陸 葵祭の鬼
1
山上は咲良の入部を許した。
しかし、条件が付いた。
まず、表の道場で基本を習うこと。
稽古は週一回だけ。
勉強に差し障りが出るようなら、退部してもらう。
「山上さん、女はしゅとーん部に入れないって言ってましたよね? この子は中学生で、体も全然出来てなくて…」
旭が不満を並べた。
咲良はそんな空気を読まず、無邪気に喜んだ。
「ありがとうございます! 頑張ります!」
紅葉は先刻の道場に咲良を入れてしまうべきだったと、後悔した。
まさか、こんなむさ苦しい道場に入るとは。
「雨音みたいなのが入って来たなー」
山上が酒井に言った。
「雨音? ああ。あのクソガキ…」
酒井は絵を描くことに没頭していく。
「雨音ですか。下手クソなのに退部しないヤツってことですか?」
旭が眉をひそめ、言った。
「そういう意味ちゃうわ。おまえも最初は下手クソやったやん。…雨音はまだ東京か?」
山上の問いに、
「京都にいますよ。来週の稽古は来るって、連絡ありました」
と、隆一が答えた。
山上は顎髭を指でいじりながら、
「ほな、来週な。咲良ちゃん。道着、何でもいいし、用意して。待ってるで」
と、咲良と紅葉を、裏の道場から追い出した。
2
蘇芳が妹の部屋のドアをノックした。
「開けるで、紅葉ー。咲良ちゃん、どうなった!?」
紅葉は机に向かい、勉強していた。
彼女は椅子に座ったまま、振り返った。
「どうしよう、おにぃ。咲良ちゃん、変なとこに入ってしもたー。しゅとーん部とかいう…」
蘇芳はびっくりして、
「ええー!! そこ、隆一おらんかった!? あいつが行ってる荒っぽいとこやろ!? 最悪やん!!」
と、急に力が抜け、一歩よろけた。
「おにぃ、隆一くんが居合やってんの、知ってたの?」
「ああ、一応。俺も誘われたけど、断った。…しゅとーん部!? よりによって、しゅとーん部!?」
蘇芳は何度も聞き直した。
「そんなにアカン道場なん?」
紅葉は兄の反応を見て、心配になってきた。
「いや、…なんか変人の巣窟って聞いてるから…。第一、隆一がおるやん。あの変態紳士が」
蘇芳らしくない、慌てぶり。
「紅葉。どうやって、しゅとーん部見つけたん? あそこ、web検索しても出ぇへんし、道に看板も出てへんやろ?」
蘇芳が尋ねた。
「適当に道歩いてるうちに、咲良ちゃんが見つけはった。あの子、不思議やねん」
「そやな。俺もこの前、不思議な子やと思ったわ」
蘇芳は何故か落ち込んで、頭を抱えてしまった。
蘇芳はしばらく考えた末、
「紅葉。あんたはあんまり出入りせんとき。あの人らには関わらへん方がええ」
と、忠告した。
紅葉は意味がわからず、唖然とした。
やがて、蘇芳がとても不機嫌になって、彼女の部屋から出て行った。
道にしゅとーん部の看板が出てないことを知っているのは、蘇芳も行ったことがあるからだ。
彼が何か隠していることを、紅葉は感じ取った。
3
今宵は、新月。
咲良がしゅとーん部から帰って、自宅で夕飯を食べた。
母はパートに出かけて、留守。
祖母とこの寺の住職である母の弟、三人で団欒して、早めに休んだ。
うとうとしかけた頃、風が強いのか、窓の外でガタガタ音が鳴った。
また透明の鬼が悪戯でもしているのかと思い、そのまま寝入った。
窓の外で物音は時折激しく鳴り、また静かになって、繰り返した。
いい加減、目が覚めてしまった。
起きるのも億劫で、そのまま目を閉じていた。
突然、壁がバリバリッと破られるような音がした。
咲良はびっくりしたが、部屋の壁は紙で出来ているわけじゃない。
だから、本当に破られたのなら、その程度の音で済むはずがない。
彼女は冷静に、耳を澄まして気配を窺った。
何かが侵入してきて、フーッ、フーッ、と獣のような息を立てた。
例えれば、虎のような何か。
それなりの大きさがあり、のそのそと歩く重量感、振動が伝わる。
そのうち、生温かい息が咲良の頬にかかった。
咲良は冷や汗をかきながら、考えていた。
これは夢か!? 小鬼達の悪戯か!?
