誰かのための嘘
夜の雨は、街のざわめきを静かに包み込み、音を小さくする。
傘を打つ規則的な音だけが、濡れたアスファルトの上で、街の輪郭をかろうじて保っていた。
その中を、一人の男性が歩いている。
スーツは雨で少し湿り、ネクタイは緩み、シャツの襟元から雨粒が伝っていた。
足取りは迷いなく見えるが、まるで宙に浮くように、地面に完全には根ざしていない歩き方だった。
「……これで、よかったんだ」
誰に言うでもなく呟く。声は雨に溶け、すぐに消えた。
ポケットの中で、スマートフォンが震える。
画面には「母」の文字。
数秒間、指先で触れずにただ見つめた後、彼はそっと画面を伏せた。
「今は……出ない方がいい」
それは嘘だった。正確には「出ない」のではなく、「出たくない」のだ。けれど、その違いを認めることは、今の彼にはできなかった。
病院を出てきたばかりだった。医師の言葉は短く、しかし胸に重く突き刺さった。
今すぐに、家族を呼んでください。
その意味を理解するのに時間はかからなかった。だから彼は「分かりました」とだけ答え、病室を出たのだ。
母はまだ眠っていた。目を覚ませば、全てを理解してしまう状態だった。だから彼は医師にこう頼んだ。
「今日は、少し安定していると伝えてもらえますか」
医師は一瞬だけ迷い、そして静かに頷いた。
雨の中を歩きながら、彼は何度も自分に問いかけていた。
あれでよかったのか。
真実を伝えれば、母は目を覚ました後恐怖の中にいることになっただろう。
家族はすぐに駆けつけ、別れの準備が始まったかもしれない。
それが「正しい」ことだったのだろうか。
けれど、頭の中でどうしても一つの光景が浮かぶ。
怯えた母の顔。震える手。「まだ大丈夫」と言いながら、崩れていく時間。
その光景が、彼を前に進ませることをためらわせる。
進むことと、守ることの間で揺れる胸の重さ。
それは雨よりも重く、足元の水たまりにさえ圧を押し付けるように感じられた。
街灯の明かりが、水面に揺れて反射する。彼はその揺れに、過去の選択の残像を見た。
大学時代、初めての大きな決断。夢を追うか、安定した職を選ぶか。親友の顔が浮かぶ。あの時、彼は安全な道を選んだ。夢は後回しにした。結果、成功と呼べるものを手にしたが、心の奥底ではいつも、選ばなかった世界が微笑んでいた。
就職活動中、誰もが焦っていたあの頃、彼は心の声を無視した。
本当にこれでいいのか。
選択の先に見えたのは、安定した給料と、しかし色褪せた日々。
喜びも、驚きも、未来への期待も、全部少しずつ削ぎ落とされていった。
恋愛も同じだった。好きになった女性は、都会の遠い場所で夢を追っていた。彼はその夢を応援するつもりだったのに、結局、自分の安心と生活を優先してしまった。電話で笑顔を聞くたび、胸の奥に小さな痛みが刺さった。
「……それは、違うだろ」
口に出した瞬間、自分でも驚くほど強い声になった。
そのときだった。
「その違いは、誰が決めるんですか」
背後から声がした。男は足を止める。振り返ると、雨の中に一人の女性が立っていた。傘も差さず、濡れていないようにも見える。
「……誰ですか」
「選択を扱う場所の者です」
静かな声だった。どこかで聞いたことのある響き。
「あなたは今、嘘を選びましたね」
男の喉がわずかに動く。
「……違う」
「違いますか」
女性は一歩も近づかない。ただ、まっすぐに見つめている。
「俺は……」
言葉が詰まる。
「ただ、母に余計な不安を与えたくなかっただけだ」
「それを、嘘と呼びます」
静かな断定だった。雨音が急に大きく感じられる。
「じゃあ何が正しいんですか」
男は声を荒げた。胸の奥で、言葉にならない感情がうずく。
恐怖、後悔、そして守りたいという一心。全部が混ざり合い、言葉として溢れ出した。
「全部正直に言って、苦しませることですか」
「いいえ」
女性は即答した。その速さに、男は一瞬言葉を失う。
