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陸 葵祭の鬼


 山上は咲良の入部を許した。


 しかし、条件が付いた。

 まず、表の道場で基本を習うこと。

 稽古は週一回だけ。

 勉強に差し障りが出るようなら、退部してもらう。


「山上さん、女はしゅとーん部に入れないって言ってましたよね? この子は中学生で、体も全然出来てなくて…」

 旭が不満を並べた。

 咲良はそんな空気を読まず、無邪気に喜んだ。

「ありがとうございます! 頑張ります!」


 紅葉は先刻の道場に咲良を入れてしまうべきだったと、後悔した。

 まさか、こんなむさ苦しい道場に入るとは。


雨音(あまね)みたいなのが入って来たなー」

 山上が酒井に言った。

「雨音? ああ。あのクソガキ…」

 酒井は絵を描くことに没頭していく。


「雨音ですか。下手クソなのに退部しないヤツってことですか?」

 旭が眉をひそめ、言った。


「そういう意味ちゃうわ。おまえも最初は下手クソやったやん。…雨音はまだ東京か?」

 山上の問いに、

京都(こっち)にいますよ。来週の稽古は来るって、連絡ありました」

 と、隆一が答えた。


 山上は顎髭を指でいじりながら、

「ほな、来週な。咲良ちゃん。道着、何でもいいし、用意して。待ってるで」

 と、咲良と紅葉を、裏の道場から追い出した。





 蘇芳が妹の部屋のドアをノックした。

「開けるで、紅葉ー。咲良ちゃん、どうなった!?」


 紅葉は机に向かい、勉強していた。

 彼女は椅子に座ったまま、振り返った。

「どうしよう、おにぃ。咲良ちゃん、変なとこに入ってしもたー。しゅとーん部とかいう…」


 蘇芳はびっくりして、

「ええー!! そこ、隆一おらんかった!? あいつが行ってる荒っぽいとこやろ!? 最悪やん!!」

 と、急に力が抜け、一歩よろけた。


「おにぃ、隆一くんが居合やってんの、知ってたの?」

「ああ、一応。俺も誘われたけど、断った。…しゅとーん部!? よりによって、しゅとーん部!?」

 蘇芳は何度も聞き直した。


「そんなにアカン道場なん?」

 紅葉は兄の反応を見て、心配になってきた。


「いや、…なんか変人の巣窟って聞いてるから…。第一、隆一がおるやん。あの変態紳士が」

 蘇芳らしくない、慌てぶり。

「紅葉。どうやって、しゅとーん部見つけたん? あそこ、web検索しても出ぇへんし、道に看板も出てへんやろ?」

 蘇芳が尋ねた。


「適当に道歩いてるうちに、咲良ちゃんが見つけはった。あの子、不思議やねん」

「そやな。俺もこの前、不思議な子やと思ったわ」

 蘇芳は何故か落ち込んで、頭を抱えてしまった。


 蘇芳はしばらく考えた末、

「紅葉。あんたはあんまり出入りせんとき。あの人らには関わらへん方がええ」

 と、忠告した。

 紅葉は意味がわからず、唖然とした。


 やがて、蘇芳がとても不機嫌になって、彼女の部屋から出て行った。

 道にしゅとーん部の看板が出てないことを知っているのは、蘇芳も行ったことがあるからだ。

 彼が何か隠していることを、紅葉は感じ取った。





 今宵は、新月。


 咲良がしゅとーん部から帰って、自宅で夕飯を食べた。

 母はパートに出かけて、留守。

 祖母とこの寺の住職である母の弟、三人で団欒して、早めに休んだ。


 うとうとしかけた頃、風が強いのか、窓の外でガタガタ音が鳴った。

 また透明の鬼が悪戯でもしているのかと思い、そのまま寝入った。


 窓の外で物音は時折激しく鳴り、また静かになって、繰り返した。

 いい加減、目が覚めてしまった。

 起きるのも億劫で、そのまま目を閉じていた。



 突然、壁がバリバリッと破られるような音がした。

 咲良はびっくりしたが、部屋の壁は紙で出来ているわけじゃない。

 だから、本当に破られたのなら、その程度の音で済むはずがない。

 彼女は冷静に、耳を澄まして気配を窺った。


 何かが侵入してきて、フーッ、フーッ、と獣のような息を立てた。

 例えれば、虎のような何か。

 それなりの大きさがあり、のそのそと歩く重量感、振動が伝わる。

 そのうち、生温かい息が咲良の頬にかかった。


 咲良は冷や汗をかきながら、考えていた。

 これは夢か!? 小鬼達の悪戯か!?


