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壊れた時計

 相談所の時計は、いつも正確だった。


 少なくとも――この部屋に初めて足を踏み入れた者は、誰もがそう感じる。


 秒針は迷うことなく、一定の速度で円を描く。カチ、カチ、と乾いた音が規則正しく響き、その音だけが、この空間に確かな「時間」を与えているかのようだった。


 壁にはいくつもの時計が掛けられている。形も色も異なるそれらは、それぞれが微妙に違う時刻を示しながらも、不思議と不協和音を生むことはない。


 むしろ、すべてが重なり合い、ここにいる者の心を静かに落ち着かせていた。


 まるで――時間そのものが、この場所に調律されているかのように。


 だが、その中にひとつだけ。


 異物のように、沈黙している時計があった。


「……まだ止まってる」


 女性は小さく呟いた。


 カウンターの奥、少し古びた木枠の時計。


 その秒針は、途中で止まり、ぴたりと動かない。


 それでも、他の時計たちは何事もないかのように時を刻み続けている。


 だからこそ、その停止は余計に際立って見えた。


 取り残された時間。


 そこに閉じ込められた、何か。


「動かしたほうがいいですか」


 女性は静かに問いかける。


 誰に向けたものでもない言葉。


 だが、この場所では、それで十分だった。


 返事はない。


 それでも彼女は、その沈黙に違和感を覚えなかった。


 ここでは、答えは必ずしも「返ってくるもの」ではない。


 ときに、それは沈黙の形でそこにあり、ときに自分自身の内側から浮かび上がってくる。


 彼女は、そのことをよく知っていた。


 だからただ、止まった時計を見つめる。


 まるで、それが何かを語りかけてくるのを待つように。


 そのとき。


 静かに、扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 女性は顔を上げる。


 入ってきたのは、スーツ姿の男性だった。


 年齢は三十代半ばほど。整った身なりとは裏腹に、その表情には疲労が色濃く滲んでいる。


 だが、その奥には奇妙な落ち着きがあった。


 何かを諦めきった者だけが持つ、静かな均衡。


「……ここ、まだやってるんですね」


 男はそう言って、わずかに口元を緩めた。


「はい」


 女性は即答する。


 迷いはなかった。


 その答え自体が、この場所の在り方を示しているかのように。


「変わらないな」


 男は小さく笑った。


 その言葉に、女性はほんのわずかに目を細める。


「以前にも?」


「ええ」


 男はゆっくりと椅子に腰を下ろした。


 その視線は、女性ではなく――壁の時計へと向けられている。


 止まった秒針。


 そこに、何かを重ねるように。


「それ、まだ直ってないんですか」


「ええ、止まっています」


 短い答え。


 男は小さく頷いた。


「……そうですか」


 どこか納得したような、そしてどこか安堵したような声だった。


「本日は、どのようなご相談でしょうか」


 女性が問いかける。


 男は少しだけ間を置いた。


 言葉を選ぶように、息を整える。


 そして、静かに言った。


「時間の話です」


 部屋の空気が、わずかに重くなる。


「時間」


「ええ」


 ゆっくりと頷く。


「やり直せるかどうか」


 その言葉は、静かでありながら、確かな重さを持っていた。


「過去を、ですか」


「そうです」


 男は苦く笑う。


「やり直したいことが、多すぎて」


 視線が落ちる。


 握られた手に、力がこもる。


 その指先はわずかに震えていた。


「でも最近、気づいたんです」


「何にですか」


「やり直したいと思っているうちは、ずっとそこにいるって」


 その言葉に、女性はすぐには答えなかった。


 代わりに、止まった時計を見つめる。


 動かない針。


 それはまるで、ある一点に縫い留められた記憶のようだった。


 触れれば、そこから何かが溢れ出してきそうな――そんな気配。


「この時計は」


 女性が静かに口を開く。


「壊れていると思いますか?」


 男は少し考えた。


 そして問い返す。


「あなたには、壊れてるように見えますか」


「いいえ」


 迷いのない答え。


 男は小さく笑った。


「昔から止まっているのに壊れてない、か」


「……昔から?」


「ええ」


 男の視線が遠くへ向かう。


「初めてここに来たとき」


 ゆっくりと、言葉が紡がれる。


「この時計だけが、止まっていたんです」