獣が咲良の上から顔を見下ろし、フーッ、フーッと息を吐いた。
その息が強烈に臭かった。
生ごみや卵が腐ったような匂い、気絶しそうなほどの悪臭だ。
「う、臭い…」
咲良は思わず鼻を覆い、横を向いた。
咲良はそっと目を開けた。
びっくりするほど間近、顔の上30センチのところに、その鬼の顔があった。
広い額の生え際に、長い角が二本。
髪はもじゃもじゃで、獣の毛のよう。
眉がない。
生卵の白身のような白目、小さな瞳孔が点と付き、咲良を見詰めている。
鼻は虎、口は大きく裂け、隙間だらけのガタガタの歯並びをしている。
耳が異常に大きく、上側が尖っていた。
痩せて骨ばって、着ている狩衣は、ぼろぼろ。
四つん這いで、手足は三本指である。
「うぁっ…」
咲良は目の前の醜い鬼に怯え、固まった。
フーッ、フーッ、鬼は臭い息を吐きながら、すきっ歯の間から舌を吐き出した。
鬼の太く長い舌は、30センチ下の咲良の頬に当たる寸前で折れ曲がった。
ヘビのように、ヒルのように、くねりながら上方向に鎌首をもたげる形まで伸びた。
「長い舌…」
匂いが目に染みて涙が出たが、咲良は鬼の顔から目が離せなかった。
鬼は自分の舌で遊ぶように、舌をくねらせていた。
やがて、その舌をゆっくり引いていき、口に戻した瞬間、最後にヨダレを一滴、布団に落とした。
咲良は布団を捨てたい衝動に駆られた。
「…咲良。ああ、うまそうじゃ。…マナブにくれてやるのは、勿体ない…」
残念そうに鬼が呟き、何度も唾を飲み込んだ。
しかし、鬼は咲良を諦めて、部屋の隅に行った。
部屋の角の壁へ、再びバリバリッと音を立てて、体をめり込ませてゆく。
「あっ…」
見ていた咲良が飛び起きた。
壁に開いた穴は、鬼が突き抜けると同時に塞がっていった。
舌長の鬼が、異界へ去った。
4
五月十五日、葵祭。
今年は木曜日なので、勿論、紅葉と咲良は学校がある。
ふたば葵と葛の葉で飾られた行列は、京都御所を出発し、丸太町通りから河原町通りへ。
下鴨神社に入り、北大路通りを西へ、賀茂川沿いに北上して上賀茂神社に到着する。
本日は斎王代と勅使の行列。
神様を運ぶ御蔭祭の神事は、三日前に終わっている。
昼休みが終わる頃、咲良は教室で嘆いていた。
「葵祭を見れないなんて、残念過ぎるー。パワスポマップに写真を入れたかったのに…」
「葵祭は源氏物語にも出てくるよ。まぁ、一生に一度は見た方がええな!」
紅葉が腕組みして言う。
「見たいー!!」
咲良が涙目になった。
「行きましょーよー、お二人さん。僕もお供しますからー」
菊井が話に割り込んできた。
紅葉がむっとした。
「君はゲームの聖地マップでしょ。次はどこなん?」
紅葉は無関係の菊井を振り返り、睨み付けた。
菊井は嫌味も嬉しそうに、わざわざ寄ってきて、
「本能寺跡と、明智光秀が本能寺の変の前に通った老ノ坂やで、紅葉」
と、返答した。
敵は本能寺にあり、と明智光秀が言った老ノ坂。
紅葉はちょっと、心を引かれた。
「咲良ちゃん、知ってる? 老ノ坂に首塚ってあるねん。酒呑童子の首を埋めた場所」
「鬼の首塚!?」
咲良が驚いた。
マナブが何か言っていたような気がする。
紅葉は咲良の顔色に気付かないで、
「大江山で酒呑童子の首を切り落とした頼光達が、首を持ち帰ろうとしたんやけど、途中で重くなって動けなくなった。で、都の外に埋めたっていう、物語のラスト」
と、楽しそうに語った。
昼からの授業が自習とわかり、菊井がしつこく紅葉達を誘った。
バレたら先生に叱られるのに、咲良はどうしても葵祭が見たくなって、
「行こうよ!!」
と、紅葉の分も鞄を持って、教室を抜け出した。
5
制服のまま、地下鉄に乗った。
観れる場所はどこも、既に人で溢れていると思われた。
彼女達は、行列が最終地点の上賀茂神社に入る直前、賀茂街道で観ることにした。