 獣が咲良の上から顔を見下ろし、フーッ、フーッと息を吐いた。

 その息が強烈に臭かった。

 生ごみや卵が腐ったような匂い、気絶しそうなほどの悪臭だ。


「う、臭い…」

 咲良は思わず鼻を覆い、横を向いた。


 咲良はそっと目を開けた。

 びっくりするほど間近、顔の上30センチのところに、その鬼の顔があった。


 広い額の生え際に、長い角が二本。

 髪はもじゃもじゃで、獣の毛のよう。

 眉がない。

 生卵の白身のような白目、小さな瞳孔が点と付き、咲良を見詰めている。


 鼻は虎、口は大きく裂け、隙間だらけのガタガタの歯並びをしている。

 耳が異常に大きく、上側が尖っていた。

 痩せて骨ばって、着ている狩衣は、ぼろぼろ。

 四つん這いで、手足は三本指である。



「うぁっ…」

 咲良は目の前の醜い鬼に怯え、固まった。


 フーッ、フーッ、鬼は臭い息を吐きながら、すきっ歯の間から舌を吐き出した。

 鬼の太く長い舌は、30センチ下の咲良の頬に当たる寸前で折れ曲がった。

 ヘビのように、ヒルのように、くねりながら上方向に鎌首をもたげる形まで伸びた。


「長い舌…」

 匂いが目に染みて涙が出たが、咲良は鬼の顔から目が離せなかった。


 鬼は自分の舌で遊ぶように、舌をくねらせていた。

 やがて、その舌をゆっくり引いていき、口に戻した瞬間、最後にヨダレを一滴、布団に落とした。

 咲良は布団を捨てたい衝動に駆られた。


「…咲良。ああ、うまそうじゃ。…マナブにくれてやるのは、勿体ない…」

 残念そうに鬼が呟き、何度も唾を飲み込んだ。

 しかし、鬼は咲良を諦めて、部屋の隅に行った。


 部屋の角の壁へ、再びバリバリッと音を立てて、体をめり込ませてゆく。

「あっ…」

 見ていた咲良が飛び起きた。


 壁に開いた穴は、鬼が突き抜けると同時に塞がっていった。

 舌長の鬼が、異界へ去った。






 五月十五日、葵祭。

 今年は木曜日なので、勿論、紅葉と咲良は学校がある。



 ふたば葵と(かつら)の葉で飾られた行列は、京都御所を出発し、丸太町通りから河原町通りへ。

 下鴨神社に入り、北大路通りを西へ、賀茂川沿いに北上して上賀茂神社に到着する。

 本日は斎王代と勅使の行列。

 神様を運ぶ御蔭祭(みかげまつり)の神事は、三日前に終わっている。



 昼休みが終わる頃、咲良は教室で嘆いていた。

「葵祭を見れないなんて、残念過ぎるー。パワスポマップに写真を入れたかったのに…」

「葵祭は源氏物語にも出てくるよ。まぁ、一生に一度は見た方がええな!」

 紅葉が腕組みして言う。


「見たいー!!」

 咲良が涙目になった。

「行きましょーよー、お二人さん。僕もお供しますからー」

 菊井が話に割り込んできた。


 紅葉がむっとした。

「君はゲームの聖地マップでしょ。次はどこなん?」

 紅葉は無関係の菊井を振り返り、睨み付けた。


 菊井は嫌味も嬉しそうに、わざわざ寄ってきて、

「本能寺跡と、明智光秀が本能寺の変の前に通った老ノ坂(おいのさか)やで、紅葉」

 と、返答した。

 敵は本能寺にあり、と明智光秀が言った老ノ坂。


 紅葉はちょっと、心を引かれた。

「咲良ちゃん、知ってる? 老ノ坂に首塚ってあるねん。酒呑童子の首を埋めた場所」


「鬼の首塚!?」

 咲良が驚いた。

 マナブが何か言っていたような気がする。


 紅葉は咲良の顔色に気付かないで、

「大江山で酒呑童子の首を切り落とした頼光達が、首を持ち帰ろうとしたんやけど、途中で重くなって動けなくなった。で、都の外に埋めたっていう、物語のラスト」

 と、楽しそうに語った。


 昼からの授業が自習とわかり、菊井がしつこく紅葉達を誘った。

 バレたら先生に叱られるのに、咲良はどうしても葵祭が見たくなって、

「行こうよ!!」

 と、紅葉の分も鞄を持って、教室を抜け出した。





 制服のまま、地下鉄に乗った。

 観れる場所はどこも、既に人で溢れていると思われた。

 彼女達は、行列が最終地点の上賀茂神社に入る直前、賀茂街道で観ることにした。


 鴨川は下鴨神社の手前で二俣に分かれ、高野川と賀茂川になる。

 お盆には、京都五山の送り火に囲まれる場所。


 紅葉達は少しでも空いている場所を探し、近くで観ようと思った。

 川沿いの並木道で、爽やかな風が通る。

 しばらく菊井のゲーム自慢を聞かされた後、行列が来た。



 先頭は、上賀茂神社で行われる(くら)べ馬の、駒と騎手。

 そして検非違使(けびいし)

