肆拾 暗闇の鬼ごっこ
1
山上が息を吸い込み、吐き出した。
「神火清明、神水清明、神風清明…」
鬼は数歩後ろに下がった。
亀右衛門が差していた唐傘お化けは、ぼんっと音を立て、姿を眩ました。
熊井が百を数え始めた。
「今のうち、人間役は出来るだけ遠くへ逃げるんだ。百数え終わったら、鬼役は武器使用可とする…」
猿男が人間役に懐中電灯を配った。
「冗談じゃないの? これは本気の遊びなの!?」
人間は奇怪な鬼の迫力に圧され、蜘蛛の子を散らすように八方へ逃げた。
ユキエも焦って、母親を引っ張った。
「立って、お母さん!! 早く逃げないと、鬼に殺されちゃうよー!!」
けれど、母親は苦しそうに胸を押さえている。
ユキエは持っていた鞄の中身をぶちまけて、母親の薬を探した。
紅葉は頭に来た。
「熊男さん、ひどい。鬼の命令聞いてないで、私達に協力して下さいよ!」
熊井は馬鹿にするように答えた。
「はぁ? 何を言ってるんだ? 甘いんだよ。強い方につくに決まってるじゃないか…」
「裏切ったな、熊男さん」
旭が熊井を罵った。
「ヒヒ、文句はあんた達が生きてたら聞くよ…。おっと…」
熊井は百の続きを数える。
「こんな時、酒井さんがいてくれたら…」
旭は頼もしかった酒井を思い出し、残念だった。
紅葉は鬼役を説得しようとした。
「ねぇ、そんなもの振り回すのは危ないですよ。こんな馬鹿げた鬼ごっこ、やめませんか!?」
ミカとミナは着物にたすき掛けして、頭に鉄輪を付け、ロウソクを点し、丑の刻参りのような準備を整えていた。
「紅葉ちゃん、運が悪かったんだよ。人間のカードを引いたんでしょ?」
ミカの歯がいつの間にか、全部ギザギザに尖っていた。
鬼コスプレの双子の、弟の方が言った。
「オレ、知ってる。こいつは鬼のカードを引いたんだ」
双子の、姉の方が紅葉に教えた。
「あんたね、鬼のカードを引くってことは、腹の中にどす黒いものいっぱい溜め込んでる証拠なんだよ。鬼の素質がある人が、鬼のカードを引く決まりなんだから!!」
「嘘…」
紅葉は以前、百鬼夜行の夢を見た。
彼女は嫉妬に狂って鬼になってしまい、平安時代の装束で鬼と歩いていた。
「そっか。あんたも鬼役だったね…。じゃ、武器を選べ…!」
猿男が寄ってきて、紅葉に武器の入った葛籠を差し出した。
紅葉は武器の中に刀があるのを見て、
「鬼と戦うのに必要かも…」
と思い、手に取った。
鬼の武器から、妖気が溢れ出した。
紅葉は急に眩暈を感じ、次には暴力的な気持ちになった。
血がふつふつと沸いて、もうどうでもいいから、誰彼構わず殺してみたくなった。
「紅葉ちゃん」
雨音が紅葉を呼んだ。
紅葉は刀の妖気から正気に戻った。
「雨音くん。咲良ちゃんがヤバいよ…」
「紅葉ちゃんと咲良ちゃんは僕が守るから。蘇芳さんとそう約束したから」
紅葉は雨音の眼差しを見て、何も言えなくなった。
紅葉と雨音と雲林院は、咲良が隠れた岩場の方へ向かった。
咲良はもう居なかった。
雲林院が周辺を懐中電灯で照らした。
「雨音、足場が悪過ぎるよ。岩がゴロゴロしてる。暗くて、よう見えへん」
彼は美少女姉妹・ノアとキラを守ろうと思っていた。
でも、彼女達はとっくに逃げ出し、雑木林へ隠れた。
懐中電灯の明かりがぽつぽつと山へ入って行く。
人間役の持つ明かりは、鬼役の恰好の目印になる。
「雲林院。鬼火をまとわせてる奴だけ、斬れ」
雨音が美しい柄編みの佩緒を掴み、鬼切の太刀をケースから引き出した。
「うん、わかった」
雲林院は頷き、山上に借りた刀を抜いた。
2
ユキエと母親は逃げ遅れた。
「ユキエ…。母さんはいいから…、逃げなさい…」
「そんなこと出来ないよ!!」
ユキエは鬼が恐ろしかったが、母を見捨てられない。
彼女は葛藤した。
「俺達の後ろに居て下さい」
