16.ヴィクトリア⑧
前世通り、使用人用の個室で休んでいたミーアこと『千穂』は、私を見て驚いたように目を見張り、それから彼女の表情にはいろいろな感情が現れては消えた。
『千穂』だった前世の記憶を持ってはいても、私は生まれながらの貴族だ。気品のある所作や、自分を美しく見せる為の姿勢、表情。そういったものを身に付ける為に日々研鑽していた私と、数日前まで女であることを諦めかけて自堕落に生きていた彼女とでは、同じ肉体を得ても内面から滲み出てくる美しさは違って当然のことだ。
私を見る彼女の目には、敵わない者に対峙した際の諦めと、羨望が浮かんでいる。そう、私も前世、本来の身体を取り戻した『ヴィクトリア』を見た時、同じように敗北感を覚えたのだった。
尚も私の身を案じるギルバート君に大丈夫だからと返答して、私は室内に足を踏み入れ、ドアを閉じた。
大丈夫、彼女が私に危害を加えるはずがない。目の前にいるのはミーアではなく、『千穂』なのだから。
でも、彼女は私が元『千穂』だったことを知らない。私も、彼女にその事実を伝えるつもりはない。何故なら、私は転生するまで、その事実を知らなかったのだから。
椅子をベッドの脇に据えて腰を下ろすと、呆けたようにこちらを見つめる彼女の手を握った。
「あなたは、私を救ってくれたのよ、ミーア。自分の主人がやろうとしている恐ろしい事を知って、止めようとしてくれた。本当にありがとう」
そう言うと、呆然とした表情で瞬きを繰り返している彼女に、白々しくも私は彼女が本物のミーアであるかのように振る舞った。
「ああ、あなたは記憶喪失になっているそうね。だから、私と入れ替わっても、何の記憶も抱かずに『ヴィクトリア』として暮らしていたのね」
ああ、そう言えばこいつは私が騎士団に捕まって大変な取り調べを受けている間に、ギルバート君にお姫様抱っこされたり、デコチューされたり、抱きしめられたりしていたんだ。
自然と彼女に恨みがましい目を向けてしまい、駄目よ、今はちゃんとやるべきことをやらなければ、と自分に言い聞かせる。
そうして、私は自分がミーアの身体に入ってしまってから、今日元の身体に戻ることができるまでに一体何があったのか、詳細に語った。
前世で『ヴィクトリア』から聞いた話を、一言一句違えずに伝達することなどまず不可能だ。それでも、自分が前世で何を聞いたのかを思い出しながら、転生した『千穂』がヴィクトリアとして現在に辿り着く為に必要と思われることを伝える。勿論、自分が前世の記憶を持って転生した『千穂』だとは伏せて。
『千穂』は、私が彼女をミーアだと思い込んでいると思っている。私が、元に戻ったミーアと口裏を合わせて、入れ替わりを周囲に知られないようにしようとしていると。今は、それでいい。ヴィクトリアとして生まれ変わってはじめて、彼女は真実を知ればいい。私と同様に。
ミーアの元主だったキャサリン嬢の目的を語り、他人の幸せを横取りしようとした彼女の非道を詰れば、『千穂』は口元を歪めて目を伏せた。
そう、図らずも彼女は、私がこれまで日々の努力によって築き上げた幸せを奪い取っていたのだ。
勿論、彼女は何も悪くない。ただ魔術の暴走に巻き込まれ、向こうの世界で死んだ『千穂』の魂が私の肉体に入ってしまっただけなのだと、一番よく分かっているのは私だ。
けれど、そうやって暗に『千穂』を責めるようなことを言い、それを聞いた彼女が良心の呵責を覚えて目を伏せるのを見ながら、私の胸に沸いたのは爽快感に似た感情だった。
……そう、私は前世の私に嫉妬していたのだ。
女性として輝くことをとっくの昔に放棄し、かといって人間的に成長しようとすることもなく、ただ惰性で人生を浪費していた『千穂』が、棚ぼたのように手に入った幸せにぬるま湯のように浸かりきっていたことが許せなかった。それが前世の自分だったことが、余計に腹立たしさを増した。