鴨川は下鴨神社の手前で二俣に分かれ、高野川と賀茂川になる。
お盆には、京都五山の送り火に囲まれる場所。
紅葉達は少しでも空いている場所を探し、近くで観ようと思った。
川沿いの並木道で、爽やかな風が通る。
しばらく菊井のゲーム自慢を聞かされた後、行列が来た。
先頭は、上賀茂神社で行われる競べ馬の、駒と騎手。
そして検非違使。
色鮮やかな房飾りの付いた馬具で飾られている。
白馬に乗った山城使は、濃い紅の袍を着ている。
徒歩の従者をぞろぞろ引き連れていく。
階級や役職によって、装束や色遣いが違っている。
咲良は吐息を漏らした。
それは、平安絵巻。
勅使の牛車・御所車が登場する。
濃い紫と白の藤の花房が、車の軒を包むように一周し、そよ揺れる。
藤の花はたおやかな女性のように美しく、恥じらうように垂れ下がり、幻想的だった。
「藤の花、すっごく綺麗…!!」
咲良は感動した。
勅使代は、黒の束帯。白馬に跨った、本日の主役の一人。
随身というSPを連れている。
花で飾られた、重そうな傘を持った従者が通った。
きらびやかな女人列が来る。
花傘を従者に差してもらっている女官達。
小袿に打袴、長い髪を後ろで束ね、何カ所も結わえて垂らす。
女官見習いの女の子達は、ちゃんと化粧しているのが可愛らしい。
白馬に乗った女達は、斎王と共に暮らす巫女達だ。
従者に囲まれた、斎王代の輿が来た時は歓声が上がった。
輿の四方の御簾が巻き上げられている。
斎王代は白粉を塗り、紅を差している。
いわゆる十二単を着て、冠から組紐の飾りが長く垂れ下がる。
華やかで、気品があった。
「綺麗な人だなぁー」
咲良は斎王代に見とれ、写真を撮るのも忘れた。
「ほーら、来て良かったやろー。僕のお蔭やん。咲良ちゃん、賀茂の斎王はなぁ、昔はほんまもんの皇室のお姫様やったんやでぇー。伊勢の斎宮みたいになー」
菊井が自分の手柄のように話した。
紅葉はお姫様という言葉に引っかかった。
「なんか、嫌な男の人を思い出すわ」
マナブのことである。
行列が進み、雅楽の楽器を持った男達と、斎王代の牛車・女房車が来た。
今度は桜と橘で飾られている。
菊綴が付いた赤い水干の牛飼い童が、手綱を引いていた。
女人列に、采女がいた。
斎王代と同じ垂れ飾りを頭から長く垂らし、青い波模様の装束を着ていた。
咲良はまた平安時代に迷い込みそうで、気を引き締めた。
何故か懐かしくて堪らず、行列と一緒に歩いて行きたいぐらいだった。
6
その日はよく晴れていたが、彼女達が到着してから次第に、風が強くなってきた。
低気圧が近いのか、空がごうごうと唸っていた。
紅葉の長い髪が乱れ、平安装束の男達が差す傘や、牛車の花飾りも揺れた。
彼等のゆったりした袂や袴が、パタパタ鳴った。
咲良は何気なく祭を見ていて、人混みの中に不吉な黒い影を見つけた。
「あ…、マナブ…!?」
咲良が声を漏らした。
せっかくのハレの日に、彼の周りだけ光を薄めたように暗く、色がくすんでいく。
半分、鬼になりかけのマナブ。
彼は鬱陶しい前髪で、生え始めた角と左の眼窩を隠す。
右目は獲物を探す狼のような、鋭い目つき。
咲良は悪寒を感じ、委縮した。
「マナブ、来てたんだ…」
マナブは彼女達から20メートルぐらい離れている。
彼の方は、まだ咲良に気付かない。
マナブは五歳ぐらいの男の子に話しかけた。
彼は親切を装った笑顔で、男の子を肩車してやった。
「うわーい、よく見えるよー!!」
男の子がはしゃいでいる。
マナブは男の子を見上げ、舌舐めずりしている。
その脇で、美人のママが微笑んでいた。
「ねぇ、紅葉ちゃん、マナブがいるよ!」
咲良が紅葉を呼んだ。
「え!? どこ!?!!」
紅葉の反応は速かった。
スマホを握り、震える指で110番コールしようとした。
