第二章
徹は子供を見て、二年前にこの事務所を訪れた光景を思い出す。雨は降っていなかったものの、自分もドアの前に立っていたなと、懐かしい思いに包まれたと同時に、実はあの子供も天我の助手になりたくて来たのではないかという、不安に駆られた。
あの子供の将来を奪ってはいけないという使命感が芽生え、徹は立ち上がり子供の所に向かった。
「ねえ、どうしたの?」
天我の隣に立ち、子供と視線を合わすため腰をかがめ言うと、子供は唐突に事務所の中へ飛び込んできた。
「ちょっと」
徹は子供を捕まえようと手を伸ばすが、長さが足りず伸ばした勢いで床に倒れてしまった。その姿を、天我は指を指しながら笑っている。
「所長。笑ってないで、あの子供捕まえてくださいよ」
倒れながらも懸命に、徹は言った。天我は真剣な表情を浮かべ、子供を追う。子供は、先ほどまで天我が座っていたソファーに腰掛け、テレビのリモコンを手に取った。
「おい、こら。何やっているんだ、小僧」
小学生ぐらいの子供にも、天我は容赦なかった。矢のごとくソファーまで走っていくと、子供の肩を掴んだ。
「天我さん、相手は子供ですよ」
倒れた痛みを抱え、ふらつきながら天我のもとへ向かった。天我は鼻息を荒くし、子供の肩を掴んで離そうとしない。子供は痛みで顔を歪めていた。
「お前、俺の聖域に土足で踏み込むな」
土足のままソファーに乗られたことが、天我はなによりも許せないらしく、徹は恥ずかしい気持ちになった。ソファーを聖域と形容しているところが、何よりも恥ずかしく感じた。
「リモコンを離せよ」
きつい口調で天我は言うと、子供が持っているリモコンを奪おうとした。
「何!」
が、奪われる前に子供はリモコンの電源ボタンを押し、テレビをつけた。液晶には、土砂降りの中、ある一軒家が映し出されていた。
「お前の家は、テレビもないのか」
「違うよ!」
初めて、子供が言葉を発した。
「じゃあ、何だよ」
嘲笑するような響きが、天我の口調に込められていた。
「君は一体、ここに何の用事で来たの?」
子供の隣に腰を落ちつかせて、徹は優しく問うた。その口調に子供は若干警戒心を弱めて、答えた。
「僕は、聞いたんだ」
「何言っているんだ、お前?」
子供を睨みつけながら言う天我を手で制して、徹は詳しい事情を聞きだそうとした。
「ねえ、どうしたのかな?」
子供の視線は、液晶に釘付けになっていたので、徹も釣られて液晶に視線を向ける。どうやら、事件の報道らしい。アナウンサーがマイクを片手に、雨に声をかき消されながらも懸命に視聴者に伝えようとしている姿が印象的だった。
『えー、今から約十時間前、この家に住んでいる五十嵐逸子さん、三十二歳が亡くなっているのが発見されました。外傷がないことから、警察は薬物による中毒死と考えている模様です。第一発見者は、彼女の夫、五十嵐優さん、三十四歳。昨夜沖縄から戻ってきてビジネスホテルに泊まり、今朝午前六時に帰宅すると彼女の死体を発見し、すぐ警察に通報したとの事です。死亡推定時刻は昨日の一時から三時の間。警察は、その頃の目撃証言がないことから、自殺の線が濃厚だという見解を強めている模様です』
耐え切れなくなったのか、子供はテレビを消した。途端に、事務所が静寂に包まれる。徹はこの時、全てを悟った。この子供が、土砂降りの中アカツキ探偵事務所を訪ねてきた理由を。
「警察は優秀だねぇ」
腕を組み、暗くなった液晶を見つめながら天我は呟くように言った。
「たった十時間で、結論を出すなんてさ」
一呼吸の間を置いてから、天我は子供のほうへ目を向けた。
「けど、警察の見解に君は疑いを向けているわけだ」
天我は俯き加減でソファーに座っている子供に、目を向けた。目に、先ほど子供に対して向けていた敵意は込められていなかった。徹は、ほっと胸を撫で下ろした。
「僕、聞いたんだもん……」
今にも消え入るような声だったが、天我たちの耳にはしっかりと届いていた。
「昨日もあの人は、歌ってくれた。生霊の唄を……」
「生霊の唄?」
二人は一様に首を傾げ、同時に聞き返した。
「何言っているんだ、この小僧?」
天我は、子供の隣に座っている徹に耳打ちした。
「もしかして君は、彼女の死亡推定時刻に、彼女の唄声を聴いたって言うのかい?」
徹の言葉に子供は、力なく頷いた。後ろで、天我は愉快そうに笑うと言った。
「そりゃぁ、面白い」
「どこがですか」
徹は立ち上がると、たしなめるように言った。
「だって、ありえないじゃなですか。彼女が死んでいたっていうのに、彼女の歌を聴いたって言うんですよ」