 色鮮やかな房飾りの付いた馬具で飾られている。


 白馬に乗った山城使(やましろのつかい)は、濃い紅の袍を着ている。

 徒歩の従者をぞろぞろ引き連れていく。

 階級や役職によって、装束や色遣いが違っている。


 咲良は吐息を漏らした。

 それは、平安絵巻。


 勅使の牛車・御所車(ごしょぐるま)が登場する。

 濃い紫と白の藤の花房が、車の軒を包むように一周し、そよ揺れる。

 藤の花はたおやかな女性のように美しく、恥じらうように垂れ下がり、幻想的だった。


「藤の花、すっごく綺麗…!!」

 咲良は感動した。


 勅使代は、黒の束帯。白馬に跨った、本日の主役の一人。

 随身(ずいしん)というSPを連れている。

 花で飾られた、重そうな傘を持った従者が通った。



 きらびやかな女人列が来る。

 花傘を従者に差してもらっている女官達。

 小袿に打袴、長い髪を後ろで束ね、何カ所も結わえて垂らす。

 女官見習いの女の子達は、ちゃんと化粧しているのが可愛らしい。

 白馬に乗った女達は、斎王と共に暮らす巫女達だ。


 従者に囲まれた、斎王代の輿が来た時は歓声が上がった。


 輿の四方の御簾(みす)が巻き上げられている。

 斎王代は白粉(おしろい)を塗り、紅を差している。

 いわゆる十二単を着て、冠から組紐の飾りが長く垂れ下がる。

 華やかで、気品があった。


「綺麗な人だなぁー」

 咲良は斎王代に見とれ、写真を撮るのも忘れた。


「ほーら、来て良かったやろー。僕のお蔭やん。咲良ちゃん、賀茂の斎王はなぁ、昔はほんまもんの皇室のお姫様やったんやでぇー。伊勢の斎宮みたいになー」

 菊井が自分の手柄のように話した。


 紅葉はお姫様という言葉に引っかかった。

「なんか、嫌な男の人を思い出すわ」

 マナブのことである。



 行列が進み、雅楽の楽器を持った男達と、斎王代の牛車・女房車が来た。

 今度は桜と橘で飾られている。

 菊綴が付いた赤い水干の牛飼い(わらわ)が、手綱を引いていた。


 女人列に、采女(うねめ)がいた。

 斎王代と同じ垂れ飾りを頭から長く垂らし、青い波模様の装束を着ていた。


 咲良はまた平安時代に迷い込みそうで、気を引き締めた。

 何故か懐かしくて堪らず、行列と一緒に歩いて行きたいぐらいだった。





 その日はよく晴れていたが、彼女達が到着してから次第に、風が強くなってきた。

 低気圧が近いのか、空がごうごうと唸っていた。


 紅葉の長い髪が乱れ、平安装束の男達が差す傘や、牛車の花飾りも揺れた。

 彼等のゆったりした袂や袴が、パタパタ鳴った。

 咲良は何気なく祭を見ていて、人混みの中に不吉な黒い影を見つけた。


「あ…、マナブ…!?」

 咲良が声を漏らした。


 せっかくのハレの日に、彼の周りだけ光を薄めたように暗く、色がくすんでいく。

 半分、鬼になりかけのマナブ。

 彼は鬱陶しい前髪で、生え始めた角と左の眼窩を隠す。

 右目は獲物を探す狼のような、鋭い目つき。


 咲良は悪寒を感じ、委縮した。


「マナブ、来てたんだ…」

 マナブは彼女達から20メートルぐらい離れている。

 彼の方は、まだ咲良に気付かない。



 マナブは五歳ぐらいの男の子に話しかけた。

 彼は親切を装った笑顔で、男の子を肩車してやった。

「うわーい、よく見えるよー!!」

 男の子がはしゃいでいる。


 マナブは男の子を見上げ、舌舐めずりしている。

 その脇で、美人のママが微笑んでいた。



「ねぇ、紅葉ちゃん、マナブがいるよ!」

 咲良が紅葉を呼んだ。


「え!? どこ!?!!」

 紅葉の反応は速かった。

 スマホを握り、震える指で110番コールしようとした。

 菊井も背伸びして、咲良の指差す方向を見た。