気を取り直し、お礼を装って『千穂』にミーアとしての基本情報を渡す。例え事件の際に記憶を失くしたことになっているとはいえ、騎士団に捕えられてから以降のことは知っておいて貰わないと、彼女がミーアとして生きていくこの後の数日間に不具合を生じてしまう。
生まれ変わってから、今日のこの日、この時の場面を想像し、前世の自分と対峙して、自分が冷静でいられるだろうか、前世の『ヴィクトリア』のように淡々と演技を続けられるだろうか、こちらに都合のいい嘘を吐けるだろうかと、正直あまり自信はなかった。
けれど、私は意外と冷静だった。ギルバート君を守る為に、そして『千穂』がヴィクトリアとして生まれ変わる為に、私は自分が前世で『ヴィクトリア』から言われた通りの内容を彼女に話した。
それから『千穂』の手を取ると、私はその手に力を込めた。
「ねえ、お願いがあるの。あなたが私と入れ替わってしまっていたこと、誰にも言わずにいてくれる?」
それとも、もう誰かに言ってしまったかしら、と首を傾げて問えば、彼女は慌てたように首を横に振った。それを聞いて、ああ、やっぱり前世と同じように、『千穂』もギルバート君の為を思って黙っていようと心に決めたのだ、と安堵した。
「例えどんな事情があろうと、別人を妻だと思い込んでいたと知ったら、ギルは傷付くわ。それに、優秀な彼を妬んで、どんなことでも攻撃の材料にしてやろうとする人達もいるの。私は、ギルを守りたい」
真っ直ぐに彼女を見つめれば、彼女も真っ直ぐに見つめ返してくる。
「それは、私も同じ気持ちです」
愛しいギルバート君を守りたいという思いは、私も彼女も同じだった。
その時になって初めて、私の中に『千穂』が可哀想だという思いが芽生えた。
ミーアは、下町育ちの平民で、まだ子供の頃からモントル伯爵家に小間使いとして雇われ、努力に努力を重ねてキャサリン嬢の侍女になった。真面目で気立てのいい、優しく正義漢の強い子だったらしい。
そんなミーアの代わりに新たな人生を歩み出そうとした矢先に、『千穂』は死んでしまうのだ。その時の絶望を思い出すと、今でも胸が潰れそうになる。
せめて、これからの彼女がミーアとして過ごす日々に少しでも支障がないよう、ミーアの罪を軽くして貰う為に努力すると言えば、『千穂』は唖然とした表情を浮かべた。
今、彼女が何を考えているのか、前世の記憶を辿った私は内心苦笑した。
ああ、違うのよ。私は決してできた人間じゃない。心の中は、ギルバート君と夫婦として数日過ごした『千穂』への嫉妬で歪んでいる。
私はあなたに、素直にこの屋敷を出て行って欲しいだけなの。酷い未来が待っているのなら、何もかもぶちまけてここに居座ってやる、だなんて開き直られるのを恐れているだけなのよ。
ぼろぼろと涙を流し、見た目だけでなく心も美しいと私への敗北感に打ちひしがれている『千穂』に、私が出来ることは一つしかなかった。
彼女を抱き締め、心からの祈りを込めて耳元で囁く。
「……大丈夫。あなたはきっと、幸せになれるから」
死の間際、この言葉を思い出して、前世の私は『ヴィクトリア』を恨んだ。
こんな結末になるだなんて夢にも思わず、根拠のない励ましで下手に希望を与え、こんな風に絶望させてくれるなんて。ミーアが死んだと知った後、無責任な事を言ったと思い出して後悔するがいい、とまで思った。
……でも、違うのよ。あなたは本当に幸せになる。だって、今、あなたを抱き締めている、あなたの目に幸せの象徴のように映る私は、あなた自身なのだから。
ミーアの身体に入った『千穂』は、翌日騎士達に連行されていった。
ギルバート君によれば、今回の逃走と貴族家への不法侵入等の罪を加え、その上で私達の減刑の嘆願を考慮して再度罪が決定するそうだ。
「でも、おそらく修道院送りにはならない。先に受けた鞭打ちの刑と相殺されて、明日にでも釈放されるそうだよ」