菊井も背伸びして、咲良の指差す方向を見た。
その時、マナブが輿に乗った斎王代に向かって、
「お姫様ぁー!!」
と、喚いた。
観衆がどっと笑った。
マナブは飛び跳ね、男の子に手を振らせた。
「お姫様ぁー!! こっち向いてぇー!! お姫様ぁー!!」
マナブの大声は掠れ、裏返るほどだ。
彼は子供にも、斎王代を呼ばせた。
斎王代が振り返り、男の子に微笑みかけた。
見ていた人達は微笑ましく思い、写真や動画にその瞬間の斎王代を撮った。
その日の絵になるトピックだった。
男の子のママも喜んでいた。
「お姫様ぁー!!」
マナブはしつこく、狂ったように繰り返し叫んでいた…。
咲良はガクガク震えている。
紅葉は菊井に説明した。
「あの男の子とママを助けなきゃ。あいつ、この前、咲良ちゃんをナイフで切った通り魔やねん!!」
菊井は頼りない感じで、
「ええ!? 僕らには関係あらへん。そんなヤツ、警察に捕まえてもらえば? 僕はゲームの敵としか、闘いたくない。リアルはアカン。ほんまに死んでしまうやん」
と、開き直った。
逆に、
「て言うか、かっこええな。女の子を刃物で刺すような悪いヤツなん?」
と、憧れの視線をマナブに送った。
マナブが気付き、菊井を見た。
「わっ!! こっち見た!!」
菊井が奇声を上げ、両手の拳を握り締めて棒立ちになった。
「アカンー。殺されるー」
「アカンのは君や。役に立たへんなぁー」
紅葉が呆れた。
遂に、マナブが咲良に気付いた。
マナブが意味ありげな笑いを浮かべる。
咲良の喉がカラカラ。
「咲良…、君はお寺に住んでるんだってね…。僕はもう知ってるから。…少し待ってて。この子を喰ってから…、君を迎えに行くよ…」
マナブが小声で囁いた。
犬歯が尖り、唇の上に一本、牙のように見える。
彼は以前よりも暗い影が差し、妖気が格段に強くなっていた。
半分、鬼になりつつあった。
「マナブ…。なんで鬼になりたいの? なんで人を喰おうとしてるの…!?」
咲良が聞いた。
声は届かない。
でも、唇の動きで、言葉が伝わった。
「喰わずにはいられないから…。僕は恐怖に引きつった人を、嬲って引き裂いて、生のまま喰うことが好き…」
マナブは大事な人に愛を囁くように、たっぷり気持ちを込めて囁いた。
「だんだん体が冷えていくよ。ここに黒い空洞が広がっていくみたいだ…」
マナブが左胸を押さえ、咲良に言った。
彼は肩から男の子を下ろした。
そして、男の子と手を繋ぎ、その子のママと一緒に人混みに紛れた。
「このまま行かせたら、見失ってしまう!!」
紅葉は追いかけようとした。
「待って! 危ないよ、紅葉ちゃん!!」
「大丈夫。警察に通報しといて!!」
紅葉と泣きそうな咲良が揉め、絡まった。
そこに、蘇芳が来た。
「なんで、あんたらがいるの!? 紅葉、学校はどうした!? サボったんか!?」
蘇芳と隆一、R高の剣道部員が何人か一緒だ。
「おにぃこそ。高校、サボったん!?」
紅葉が言い返す。
「今日は俺らも、葵祭のKBCやで。紅葉ちゃん」
隆一が答えた。
検非違使のことを言っている。
「KBC!? 何、それ!?」
「何って、都の治安を守る、平安時代の警察機関やんか」
ふざける隆一が、
「まー、まー、兄妹喧嘩は見苦しいよ。蘇芳ー」
と、蘇芳と紅葉の間に入った。
紅葉は、この間のナイフの男がいたことを兄に告げた。
「うん、俺も見た。ここは人がぎょうさんいて、パニックになるから、あんたは静かにしとき。俺らで捜して、警察に渡す。あんたはここにいるんやで。咲良ちゃんも一緒にいてな」
蘇芳が言い残し、仲間と一緒にマナブを追いかけていった。
けれど、蘇芳はマナブが消えた方向と違う道へ行った。
紅葉はやきもきした。
そして、遂に我慢出来なくなり、