 その時、マナブが輿に乗った斎王代に向かって、

「お姫様ぁー!!」

 と、喚いた。

 観衆がどっと笑った。


 マナブは飛び跳ね、男の子に手を振らせた。

「お姫様ぁー!! こっち向いてぇー!! お姫様ぁー!!」

 マナブの大声は掠れ、裏返るほどだ。

 彼は子供にも、斎王代を呼ばせた。


 斎王代が振り返り、男の子に微笑みかけた。

 見ていた人達は微笑ましく思い、写真や動画にその瞬間の斎王代を撮った。

 その日の絵になるトピックだった。

 男の子のママも喜んでいた。


「お姫様ぁー!!」

 マナブはしつこく、狂ったように繰り返し叫んでいた…。




 咲良はガクガク震えている。

 

 紅葉は菊井に説明した。

「あの男の子とママを助けなきゃ。あいつ、この前、咲良ちゃんをナイフで切った通り魔やねん!!」

 菊井は頼りない感じで、

「ええ!? 僕らには関係あらへん。そんなヤツ、警察に捕まえてもらえば? 僕はゲームの敵としか、闘いたくない。リアルはアカン。ほんまに死んでしまうやん」

 と、開き直った。


 逆に、

「て言うか、かっこええな。女の子を刃物で刺すような悪いヤツなん?」

 と、憧れの視線をマナブに送った。

 マナブが気付き、菊井を見た。


「わっ!! こっち見た!!」

 菊井が奇声を上げ、両手の拳を握り締めて棒立ちになった。

「アカンー。殺されるー」


「アカンのは君や。役に立たへんなぁー」

 紅葉が呆れた。



 遂に、マナブが咲良に気付いた。

 マナブが意味ありげな笑いを浮かべる。


 咲良の喉がカラカラ。


「咲良…、君はお寺に住んでるんだってね…。僕はもう知ってるから。…少し待ってて。この子を喰ってから…、君を迎えに行くよ…」

 マナブが小声で囁いた。


 犬歯が尖り、唇の上に一本、牙のように見える。

 彼は以前よりも暗い影が差し、妖気が格段に強くなっていた。

 半分、鬼になりつつあった。



「マナブ…。なんで鬼になりたいの? なんで人を喰おうとしてるの…!?」

 咲良が聞いた。

 声は届かない。

 でも、唇の動きで、言葉が伝わった。


「喰わずにはいられないから…。僕は恐怖に引きつった人を、(なぶ)って引き裂いて、生のまま喰うことが好き…」

 マナブは大事な人に愛を囁くように、たっぷり気持ちを込めて囁いた。


「だんだん体が冷えていくよ。ここに黒い空洞が広がっていくみたいだ…」

 マナブが左胸を押さえ、咲良に言った。


 彼は肩から男の子を下ろした。

 そして、男の子と手を繋ぎ、その子のママと一緒に人混みに紛れた。



「このまま行かせたら、見失ってしまう!!」

 紅葉は追いかけようとした。

「待って! 危ないよ、紅葉ちゃん!!」

「大丈夫。警察に通報しといて!!」

 紅葉と泣きそうな咲良が揉め、絡まった。



 そこに、蘇芳が来た。

「なんで、あんたらがいるの!? 紅葉、学校はどうした!? サボったんか!?」

 蘇芳と隆一、R高の剣道部員が何人か一緒だ。


「おにぃこそ。高校、サボったん!?」

 紅葉が言い返す。

「今日は俺らも、葵祭のKBCやで。紅葉ちゃん」

 隆一が答えた。

 検非違使(けびいし)のことを言っている。


「KBC!? 何、それ!?」

「何って、都の治安を守る、平安時代の警察機関やんか」

 ふざける隆一が、

「まー、まー、兄妹喧嘩は見苦しいよ。蘇芳ー」

 と、蘇芳と紅葉の間に入った。


 紅葉は、この間のナイフの男がいたことを兄に告げた。

「うん、俺も見た。ここは人がぎょうさんいて、パニックになるから、あんたは静かにしとき。俺らで捜して、警察に渡す。あんたはここにいるんやで。咲良ちゃんも一緒にいてな」