仕事から帰ってきたギルバート君がそう教えてくれる。
「良かったわ」
ホッと安堵の溜息を吐く。
何もかもが前世の通りに推移して、そして終わった。
これから先のヴィクトリアの人生がどうなるのか、私は知らない。いつ、どこで何が起きて、ギルバート君といつまで一緒にいられるかも全く分からない。それは、ものすごく不安で恐ろしい事だった。
けれど、その一方で、これからようやく私は前世に縛られない、自分の人生を歩み始めるのだ、という思いを噛みしめていた。
夕食時、相も変わらず食卓の中央に鎮座する肉の塊をなるべく視界に入れないように食事を進めていると、不意にギルバート君が笑い出した。
「どうしたの?」
「いや、すまない」
口元に手を当て、ひとしきり堪えきれない笑いを漏らしたギルバート君は、潤んで煌めく青い目をこちらに向けた。
「きみは、記憶を失っている時でも、基本的なところは変わっていなかったってことを思い出してね」
「え?」
「例えば、馬に乗るのを嫌がったりだとか、今の様に肉を心底食べたそうな顔をしながら、必死でその欲求を堪えているところだとか」
嬉しそうにギルバート君は微笑む。
反対に、私は恥ずかしくて赤面した。お肉が大好きで、ずっともっと食べたいと思いながら我慢していたことが、ギルバート君にバレていただなんて……!
「そういう可愛らしいところも、俺の為に綺麗でいてくれようとするところも、俺の愛しいヴィーは変わっていなかった。だから、俺はきみを待っていられたんだ」
本当に記憶喪失だったのなら、この言葉を聞いて、良かったと思えたかも知れない。
けれど、ギルバート君が今可愛いと言った記憶喪失時のヴィーは、私じゃなくて『千穂』だ。
込み上げてくる嫉妬心を必死で堪える。だって、彼は何も知らないのだし、私が本当の事を隠しているのだから仕方がない。……仕方がないのだけれど、込み上げてくる嫉妬心は抑えきれない。
「……記憶がないせいで、あなたにも皆にも随分と心配を掛けたし、不快な思いをさせてしまってごめんなさい」
自然と表情が強張り、口から出る言葉が冷たく固いものになってしまう。
「ヴィー……?」
私の意外な反応に驚いたのだろう。席を立ち、テーブルを回って傍にやってくると、ギルバート君は膝をついて私の手を取り、顔を覗き込んできた。
「どうした? 俺、何かきみを傷つけるようなことを言った?」
首を横に振り、何か言い訳をしなければ、と思っても何も思いつかない。
真実を語ることができない私の口から代わりに出てきたのは、自分でも思ってもみない言葉だった。
「……私、……記憶喪失だった時の自分に、嫉妬しているのね、きっと」
目を見開いたギルバート君は、何かを堪えるように顔を赤くして息を詰めると、数秒立ってようやく大きく息を吐いた。
「全く、きみって子は」
「ごめんなさい。呆れたでしょ?」
「ああ」
クシャッと自分の髪をかき上げ、苛立ったように立ち上がるギルバート君を、嫌われたのかと怖くなって縋るように見上げれば。
「……悪いけど、今夜は覚悟しておいてくれ」
熱に浮かされたような目で見つめられ、そう宣言される。
その瞬間、痺れるような胸の疼きと共に、何となく身の危険を感じてしまった。
そう言えば、彼は私がいなくなってからずっと、お預けを食らっているのだ。昨夜も、階段から落ちて医者から安静を言い渡された私に、彼は手を出せずにいたのだから。
もう一度廻り逢えて、私はギルバート君と再び出会って、努力の果てに前世で羨望した幸せを手に入れた。前世の通りに一度奪われはしたものの、その幸せを再び取り戻すことができた。
これからは、愛する人との幸せな日々を守る為に頑張って生きていこう。子供を産んで、二人で年をとって、……前世で叶わなかった多くの望みを叶えていこう。
愛するギルと、二人で。
読んでいただいてありがとうございました。