 女性の目が、わずかに細められる。


「他の時計は全部動いているのに、これだけが止まっている」


 男は続けた。


「その違和感が、やけに怖かった」


 静かな声だった。


 だが、その奥にははっきりとした感情がある。


 取り残されることへの恐れ。


 時間に置いていかれる不安。


「そのとき、あなたは何を選んだんですか」


 女性の問い。


 男は、しばらく沈黙した。


 そして。


「やり直しです」


 短く答える。


「過去を変える、ということですか」


「はい」


 頷き。


「ここなら、それができると思った」


 その瞬間。


 空気が、わずかに歪んだ。


 男の視界が揺れる。


 そして、景色が切り替わる。


 若い自分。


 選ばなかった道。


 別れなかった未来。


 違う会社。違う人間関係。


 すべてが「うまくいっているように見える世界」。


 だが。


「……違う」


 男は呟く。


 その世界の中でも、自分は迷っていた。


 別の選択を思い出し、また別の後悔を抱えている。


 やり直したはずなのに。


 まだ、やり直したいと思っている。


「なんでだよ……」


 声が漏れる。


 景色が崩れる。


 そして、元の相談所へ戻った。


 静寂。


 時計の音だけが響く。


 男はゆっくりと息を吐いた。


「変わらなかったんです」


 かすれた声。


「やり直しても」


 女性は静かに頷いた。


「はい」


「結局、別の後悔が増えただけで」


 男は笑う。


 それは諦めに近い、乾いた笑いだった。


「時間って、戻らないんですね」


「はい」


 即答。


 その言葉に、迷いはなかった。


 沈黙が落ちる。


 止まった時計。


 それでも、この部屋の時間は確かに流れている。


 男はその不思議さを、どこかで受け入れ始めていた。


「その時計」


 男が言う。


「ずっと直さないんですか」


 女性は一瞬だけ視線を落とした。


「直せません」


「でもどこか壊れてるんじゃないですか」


「いいえ」


 短く、はっきりとした否定。


「止まっているだけです」


「……違いはあるんですか」


 女性はゆっくりと答える。


「壊れたものは、戻りません」


 一拍。


「でも」


 視線が、止まった針へ向けられる。


「止まったものは、動き出す可能性があります」


 男はその言葉を、静かに受け止めた。


 胸の奥で、何かがわずかに動く。


 それが希望なのかどうかは、まだ分からない。


「じゃあ僕は」


 男はゆっくりと立ち上がった。


「まだ、間に合いますか」


 女性はすぐには答えない。


 時計を見る。


 止まった秒針。


 そして、静かに言った。


「間に合うかどうかは、誰にも分かりません」


 男は目を伏せる。


「ただ」


 女性は続けた。


「今ここに来たという事実だけは、変わりません」


 その言葉は、静かで、確かな重みを持っていた。


 男は小さく息を吐く。


「……それでもいいのかな」


「それでもいいと思います」


 即答。


 今度は、わずかな温度があった。


 男は苦笑する。


「やり直すんじゃなくて」


「はい」


「進むしかないってことか」


「そうですね」


 短い沈黙。


 やがて男は、少しだけ軽くなった足取りで扉へ向かった。


「相変わらず、はっきりした答えは出さないですね」


「どなたにも出していません」


「でも、楽になりますね」


 その言葉に、女性はわずかに目を細めた。


 男は扉の前で立ち止まる。


 振り返る。


「時計は」


「はい?」


「今後も修理には出しません」


 女性は静かに言う。


「でも、いつか動くと思っています」


 男は微かに笑った。


「それ、希望ってやつですか」


「さあ」


 女性は小さく首を傾げる。


「憶測です」


 扉が閉まる。


 静寂が戻る。


 カチ、カチ、と他の時計の音だけが響く。


 止まった時計は、依然として動かない。


 だが、ほんのわずかに。


 秒針が、震えたように見えた。


 女性はそれを見上げる。


 長い沈黙のあと、ぽつりと呟いた。


「九人目」


 その声は、誰に届くでもなく、空間に溶けていく。


 彼女は目を細め、止まった針を見つめ続ける。


「そろそろですね」


 その意味を知る者はいない。


 ただ、時計だけがそこにあった。


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