 蘇芳が言い残し、仲間と一緒にマナブを追いかけていった。


 けれど、蘇芳はマナブが消えた方向と違う道へ行った。

 紅葉はやきもきした。

 そして、遂に我慢出来なくなり、

「菊井くん、咲良ちゃんを守っててな!! 私、見て来る!!」

 と、人混みを走り出した。

 紅葉は返事も聞かずに走って行った。



 紅葉が蘇芳に追いついた。

 彼女は兄に、マナブが消えた方向を伝えた。

「そっちはもう、隆一に行かせた。俺はこっちを捜す。北大路駅に行くかも知れへんやろ」

「また隆一くんに行かせたん? 隆一くん、足遅いやんかー」

 紅葉は不安だった。


 その時、隆一から蘇芳のスマホに着信があった。

「蘇芳。あいつ、バスに乗りよった。女の人と子供も一緒。俺、置いてかれたー」

「えー。何してんねん、バス追いかけろ。どこ行きのバス!?」

「見てへん。スマンー」

 隆一が照れ笑いする声がスマホから聞こえ、蘇芳はがっかりした。



「あれっ!? 紅葉、咲良ちゃんはどうした!?」

 蘇芳が振り返って、紅葉に聞く。

「…さっきの場所。…同じクラスの菊井くんて男の子と一緒…」

 紅葉が後ろを指した。


 兄妹の場所からは、咲良と菊井は見えなかった。





 咲良は崩れるように、アスファルトに座り込んだ。

 冷汗をびっしょりかいていた。


「あれ。菊井くん、どこ?」

 咲良が見回したが、菊井がいない。

 完全にはぐれてしまった。


 咲良は菊井のスマホの番号を知らないし、困った。

 それに、彼女は腰が抜けたみたいに立てない。



「大丈夫? 気分悪いの?」

 誰かの優しい声がした。

 R高の制服の少年が、中腰で咲良を見下ろしている。


「ここは日差しが強いから、木の下に行こっか?」

 彼は標準語で話し、咲良をおんぶした。

 彼の背中は、とてもいい匂いがした。


 数メートル離れた木陰で、咲良は降ろされた。

「何か飲む? 買って来ようか?」


 咲良は頭がぼーっとした。

「剣道部の人ですか?」

 やっと、咲良が口を開いた。


 彼はさらさらした前髪を、耳に掛けた。

 彼は咲良より少しだけ、髪が長かった。


「違うよ。蘇芳さんの後輩だけど」

 彼は鞄から未開封のミネラルウォーターを出し、開栓して、咲良に渡した。

 咲良は黙って、ゴクゴク飲んだ。


 ひんやりした水が喉を通り、胃の中へ落ちていく。

 彼女は落ち着きを取り戻した。


「僕、葵祭は初めて観たんだ。行列、すごく綺麗だったなぁー」

 少年が言った。

 咲良はその時に限って、男性恐怖症を思い出さなかった。

 彼女はとてもリラックスして、彼と行列の末尾まで見送った。


「藤の花って、あんなに綺麗なんだねー。知らなかった」

 少年がニコニコして、間近から咲良に笑いかけた。

「あ、お友達が帰って来たよ。僕、もう行くね。蘇芳さんを捜さなきゃ」

 少年は名前も言わずに、どこかに行った。



 入れ違いに、紅葉が戻って来た。

「咲良ちゃん、菊井くんはー!?」


 咲良は紅葉の顔を見て、ホッとした。

「菊井くんとはぐれちゃった。お兄さんはどうだった?」

「マナブに逃げられた。おにぃはまだ追いかけてったけど、もう無理やと思う。あーあ、まさか、おにぃと葵祭で会うとはなぁー」

 紅葉が頭を掻いた。


「マナブ…。異常なぐらい、お姫様に執着してるな。何か理由があるのかな?」

 走ってきた紅葉は汗をかいている。

 彼女はもう、祭どころではないみたい。


「あの若いママと男の子も、無事やとええけど」

 紅葉は気が気でなかった。





 翌日。

 黙り込んだ紅葉と、落ち着かない様子の咲良。

 朝の最初のチャイムが鳴った。


 教室の席が一つ、空いている。

 菊井が登校してない。


「紅葉ちゃん。菊井くん、どうしたのかな…」

 咲良が後ろの席の紅葉を振り返る。

「わからへん。ゲームやり過ぎて寝坊して、ただの遅刻かも知れへんよ」

 紅葉はボソボソと答えた。


「そこ、黙って。静かにして。出席を取ります」

 担任の先生が言った。

 咲良はずっと、菊井の席を見詰めていた。

 はぐれたのに、彼を放っといて帰った罪悪感があった。


 菊井はマナブを見て、硬直して、それから消えてしまった。




 

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