第1話 まず、その真珠を返してください
「姉さんは、人に愛されるより働いている方が好きでしょう?」
妹セリアは、私が母から譲られた真珠の髪飾りをつけたまま笑った。父は頷き、私の婚約者だったヴィクトルも、悪びれずに私を見ている。
「だから婚約はセリアと結び直す。クロエ、お前はこれまで通り帳簿と取引先を頼む」
意味を理解するのに、三秒かかった。婚約者は妹に渡す。でも仕事は私が続ける。なるほど。ずいぶん効率的だ。
――私以外の全員にとっては。
レーヴェン男爵家の応接室は、ひどく穏やかな空気に包まれていた。
卓上には、私とヴィクトルのために準備していた婚約披露会に関する手配書や、アーデン子爵家の商務に関する書類が山のように積まれている。
すべて、私が昨夜まで徹夜で調整を終わらせたものだ。
「怒るのも無理はないが、後で落ち着いて話そう。君は表に出るより、裏で実務を支えるほうが輝く。社交はセリアに任せ、君はアーデン家とレーヴェン家の未来のために、その有能さを発揮してくれればいい」
ヴィクトルの声には、一片の悪意もなかった。
彼は本気で「適材適所」を口にしているのだ。
私が彼のために費やした私財、根回し、削った睡眠時間は、婚約者に対する思いやりではなく、単なる「有能な裏方の業務」として処理されていたらしい。
「クロエ、お前は家を支える役に向いている。姉として、妹の門出を祝ってやりなさい」
父バルドの言葉が、私の心の中で決定的な何かを断ち切った。
悲鳴を上げたり、泣き喚いたりする気にはなれなかった。激しい怒りと動揺は確かに胸の奥を焼いているが、それを表に出したところで彼らには「ヒステリー」としか映らないだろう。
私は感情の波を、一つひとつの業務処理へと変換した。
何を定義し、何を禁止すべきか。
「……事情は理解いたしました」
私が静かに口を開くと、三人は安堵の表情を浮かべた。物分かりの良い便利な道具が、またいつも通りに動いてくれると思ったのだろう。
「婚約の変更について、私から異議は申し立てません。ですが、以降のアーデン家に関する商務代行、およびレーヴェン家における私の担当業務は、只今をもってすべて停止いたします」
「……は? クロエ、何を言っているんだ?」
ヴィクトルが目を瞬かせる。
「言葉の通りです。私はあなたの婚約者ではなくなりました。無償で実務を請け負う義理はありません」
「姉さん、意地悪言わないでよ。お仕事、好きじゃない」
「セリア。あなたが今着けている母の真珠の髪飾りは、私の所有物です。貸し出しは終了します。今すぐ外して返却してください」
私が手を差し出すと、セリアは露骨に顔をしかめて父の背後に隠れた。
「家族の財産を細かく分けるな! 少し頭を冷やしなさい!」
父の怒号が響く。これ以上の交渉は時間の無駄だと判断し、私は深く一礼して応接室を後にした。
自室には戻らず、薄暗い地下の保管庫へ向かった。
冷たい石造りの階段を降りながら、ようやく心臓が早鐘を打ち始めた。手が微かに震えている。私は彼らにとって、都合の良い部品でしかなかった。対価も感謝もなく、奪われることが前提の存在。
棚の奥から、母が残した古い木箱を取り出す。
中に入っていたのは、母方の家系が代々保管してきたという古い巻物だった。大半は読めない古代の文字で記されているが、私に理解できるのは短い起動句と、「不当な扱いを正す、救済請願の古契」という要旨だけだ。
母は「何を失わせたいかではなく、何を取り戻したいかを先に定めなさい」と遺していた。だが今の私には、失わせたいものと取り戻したいものの区別がつかない。
「……正してください。私が奪われた、対価と尊厳を」
衝動のままに、起動の言葉を紡ぎ、魔力を注ぎ込んだ。
瞬間、地下室の空気が爆発的に膨張した。
鼓膜を圧迫するような重低音が響き、空間が陽炎のように歪む。肌を焼くほどの熱量が渦巻き、私は思わず目を閉じて後ずさった。
「――我を喚び、不当を訴えし者よ」
地鳴りのような、それでいてひどく滑らかな声だった。
目を開けると、そこに『それ』がいた。