「正しさの話ではありません」
「じゃあ何の話だ」
「責任の話です」
雨が二人の間を流れていく。水滴が傘の布を叩く音が、まるで問いかけの合図のように響いた。
「嘘は、誰かを守ることがあります」
女性は静かに続ける。
「ですが同時に、現実から目を逸らす行為でもあります」
「……」
「あなたは今、どちらを選びましたか」
男は答えられなかった。喉の奥が乾き、胸が詰まる。頭の中に病室の母の顔が浮かぶ。
もし真実を伝えたら。もし黙っていたら。どちらも救いではなく、どちらも正しさではない。
彼は歩きながら、ふと三年前の母との会話を思い出した。
まだ元気だった頃、母は何気なく言った。
「困ったときは、自分で選びなさい」
その時は軽い笑いで聞き流していた言葉。
それが今、胸に刺さる。選ぶことは簡単ではない。
選んだ結果は、逃れられない現実として返ってくる。
雨が激しさを増し、街灯に照らされた水滴が、まるで過去の選択の断片のように煌めいた。
大学での友人、初めての恋人、離れた故郷。すべての瞬間が、彼の目の前で反射し、問いかけてくる。
「……分からない」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
女性は少しだけ目を細める。
「分からないまま選ぶことは、悪ではありません」
「でも」
「ただし」
言葉が重なる。
「その結果から逃げることはできません」
沈黙。
雨は変わらず降り続いている。男はゆっくりと膝に力を入れる。
「じゃあ俺は……」
声が震える。
「間違ったのか」
女性はしばらく答えなかった。そして静かに言った。
「その判断は、まだ早いです」
「……早い?」
「はい」
「結果はまだ続いています」
その言葉に、男は顔を上げる。
「続いている?」
「はい」
「じゃあ、俺はこれからどうすればいい」
女性は初めて、ほんのわずかだけ視線を外した。雨の向こうを見るように。
「選び続けてください」
「……選び続ける?」
「嘘を守るのか、真実に戻るのか……」
少し間を置く。
「その結果に向き合うかどうかです」
男はその場に立ち尽くす。雨は冷たいのに、思考だけが熱を持っている。
「俺はただ……」
声が途切れる。
「母を怖がらせたくなかっただけなんだ」
その言葉は、嘘でも本当でもなかった。
女性は静かに頷く。
「それは事実です」
短い肯定。否定ではない。
しばらくして、男は深く息を吐いた。
「……病院に戻る」
それは宣言ではなく、確認だった。
女性は頷く。
「はい」
「嘘をついたままかもしれない」
「かもしれません」
「それでもいいのか」
「いいかどうかは、あなたが決めます」
男は少しだけ笑った。
「答えはくれないんだな」
女性は何も答えない。
彼は雨の中を引き返す。一歩ごとに迷いは消えない。それでも足は止まらなかった。
病室に戻ると、母はまだ静かに眠っていた。彼は椅子に腰を下ろす。外の雨音が窓を打つたびに、部屋の空気が揺れる。
手を母の肩に置き、ゆっくりと揺らす。母の指先は冷たいが柔らかく、心の奥にあった重さが少し和らぐ。
そして彼は、過去の自分に向き合う。大学での選択、恋愛、友人との距離。すべてが、今の母との時間のためにある。
その夜、病室には静かな時間が流れた。雨の音と彼の小さな呼吸だけが、部屋の空気を満たしている。
外の世界はまだ濡れているが、彼の中には、希望の光が差し込んでいた。
十人目の選択は、こうして静かに、確かに未来へつながっていく。
遠く離れた相談所では、女性がカウンターの奥で小さく息を吐いた。
「十人目」
そう呟いたあと、少しだけ視線を上げる。
選択相談所の時計は、今日も正確に進んでいた。
何も知らないように、何も見ていないように。
ただ、時間だけを刻んでいた。
そして、わずかに針が揺れた。
まるで、新しい選択の始まりを祝うかのように。