山上がユキエに声を掛けた。
「え…!?」
ユキエは山上を振り返った。
山上は火打石を打ち、清めの呪を唱えた。
「神火清明、神水清明、神風清明…」
周辺の妖気が霧の吹き払われるように晴れ、鬼を退けた。
山上は邪気を祓う為、また火打ち石を打った。
そして、生まれた小さな火を木ぎれに移した。
火は赤々と周囲を照らし、闇を遠ざける。
鬼は濃くなった闇へ隠れた。
鬼は山上の一挙一動を見て、舌打ちしている。
山上は火の周りに杭を四本打って、藁紐を結び、方形の結界を作った。
ユキエの母親は揺れる炎の色を見て安心し、やっと呼吸が落ち着いてきた。
鬼は山上の結界を忌々しそうに見ていた。
「そんなもの…! 我等に通じると思うてか…!?」
キツネ耳の鬼女が吐き捨てた。
しかし、鬼女も姿を眩まし、猫化けとツクモガミもいつの間にかいなくなってしまった。
後には、腹を空かせた鬼だけが残った。
旭がコマチを背中から降ろした。
「コマチちゃん。ユキエさんと火の番をして、木をくべてくれる? 俺は戦わなきゃなんねーの」
「どこ行くの!? もう二度と会えなくなるの!?」
コマチはおろおろして、泣きそうになった。
「ちゃんと戻って来るから。結界を守って、他の人達と一緒に待ってて」
「私、待つの嫌い! 待たされて、ひとり待ちくたびれて死んでしまうのは、堪えられない…」
コマチが駄々を捏ねた。
旭と山上は駆け出し、
「みんな、雑木林に逃げないでくれ!! 守ってあげたくても、刀を振り回すスペースがない…」
と、大声で呼びかけた。
「また土砂崩れする危険があります!! 頼むから、こっちに戻って来て!! 結界を用意したから…!!」
旭の声が響き、何人かを結界まで保護することが出来た。
「九十九…、百……」
熊井が百数え終わった。
黒い風が吹いた。
鬼が風に乗って吹き付け、雑木林に逃げ込んだ人間を襲った。
家族で来ていた子供達が、いきなり悲鳴を上げて倒れた。
「ああっ」
子供達は精気を抜かれ、一瞬で、骨と皮だけの皺くちゃの老人になった。
「やめてくれ!! 子供達には手を出さないでくれ!! これはゲームじゃないのか!?」
子供の父親が叫んだ。
父親が目に見えない鬼を追い払おうとするが、両手は空振りする。
彼の妻も肉体を乗っ取られ、
「そうよ。これはゲーム…」
と、皺だらけに萎んだ顔で、白目を剥いて答えた。
3
咲良は出来るだけ姿勢を低くして、雑木林を逃げた。
地面は濡れて、ぬかるんでいる。
足音を忍ばせて、そっと草を掻き分けた。
咲良は濃いグレーのレインコートを着て、夜に紛れた。
「怖い。鬼が来る…」
咲良は何度も振り返った。
懐中電灯も持っていたが、人間役の懐中電灯の明かりが目立つのを見て、彼女自身は使わなかった。
真っ暗闇をゆく。
「紅葉ちゃん…、雨音くん…」
咲良は心細くて、小さく声に出した。
暗闇に見上げる木の枝すら、悪魔が伸ばした腕に見えた。
咲良は時々、崖の木の影に止まって、バスが横転している方向を振り返った。
無数の鬼火が揺れていた。
彼女は息を殺し、耳を澄ませて、様子を窺った。
ヒタヒタ、ヒタ…。
咲良の近くまで、鬼の足音が迫ってきた。
4
紅葉らは咲良を捜して、沼の近くに出た。
沼は水草が茂り、雨のせいで普段より水かさが増し、境があやふやになっている。
沼の上を風が渡り、さざなみ立つ。
ガボッ、ガボッと音がして、泡が沼の底から湧き上がってきた。
「鬼…?」
紅葉は刀を構えた。
「単なるガスじゃないの? 気にしないで」
雨音が先を促し、彼等は沼に沿って歩いた。
雲林院は子供の頃の思い出を語り始めた。
「うちの母方の田舎に、河童が出そうな沼があって…。周りに木が茂ってて、いつも薄暗くて、水が濁ってて魚も見えへん。カエルの鳴き声だけ聞こえるねん。うちの父親が、きっとここは河童が出るぞ、って俺を驚かす…」