「菊井くん、咲良ちゃんを守っててな!! 私、見て来る!!」
と、人混みを走り出した。
紅葉は返事も聞かずに走って行った。
紅葉が蘇芳に追いついた。
彼女は兄に、マナブが消えた方向を伝えた。
「そっちはもう、隆一に行かせた。俺はこっちを捜す。北大路駅に行くかも知れへんやろ」
「また隆一くんに行かせたん? 隆一くん、足遅いやんかー」
紅葉は不安だった。
その時、隆一から蘇芳のスマホに着信があった。
「蘇芳。あいつ、バスに乗りよった。女の人と子供も一緒。俺、置いてかれたー」
「えー。何してんねん、バス追いかけろ。どこ行きのバス!?」
「見てへん。スマンー」
隆一が照れ笑いする声がスマホから聞こえ、蘇芳はがっかりした。
「あれっ!? 紅葉、咲良ちゃんはどうした!?」
蘇芳が振り返って、紅葉に聞く。
「…さっきの場所。…同じクラスの菊井くんて男の子と一緒…」
紅葉が後ろを指した。
兄妹の場所からは、咲良と菊井は見えなかった。
7
咲良は崩れるように、アスファルトに座り込んだ。
冷汗をびっしょりかいていた。
「あれ。菊井くん、どこ?」
咲良が見回したが、菊井がいない。
完全にはぐれてしまった。
咲良は菊井のスマホの番号を知らないし、困った。
それに、彼女は腰が抜けたみたいに立てない。
「大丈夫? 気分悪いの?」
誰かの優しい声がした。
R高の制服の少年が、中腰で咲良を見下ろしている。
「ここは日差しが強いから、木の下に行こっか?」
彼は標準語で話し、咲良をおんぶした。
彼の背中は、とてもいい匂いがした。
数メートル離れた木陰で、咲良は降ろされた。
「何か飲む? 買って来ようか?」
咲良は頭がぼーっとした。
「剣道部の人ですか?」
やっと、咲良が口を開いた。
彼はさらさらした前髪を、耳に掛けた。
彼は咲良より少しだけ、髪が長かった。
「違うよ。蘇芳さんの後輩だけど」
彼は鞄から未開封のミネラルウォーターを出し、開栓して、咲良に渡した。
咲良は黙って、ゴクゴク飲んだ。
ひんやりした水が喉を通り、胃の中へ落ちていく。
彼女は落ち着きを取り戻した。
「僕、葵祭は初めて観たんだ。行列、すごく綺麗だったなぁー」
少年が言った。
咲良はその時に限って、男性恐怖症を思い出さなかった。
彼女はとてもリラックスして、彼と行列の末尾まで見送った。
「藤の花って、あんなに綺麗なんだねー。知らなかった」
少年がニコニコして、間近から咲良に笑いかけた。
「あ、お友達が帰って来たよ。僕、もう行くね。蘇芳さんを捜さなきゃ」
少年は名前も言わずに、どこかに行った。
入れ違いに、紅葉が戻って来た。
「咲良ちゃん、菊井くんはー!?」
咲良は紅葉の顔を見て、ホッとした。
「菊井くんとはぐれちゃった。お兄さんはどうだった?」
「マナブに逃げられた。おにぃはまだ追いかけてったけど、もう無理やと思う。あーあ、まさか、おにぃと葵祭で会うとはなぁー」
紅葉が頭を掻いた。
「マナブ…。異常なぐらい、お姫様に執着してるな。何か理由があるのかな?」
走ってきた紅葉は汗をかいている。
彼女はもう、祭どころではないみたい。
「あの若いママと男の子も、無事やとええけど」
紅葉は気が気でなかった。
8
翌日。
黙り込んだ紅葉と、落ち着かない様子の咲良。
朝の最初のチャイムが鳴った。
教室の席が一つ、空いている。
菊井が登校してない。
「紅葉ちゃん。菊井くん、どうしたのかな…」
咲良が後ろの席の紅葉を振り返る。
「わからへん。ゲームやり過ぎて寝坊して、ただの遅刻かも知れへんよ」
紅葉はボソボソと答えた。
「そこ、黙って。静かにして。出席を取ります」
担任の先生が言った。
咲良はずっと、菊井の席を見詰めていた。
はぐれたのに、彼を放っといて帰った罪悪感があった。
菊井はマナブを見て、硬直して、それから消えてしまった。