二十代後半に見える、人間離れした美貌の男。
黒曜石のような深い色の髪に、金色に輝く縦長の瞳孔を持った眼。
彼が呼吸をするたびに、地下室の温度が数度上がっているような錯覚を覚える。
見上げなければならないほどの長身から見下ろされ、私は本能的な恐怖で息を呑んだ。
男は、まるで散歩のついでに天候を尋ねるような、ひどく真面目な顔で言った。
「承知した。どの国を滅ぼす?」
「…………はい?」
私の思考が、完全に停止した。
「汝を害した者共の国ごと、我が息吹で灰塵に帰してやろう。三日もあれば片付く。王都から焼くか、それとも国境から削り取るか」
冗談ではない。この眼は、本気で国家の消滅を最善の解決策として提示している。
スケールの違いすぎる異常事態を前にして、私の頭は急速に冷静さを取り戻していった。ここで私が頷けば、間違いなく王都が火の海になる。
「お待ちください。国を滅ぼす必要はありません」
「なぜだ。不当な扱いを受けたのであろう? 害をなす箱庭ごと消し去るのが、最も確実な再発防止だ」
「費用対効果が最悪です。それに、私の生活圏まで焼け野原になります。巻き込まれて私が死んだらどうするのですか」
私が理詰めで却下すると、男は「む、一理ある」と真顔で頷いた。
「ならばどうする。国を焼かずに、いかにして汝の痛みを雪ぐというのだ」
「奪われたものを、取り戻すのです。相手を不幸にするよりも、私の人生を私の手元に戻す方が先決です」
「これは復讐ではありません。誰の物を、誰の名義へ戻すか。その返却手続です」
私は大きく深呼吸をした。
「手始めに……。まず、私のものを返してほしいのです」
「ほう。何をだ?」
「先ほど、私の妹が着けたままになっている、母の真珠の髪飾りを。傷つけずに、ここへ」
「……たやすいことだ」
男が、長い指を軽く鳴らした。
パチン、という乾いた音が響いた次の瞬間。
私の右の手のひらの上に、見慣れた真珠の髪飾りがコロンと音を立てて転がり落ちた。
熱を帯びているわけでもなく、傷一つついていない。つい先ほどまで、セリアの髪を飾っていたはずの現物が、物理的な距離を無視して私の手元へ戻ってきたのだ。
「これは……」
「汝の物であろう? 正しい持ち主の元へ移動させただけだ。もっとも、所有権という人間の曖昧な概念を我が魔力で完全に判定したわけではない。汝が指定し、現物がそこに在ったから手繰り寄せたに過ぎん」
男の言葉に、私は髪飾りを強く握りしめた。
返せるのだ。
奪われたなら、私の意志で、私の元へ戻せばいい。彼らにすがりついて返してくれと懇願する必要はないのだ。
「……素晴らしいです。これで、私自身の持ち分を整理できます」
私はその場で行動計画を組み直した。この屋敷にいれば、父はまた私を「家の資源」として使い潰そうとするだろう。物理的な距離を置く必要がある。
「あなた、お名前は?」
「ゼノスと名乗っておこう」
「ゼノス。私はこれからこの家を出て、母が残した別の家へ移ります。荷造りがあるので失礼します」
私が身を翻して階段を上り始めると、ゼノスは当然のように後ろをついてきた。
「どこへ行くつもりですか?」
「汝の行く場所へ。我は喚ばれたのだからな」
この圧倒的な存在を野放しにするわけにもいかない。私の条件に忠実に従って真珠を無傷で戻した実直さは、恐ろしくはあるが、どこか信頼できる気がした。
「……分かりました。私有地を勝手に燃やさないと約束できるなら、同行を許可します」
その日のうちに、私は古くから私に仕えてくれている老侍女のマーサだけを連れ、最低限の私物とともに母の遺産である小さなタウンハウスへと移った。
父の屋敷を出る際、セリアが「髪飾りが急になくなったの!」と騒いでいた声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
王都の石畳を揺れる馬車の中で、向かいの席に座るゼノスが、再びひどく真面目な顔で口を開いた。
「では次に、どの国を滅ぼす?」
「一国も滅ぼさないでください」
私の事務的な返答が、狭い馬車の中に空しく響いた。