「ありえないのか?」
「ありえませんよ」
「じゃあ、どうして小僧は言っているんだ?」
「それは……妄想ですよ」
「妄想?」
珍しく天我は怒りの表情を作った。
「相手が小僧だからか?」
「いえ、別にそういう意味で言ったわけじゃ……」
「小僧は小僧なりに、救いを求めているんだよ。少しぐらい、付き合ってやってもいいんじゃねぇの?」
大人気なく子供に怒っていた天我の姿は、もはやなかった。そのことに若干の戸惑いを浮かべつつ、徹は反論した。
「他に依頼者が来るかもしれませんし」
絶対に来ないと頭で分かっていながらも、子供の妄想に付き合うことが苦痛な徹は苦し紛れにそう言った。だが、この時に限って、普段不真面目な天我は正論を返すのである。
「来るわけないじゃん、俺のところに」
開き直ったその姿は、どこか清々しかった。徹は両手を上げて、降参の意を表した。
「よし、小僧。聞かせろよ、その話」
子供を無理やりソファーからどかして、天我は言った。
「その前に……体拭け。風引くぞ」
天我は、ずぶぬれの子供に、自分のデスクの上に丁度置いてあったタオルを投げた。子供は無言のまま、受け取ったタオルで体を拭く。いくらきつい言葉を言っていても、やはり優しさはあるのだなと、徹は久々に天我を見直した。
「おい、徹」
「はい?」
一応助手としてお茶を用意しようとキッチンに向かおうとした矢先、呼び止められた。
「あれ、用意しろよ」
「あれ?」
「ほら、俺の部屋にあると思うからさ。来客用のソファー」
そんなものがあったのかと、感心しながら徹は指示通り天我が寝泊りしている部屋へと向かった。
一日の大半を過ごすのが、机などが置かれた今いる事務所である。普段は、依頼人など来ないから徹は新聞を読み、天我はテレビや競馬などに没頭している。
徹は事務所を出て、向かい側のドアを開けた。まず玄関が現れ靴を脱いでから上がるのだが、面倒くさいので徹は土足であがることにした。
一本の短い廊下の中間辺りに、ユニットバスに通じるドアがあった。廊下の先には、天我が普段寝泊りに使用している部屋がある。ベッドがあり、推理小説が敷き詰められている本棚が、三つ置かれている。物も散乱しておらず、きちんと整理整頓されている。天我はあのような性格をしているが、意外と几帳面な一面があった。
天我が言っていた、来客用のソファーを探す。探している最中、何故来客用のソファーが事務所にないのか、疑問を思い浮かべたが、やはり言わずにおくことにした。討論するだけ時間の無駄だと、分かりきっているからだ。
ソファーは、出入り口のすぐ横にあった。徹はソファーを見つけ、持ち上げる。案外軽かったので拍子抜けした。
持ち上げたまま一人で、事務所に戻る。天我は、火のついていないタバコを口に銜えながら、腕を組み、競馬を聞いている時と同じぐらい表情を輝かせていた。
徹は、天我の聖域の向かい側に今運んできた来客用のソファーを置いた。
「よし、小僧。腰掛けろ」
偉そうに言ってから、天我は自分のソファーに腰掛けた。
「所長」
子供相手に、本気で話を聞こうとしている天我が心配になった徹は、不安げな面持ちで呼んだ。
「何だ?」
背中を思いっきり預けながら、天我は言う。
「話し聞くんですか?」
「ああ」
「マジですか?」
「マジだ」
悩む素振りを見せず天我は答えると、足を組みソファーに座らない小学生をにらみつけた。
「おい、早くしろ。お前の話、聞きたいんだ」
徐々に子供の警戒心が解かれていくのが、端から見ていて徹は分かった。
子供は向かい側のソファーに腰掛けると、少し緊張した様子のまま、周囲を見渡していた。
「とりあえずさぁ、小僧、名前なんて言うんだよ?」
徹の目には天我が、子供を脅しているヤクザにしか見えなかった。
「……西本卓也」
今にも消え入るような声で、卓也は答えた。
「そうか、卓也か。話してみろよ、卓也。全部な」
一人、目を輝かせている天我を尻目に、徹はため息をついた。諦めのため息だった。助手である以上、所長の命令は絶対であることを、今更ながら徹は悟った。
依然暗い表情を浮かべている卓也だったが、身を乗り出して聞く体勢を取っている天我を見ると、安堵した表情を垣間見せた。どうやら天我は、相手を元気にさせてくれる能力があるみたいだった。そういえば、今まで天我といて呆れたことは何度もあるが、暗い気分には陥ったことがないなと、徹は改めて思った。
固唾を呑むと、卓也はおもむろに喋り始めた。
「僕、あの時間も聞いたんだよ。あの人が、いつものように唄ってくれたんだ。生霊の唄を」