紅葉は自分の腕を抱き、寒気を堪えた。
「やめて下さいよ、こんな時に。ほんまに何か出そう…」
「一度だけ、その沼の向こうに人が立ってるのを見たことがある…。立ってるように見えただけで、間見違いかも知れへんし、河童やったんかも知れへん。…何年かして、その沼で人間の死体が見つかった。パトカーがいっぱい来てた」
「雲林院が見た人の死体だったの?」
雨音が聞いた。
「ううん。まだ新しい死体。殺されて捨てられたって話。そやし、池とか沼って気持ち悪いなって思って」
「京都の深泥池とかね。本当にそうだよね」
雨音と雲林院が頷き合った。
「やめてってば」
紅葉は本気で嫌がった。
そのくらい、こっちの沼も気持ち悪い妖気が漂っていた。
彼等は雑木林で、ノアとキラ姉妹を見つけた。
「よかったー。大丈夫ですか…?」
紅葉は胸を撫で下ろした。
「助けて…」
ノアとキラは木の根元に伏せ、母親が守る為、上に覆い被さっていた。
彼女達は恐怖にガタガタと震えていた。
そこへ、風が唸り、鬼の足が駆け抜けた。
母娘は無数の足音を聞いた。
風が雑木林を揺らし、葉を雨のごとく降らせた。
足音がしても、鬼の姿ははっきりと見えない。
幽霊のように白い着物がちらついて、半透明で、彼等のすぐ側を擦り抜けていった。
「ふふ、ふふふ、ふふ…」
鬼の嗤う声が風に混じっていた。
落ち葉が紅葉と姉妹の上に降り積もった。
旋風が起こり、落ち葉に頬を叩かれて、彼女達は目を瞑った。
「ノア…!! キラ…!?」
母親は娘達の体が冷たくなったのを感じた。
姉妹の精気が抜け、あれほど美しかった顔が痩せこけていく。
懐中電灯に照らされたのは、百歳の老婆のように皺だらけになった姉妹。
「いやぁっ」
姉妹は白髪になった互いの顔を見て、悲鳴を漏らした。
紅葉は辺りに目を凝らし、鬼の姿を探した。
風は唸りながら、雑木林を吹き抜けていった。
「鬼は…彼女達の内側に入った」
雨音が悔しそうに言った。
鬼火が浮かび、姉妹を照らした。
「ぐうう…。お腹減った…。ひもじい…」
姉妹が白目を剥き、老婆の声で囁いた。
「ぎゃっ」
母親は仰天して尻餅を着いた。
鬼火を見て、雨音が鬼切を構えた。
「雨音、やめてくれ!! ノアちゃんとキラちゃんを斬らんといてくれ!!」
雲林院が雨音を横から押さえ込んだ。
「もう遅い。鬼に憑りつかれたんだよ!」
雨音が雲林院を振り解こうとした。
「ノアさん、キラさん!!」
紅葉が姉妹に呼びかけた。
姉妹の内側で、鬼が嗤っていた。
「ふふふ…」
紅葉と鬼の目が合った。
「ど…どうして、人間を襲うの?」
紅葉が鬼に尋ねた。
「…お腹減った…。何か食べ物おくれ…」
鬼が姉妹の手をゆらーり、紅葉に向かって伸ばした。
紅葉は咄嗟に下がり、間合いを切った。
「なんで鬼になっちゃったの? 私でよければ、話だけでも聞くけど…」
紅葉はノアとキラを殺さずに済む方法を、必死に考えた。
「食べ物がなくて死んだ…。食べ物おくれ…」
鬼は同じことばかり繰り返した。
ヒタヒタ、ヒタ…。
また鬼の足音が来る。
木立の間に、鬼の姿がちらつく。
フクロウのような大きな目玉が描かれた仮面で、ぼろぼろの着物をまとっている。
ひゅっと紅葉の横を擦り抜けた。
紅葉は反射的に刀を被り、剣道の振り返りからの面の要領で打ち込んだ。
刀は空振りした。
雲林院が正面から斬った。
また空振り。
鬼に実体が無い。
「ファーッ!!」
ノアが喚き、舌をだらりと出した。
彼女は骨と皮になるほど萎んで、可愛い服が肩から擦り落ちた。
ノアの変貌を見るに堪えず、雲林院が目を背けた。
ノアの眸がフクロウの眸のようにキンキンに開き、半分白目でぐるぐる回った。
「痛い、痛いっ!!」
