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第八話 蜜蝋の灯りと真夏のグラニテ

第八話 蜜蝋の灯りと真夏のグラニテ


胸の奥が早鐘を打つように高鳴り、マリー・アントワネットは薄絹のネグリジェの胸元を両手で強く押さえた。八月の蒸し暑い夜風がヴェルサイユの大寝室の窓から吹き込み、庭園の泉水の近くに咲く濃い紅色の百日草の青臭い匂いを運んでいたが、部屋の中には消えかけた蜜蝋の蝋燭の甘い油煙と、湯浴みで使ったアーモンド石鹸の香りが重たく漂っていた。化粧机の脇の小テーブルには、氷がすっかり溶けて生温くなったレモンのグラニテの銀器が置かれ、水滴が敷布の上に丸い輪染みを作っていた。兄ヨーゼフがオーストリアへ旅立ってから三ヶ月、毎夜のように繰り返される夫のぎこちない手の震えとためらいを目の当たりにしてきた彼女は、七年という長い年月の澱が今夜こそ解けるのか、それともまた背中を向けて朝を迎えるのかという激しい緊張に喉をからからに乾かせていた。


「陛下、今夜は風が止んで、お部屋の空気が少し息苦しゅうございますね。ウィーンの夏の夜には、窓辺に濡らした麻布を吊るして涼をとったものですけれど、ヴェルサイユでは侍女たちが風邪を召すと申して許してくれませんの」

震える声を隠すようにアントワネットが早口で語りかけると、寝台の端に腰を下ろしていたルイ十六世は、ビクリと大きな背中を丸め、右手の親指の爪をいつものようにカリカリと激しく擦り合わせた。


「……ヴェルサイユの風は、湿気が多いからな。布を濡らすと、壁の金箔が剥がれてしまうんだ」

ルイはそう低く呟き、いつもの寝衣の袖口を引っ張りながら、床の寄木細工の継ぎ目をじっと見つめた。


寝台を囲む金糸の重いカーテンが静かに揺れる中、アントワネットは夫の頑なな態度に耐えかね、今夜もまた同じ沈黙が訪れるのだと早合点して苛立ちを募らせた。自分を拒絶しているのは夫の身体の問題ではなく、自分の美しさや女としての魅力が足りないからに違いないという思い込みが頭をよぎり、彼女は敷布の上に投げ出されていた真鍮のやすりを、足の先で思わず払いのけた。七年間も宮廷の嘲笑に晒され続けた惨めさが一気に噴き出し、彼女は寝台の上で膝を抱え込み、ルイの丸い肩を睨みつけた。


「陛下は、今夜もあのやすりで金具を磨いて夜を明かすおつもりなのですか。兄上があれほど親身に教えてくださったのに、私に触れることさえそんなにお嫌なのですか」

投げやりな言葉をぶつけてしまった瞬間、ルイの肩が大きく震え、彼は擦り合わせていた爪の動きをぴたりと止めた。


ルイの手首には、幼い頃の火傷の痕と、あの真鍮の蝶番を扱っていた頃の赤黒い傷跡が消えずに残っていたが、その手は以前のように逃げ隠れすることなく、ゆっくりとアントワネットの細い足首へと伸ばされた。夫の瞳に宿っていたのが拒絶ではなく、彼女を傷つけることを極度に恐れる少年のごとき怯えであったと知った時、アントワネットは自分の浅はかな毒舌を悔いて息を呑み、唇を強く噛みしめた。暖炉の前の絨毯には、夕食の給仕が落としていったパンの固い耳がひとかけら、埃をかぶって転がっていた。


「……嫌なはずがないだろう。僕は、お前に痛い思いをさせたくないだけなんだ。鍛冶の仕事で荒れたこの手で、お前の柔らかな肌を傷つけてしまうのが怖くてたまらなかった」

ルイは掠れた声でそう吐露すると、ベッドの脇の小机から、手垢で黒ずんだあの真鍮の蝶番をそっと持ち上げた。


「陛下、その蝶番をまだお持ちでしたの」

アントワネットが驚きに目を見開くと、ルイは蝶番の継ぎ目を指の腹で静かに滑らせながら、ぎこちなく微笑んだ。


「ああ、これは二つの板を繋ぎ止めるためのものだ。最初は軋んで音を立てるが、油を差して何度も動かせば、やがて滑らかに重なり合う。僕たちも、これと同じだ。……それから、さっき台所から運ばれてきたグラニテだが、レモンの皮の苦味が少し強すぎたな。明日は厨房の料理頭に、シロップをもっと多めに入れるよう言っておくよ」

ルイはそう言って蝶番を枕元の机に置くと、長年握り締めていた右手の親指の爪を擦る癖を止め、両手でアントワネットの冷え切った指先を包み込んだ。


カーテンが完全に閉ざされ、暗闇の中で二つの呼吸が重なり合った時、かつてない温もりと微かな痛みが彼女の全身を貫き、七年間の氷が音を立てて砕け散った。翌朝、小鳥のさえずりと共に差し込んできた眩しい光の中で、アントワネットは寝台の敷布に散らばったルイの黒い髪の毛と、昨夜の汗の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、小机に向かって羽根ペンを走らせた。羊皮紙の上には、溢れ出た涙の雫が青いインクを滲ませ、母マリア・テレジアに宛てて「私は人生で最も幸福です」という震える文字がくっきりと刻まれていた。回廊の向こうからは、朝の勤めを始める侍従たちの慌ただしい靴音が響き、宮廷を揺るがし続けた婚姻無効の影は、夏の朝日の中に完全に溶け去っていった。


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