第十話 硝煙の風と真鍮の蝶番
第十話 硝煙の風と真鍮の蝶番
胸の奥を冷たいやすりで削り取られるような悪寒が走り、マリー・アントワネットはカーテンの端を握り締めた。七月の湿った熱風がヴェルサイユの大窓を吹き抜け、中庭の花壇に植えられた深紅のカーネーションが強い陽射しに炙られて萎れかけていたが、部屋の中には冷めきったオニオンスープの饐えた匂いと、廊下から漂う衛兵たちの汗と革の生臭さが澱んでいた。机の上には、近衛隊が届けてきたパリの市況報告書が無造作に広げられ、そこには「赤字夫人の贅沢がパンの価格を吊り上げている」という民衆の落書や、バスティーユ要塞の騒乱を告げる生々しい墨の文字が書き殴られていた。かつて夜ごとのカード遊びや離宮の改築に惜しみなく金を投じていた若き日の自分を思い出し、それが今や国王一家を絞首台へ引きずり下ろそうとする民衆の怒りの薪になっているのだと察した彼女は、指先の震えを隠すようにドレスの膝を強く押さえた。
「ネッケル財務総監は、私ひとりを悪者に仕立て上げて民衆の歓心を買うおつもりなのですわ。ウィーンの母が生きておいでなら、暴徒に頭を下げるなど王室の恥だと厳しく叱りつけたはずですのに、宮廷の男たちは誰もが逃げ腰で、私の胸元ばかりを指さして責め立てます」
悔しさに唇を噛んで吐き捨てると、机の向かいに座っていたルイ十六世は、ゆっくりと顔を上げ、手元にあった冷えたパンの耳を指先でちぎった。
「……民衆が怒っているのは、去年の小麦の不作で粉の値段が上がりすぎたからだ。パン屋の店先には、朝の四時から女たちが列を作っていると聞く」
ルイはそう低く呟き、いつものように右手の親指の爪をカリカリと音を立てて擦り合わせながら、皿の隅に溜まったスープの黄色い脂の浮きを見つめた。
居室の片隅には、子どもたちが先刻まで遊んでいた布張りのボールや絵本が散らばり、暖炉の脇には洗濯を終えた長男の白いシャツが椅子の背に干されたままになっていた。アントワネットは、夫が緊迫した報告書よりも冷えたパンの粉砕に気を取られているのを見て、この人は国の崩壊が目の前に迫っているというのに、相変わらず自分の殻に閉じこもる気なのだと決めつけた。家族を守らなければならないという焦燥感に駆られたあまり、彼女は手元にあった銀のナイフの刃先を、机の上に広げられた報告書の真ん中に突き立てるようにして置いた。
「陛下、パンの粉の値段など、今はどうでもよろしいではありませんか。パリの暴徒が武器を手にしてこの宮殿へ押し寄せてきたら、あなたはまた鍛冶場へ逃げ込んで扉の錠前でも修理なさるおつもりですの」
尖った毒を含む言葉が静まり返った執務室に響き渡り、扉の前で直立していた給仕頭がぎょっとして息を呑んだ。
ルイの太い肩がびくりと跳ね上がり、彼はちぎっていたパン屑を机の上に散らばらせたまま、手首の古い火傷の痕を覆い隠すように袖口を引き下げた。夫の顔に浮かんだのが怒りではなく、愛する妻と子をどう守り抜くべきか答えを見出せない苦悶の色だったと気づいた瞬間、アントワネットは自分の無思慮な暴言を恥じて息を詰まらせ、突き立てたナイフからそっと指を離した。窓の外からは、遠くの並木道で急ぎ足の伝令の騎馬が石畳を蹴立てて走り去る蹄の乾いた音が響いていた。
「……逃げるわけがないだろう。僕はこの国の王で、お前と子どもたちの父親なんだからな」
ルイは静かにそう答えると、上着のポケットから手垢で黒ずんだあの真鍮の蝶番を取り出し、親指の腹でその角をゆっくりとなぞった。
「陛下、まだその金具をお持ち歩きなのですか」
アントワネットが掠れた声で問いかけると、ルイは不器用な笑みを口元に浮かべ、蝶番の左右の羽を合わせたり開いたりしてみせた。
「ああ、七年前にお前が僕の部屋に置き忘れていったものだ。僕たちはこれで結ばれ、子どもたちを得て、ひとつの家族になった。何が起きようと、この蝶番のように、僕たち夫婦は最後まで離れずに繋がっていなければならないんだ。……それから、さっき侍女が言っていたが、庭の井戸の釣瓶の縄が擦り切れているそうだ。暴徒が来ても来なくても、水が出なければ困るから、午後に頑丈な麻縄に替えさせておくよ」
ルイはそう言って立ち上がると、机の上の散らかったパン屑を自分の掌で丁寧に集め、皿の端に寄せてからアントワネットの冷たい手を包み込んだ。
夜になり、ヴェルサイユの上空を黒い雨雲が覆い始めると、遠くのパリの方角から雷鳴とも大砲の轟音ともつかない鈍い地響きが風に乗って届いた。子どもたちが眠る寝室の隣、薄暗い私室の小机の上には、真鍮の蝶番と、萎れたカーネーションを挿した一輪挿しが置かれ、微かな青臭さを漂わせていた。ルイは寝台の端に腰掛け、いつものように右手の親指の爪をカリカリと小さく擦り合わせながら、祈るようにアントワネットの細い肩を抱き寄せた。かつて七年の空白と送還の危機を乗り越えて築き上げた二人の平穏が、今まさに歴史の巨大な暴風に呑み込まれようとしているのを感じながら、彼女は夫の硬い胸板に額を押し当て、暗闇の中で静かに目を閉じた。
「陛下、明日もまた、激しい雨になるのでしょうか」
アントワネットが震える唇で問いかけると、ルイは深く息を吸い込み、低く力強い声で応じた。
「……どんな嵐が来ようと、朝になれば扉を開けて立ち向かうだけだ。僕たちが二人でいる限り、恐れるものは何もない」
夫の確かな声が部屋の暗がりに溶け込み、二人は押し寄せる時代の足音を聞きながら、互いの手の温もりを離すまいと強く握り締め合った。