ノアは体内に入った鬼のもたらす痛みの激しさに、痙攣した。
同じ変化がキラの身にも起きた。
「次ハ、オマエ…!!」
ノアとキラが声を揃え、紅葉に告げた。
複数の鬼が黒い煙になって、姉妹の口から出た。
そして、紅葉の口に侵入しようとした。
「嫌っ」
紅葉は拒絶した。
無意識に、山上からもらった御守りを握り締めていた。
鬼は悲鳴を上げ、紅葉から離れた。
黒い煙が紅葉から離れたところを、雨音が鬼切でスパッと斬った。
鬼が散った。
ノアとキラが倒れた。
「大丈夫。しばらく療養して点滴でもすれば、元の姿に戻る。とりあえず、結界へ戻ろう」
雨音が言った。
雲林院と彼女達の母親が、気絶した姉妹を背負った。
彼等は早足で、山上の元へ急いだ。
沼の側を通る時、ガボッ、ガボッと泡が弾ける音がした。
泡はどんどん大きくなり、沼の中央から波紋が広がった。
「何か出て来る…」
紅葉は気になって、沼の方ばかり見た。
「紅葉ちゃん、見ない方がいい」
雨音が紅葉を引っ張った。
キラとノアは、雲林院と母親の背中で疲れたように眠っていた。
急に、姉妹がカッと眸を開き、雲林院と母親の首を背後から締めた。
「わあ、何すんねん!!」
雲林院が驚いて、ノアを地面に落とした。
新たな鬼が追いつき、また姉妹に憑りついたのだ。
キラの方は鬼そのものの形相で、母親の首にかぶり付いていた。
雨音が容赦なく蹴って、キラを母親から引き離した。
紅葉は御守りを取り出し、ノアとキラの小指に御守りの紐を巻き付けた。
「ふぅ…、うはぁ…、ふぅー…」
姉妹が長い息を吐き出し、次第におとなしくなっていく。
「雨音、あれは何!? 河童!?」
雲林院が叫んだ。
雨音と紅葉が沼を振り返った。
沼の中央、泡が立っていたところ。
水がいったん窪み、渦巻き、今度は膨らんで盛り上がった。
鬼火が蛍のように舞い飛ぶ。
沼の水面に、前よりも泡が立つ。
「泡立った、煮え立った…。煮えたかどうだか、食べてみよ。ムシャ、ムシャ、ムシャ…」
雲林院が急に、古いわらべ歌を歌い出した。
昔の鬼ごっこの歌だ。
何人もの黒い人影が沼から湧き出て、岸に上がってきた。
「アア…。オウ…オオ…」
水でふやけた指を立て、傷んだ野菜みたいな匂いを漂わす。
「河童ちゃうやん。死体やん」
雲林院が言った。
「俺がさっき話した沼は、農業用の溜池やったんやて。水害で集落が流されて、後に残ったのが沼一つ。うちの父親が言うには、…その沼から出て来る河童は、…集落の人達なんやって……」
紅葉は上がってきた鬼に対して、刀で威嚇しながら叫んだ。
「来んといて!! 近くに来たら、斬るから!!」
鬼は紅葉の刀を素手で掴んだ。
刃が掌に食い込み、ふやけた手から泥水だけが滴った。
「斬れるもんなら、斬って見ろ…。血なんか出ないぞ…」
鬼が紅葉の耳元に口を寄せ、
「鬼なんかいない。ホントは全て人間…。おもては、鬼。こころは、今も……」
と、囁いた。
紅葉は怖くて、最後まで聞いてられなかった。
正面を斬り下ろした。
紅葉が持つ鬼の刀は、威力を発揮した。
鬼の頭部を鮮やかに両断して鳩尾まで落ち、脳を左右に開いた。
脳味噌の真ん中に、小さな青鬼が入っていた。
鬼の中の鬼は全身真っ二つに裂け、左右にわかれた口で、
「ぐぱぁー」
と、鳴いた。
血の代わりに泥水が溢れ、刃を伝って、鍔から地面に滴った。
細かな青鬼がたくさん飛び出し、刀をぴょんぴょん跳んで、紅葉の腕を登ってきた。
「うわぁー!!」
紅葉が片手を離し、小鬼を払った。
紅葉の御守りは、ノアとキラを守っている。
その為、彼女の全身に細かな鬼が、蠅が群がるみたいにたかった。
雨音と雲林院は目の前の鬼を斬り伏せ、次々迫る鬼と戦っていた。
紅葉は小鬼の群れに押し潰され、地面に座り込んだ。
小鬼がキィキィと耳障りに鳴く。
