断片。
左に赤、右に黒、中央に灰色。
文字は少ない。
黒欄:大阪市役所民生局。
備考:紙は人より先に歩く。
灰欄:窓口の名を、群衆工作へ転用する兆候あり。
その下に、走り書きがあった。
藤堂の字だった。
昔、名前の書き方を教えた男の字は、今も癖を殺しきれていなかった。右払いの最後が、わずかに跳ねる。
さらに短く、一行。
庁内協力線、継続中。
西野は紙を伏せた。
佐伯が隣で言った。
「難しい船荷証券でしたか」
「紙は、だいたい難しい」
「読める人が読むから難しくなるんでしょうな」
「読めない人間に渡るよりましや」
「そうですかね」
佐伯は煙草をくわえた。
火はつけなかった。
西野は伏せた紙を処理簿の下に滑り込ませた。
藤堂は神戸にいる。
しかし、紙は大阪へ来る。
夕方近く、木島が作り直した名簿を持ってきた。
未成年者名は消えている。
学校名も伏せられている。
住所は区まで。
連絡先は代表者のみ。
「これでいいですか」
西野は確認した。
麻里の名前はない。
ただし、名前がないことは、安全と同じではない。
「いいです」
木島は少しだけ息を吐いた。
「西野さん」
「何ですか」
「最近、肩がつかれる業務ばかりですね」
西野は紙から目を上げた。
木島は責めている顔ではなかった。
ただ、気づいた顔だった。
「名前を消すのは、悪いことですか」
西野はしばらく黙った。
「誰が消すかによります」
「誰なら、いいんですか」
西野は答えられなかった。
自分がその答えを持っていないことを、加納を撃ってから知っていた。
木島は書類を抱えた。
「私は、名前を消すのは怖いです」
「怖がっていてください」
「はい」
「怖がらなくなったら、別の課へ行った方がいい」
木島は少しだけ笑った。
「課長に言われるより、怖いです」
「なら効きます」
終業時間を過ぎても、西野は席を立たなかった。
処理簿の下にある藤堂の紙が、机の木目よりも重く感じられた。
群衆工作。
窓口の名。
庁内協力線。
まだ、爆弾の言葉はない。
だが、匂いはあった。
紙が火薬の近くへ歩いている匂い。
その時、木島がもう一枚の書類を持って戻ってきた。
「西野さん、これ……さっき総務から回ってきました」
中之島国会前広場 使用申請。
申請者、加納誠の名前を残す会。
代表、林美沙。
事務取扱、戸倉亮二。
右上には、市の仮受理印が押されていた。
西野は紙を見た。
「林さんに確認しましたか」
木島はうなずいた。
「電話しました。林さんは、まだそんな申請は出してないって」
佐伯の煙草を叩く音が止まった。
三好課長が奥から顔を上げた。
西野は申請書の文字を見た。
中之島。
国会前。
加納誠の名前を残す会。
戸倉亮二。
群衆工作。
窓口の名を、群衆工作へ転用する兆候あり。
ようやく言葉がつながった。
まだ火は見えない。
だが、紙はもう火薬の箱に触れていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
少しでも面白いと思っていただけたら、下の☆で評価やブックマークをいただけると嬉しいです!