風がまた鬼を運ぶ。
足音がやって来る。
「…トントントン、何の音? 風の音。トントントン、何の音…?」
雲林院が先刻のわらべ歌の続きを口ずさむ。
「雲林院。その続き、歌うなよ…」
雨音が止めたけれど、雲林院はもう歌ってしまった。
「何の音…? お化けの音…!」
雲林院の歌を待っていたように、風がごうっと吹き付けた。
旋風が葉を降らし、鬼の嗤う声を雑木林に響かせた。
紅葉は刀を一閃させて小鬼を振り落とし、細い一本道を走った。
雑木林を抜けた先、道の脇に地蔵があった。
集落の死者を供養する為の、石の地蔵。
地蔵が壊れ、首が落ちていた。
地蔵の近くに、紅葉達の乗ってきた鬼ツアーの観光バスの、タイヤの跡があった。
「お地蔵様。どうしたらいいか、わかりません。あの鬼を成仏させてあげることは出来ないんですか?」
紅葉は泣きながら、地蔵の体を寄せ集めて頭を載せた。
彼女は溢れてくる涙を手の甲で拭き、泣きじゃくっていた。
しばらくすると、背後が静かになった。
鬼達が消えていた。
5
咲良は真っ暗闇を歩き続けた。
精神的に追い詰められ、息が切れても休むことが出来なかった。
ヒタヒタ、どこまでも鬼の足音がついて来る。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
鬼の息遣いまで聞こえる。
しかし、かなりの距離を歩いたけれども、鬼はなかなか襲って来なかった。
鬼はかすれた声で、風のように呟いた。
「巫女よ、聞いてくれ。ここらの川は何度も氾濫し、周辺の村全て押し流した。…祟りだ。悪しき鬼が我等を呪っておった…」
鬼は人として生きていた頃を語った。
「ある村では、祟りを鎮める為に人柱を立てた。我等の村では、祟りなす鬼を退治すべく、ある男を山へ送った…」
鬼の話を、咲良はレインコートの襟を立て、歩きながら聞いた。
「山の奥、そのまた奥、人など誰も住まぬところ。暗き谷の名もなき滝の、巨岩を枕に、黒き龍がいた…。頭を巨岩の上に載せ、身は多くの支流に跨ってうねり、尾の先は荒海に入って、よく見えなかった…」
鬼は思うように声を出せないらしく、ひそひそと話した。
「男は黒き龍を酒で酔わせ、全ての首を切り落として殺した。されど、祟りは終わらなかった。その龍は、神の財宝を納めた岩屋を護っておった。我等は神の使いを殺してしもうた…。かくして、この地に水害は尽きぬ。荒らぶる川は、二度と鎮まらぬ。最初に氾濫を起こした鬼は、今も見い出せぬまま…」
咲良はそっと後ろの気配を窺った。
とてつもなくでかい妖気が、空気を圧してきた。
「あなたがその時の…龍を退治した人…なんですね…?」
鬼は無言だった。
「私を食べても美味しくないですよ。きっとマズイと思う…」
「おぬしを食うつもりはない。大鬼の宿へ連れて行くだけで、何でも願いが叶う…」
「水害で死ぬ人が絶えなくて、後悔したんですよね。鬼になってしまうほど?」
この鬼に、咲良は少し同情した。
「鬼なんて、やめてしまえばいいのに。あなたの心は紙一重で、人間に戻れるんじゃないですか?」
鬼は一笑に付す。
「心が囚われて、今の形があろう。我ながら、浅ましい…。ここらで区切りを付けてしまおうか。…巫女よ。おぬしを殺して、大鬼に届ける。願いを叶えた上で、あの世へ旅立つ…」
咲良は背後から強い殺気を感じた。
急いで、左の木の影に隠れた。
彼女は震え、生きた心地がしなかった。
今まで会った鬼の中でも、相当強いクラスだと思う。
「人を殺して逝く先なんて、地獄なのに」
咲良は心の中で思った。
鬼は彼女の心を読み、
「地獄は恐れぬ。すまぬが、巫女よ。おぬしの命を譲ってくれぬか…」
と、頼んだ。
鬼の熱い鼻息が、咲良の顔にかかった。
鬼の喉に、大きな傷があった。




