肆 下鴨神社・鬼の武器
1
五月三日、咲良と紅葉が下鴨神社に来た。
屋根越しに、こんもりとした樹木の盛り上がりが見えてくる。
糺の森だ。
「あれっ、下鴨神社じゃないの!?」
参道の脇の石に刻まれた、賀茂御祖神社の文字を見て、咲良が聞く。
「下鴨神社の正式な名前。カモ、ミオヤ、ジンジャって読むねん」
紅葉が答えた。
普段は静かな糺の森の参道。
今日は流鏑馬を観る人の行列が出来ている。
「私、三歳まで京都に住んでたの。親が最近離婚して、母方のおばあちゃんちに引っ越して来たんだけど…」
咲良が森を眺め回した。
長い参道の両側は、太陽の光を遮るほど葉が茂った大木が生えている。
「この大きな木からも、パワーがたくさん出てるー。すごく心が落ち着く」
咲良が深呼吸した。
「当たり前や。ここはわけが違う。平安時代より前から続く原生林なんやで! 京都を拓いた賀茂県主の祖先を祀ってる。賀茂県主は山城国風土記にも載ってる。ここはめーっちゃ古い神社やねん!」
紅葉が自慢した。
参道の横の売店で、ヤタガラスグッズを見つけた。
「君、そういうのに弱いね。お稲荷さんでもキツネグッズ買うてたね…」
紅葉は、咲良がヤタガラスのタオルを買うのを、横から見詰めた。
「昔、神武天皇が九州から奈良に来はって、先住者と戦った。最初はめっちゃ抵抗されて、紀伊から攻め直す。その時に神武天皇をご案内したのが、ヤタガラス。下鴨神社のご祭神、カモタケツヌミノ命と言われてる」
紅葉が説明し、咲良はヤタガラスのイラストを、じっと見詰めた。
ヤタガラスの伝承は、紀伊熊野の方にもある。
「行くえ。流鏑馬は早めに場所取らな、ええとこから見られへん。うちら、立ち見やし」
紅葉達が急いだ。
みたらし団子や唐揚げの屋台が出ている。
みたらし団子発祥の地ということで、団子を買った。
2
馬場と有料席の間に、竹垣が組まれている。
雨が降りそうだったが、糺の森の木々が枝を広げ、濡れないように守ってくれそうだ。
神事が厳かに始まった。
屋根なしの馬車に乗ってきた勅使は、平安時代の黒地の正装、束帯。
長い纓が垂れた冠を被っている。
儀式に登場する全員が、冠に葵の葉を付けている。
白装束の神職が壇に上がる。
巫女達は髪を束ねて赤い袴で、赤の縁取りが付いたケープのような白い上掛けを羽織っている。
「明日の、斎王代の禊の儀はたぶん、見れへんわ。みたらし池の前は狭いから。古武道の奉納だけ見よか。それも面白いで」
紅葉は咲良を見詰めて、
「君、斎王代、めっちゃ似合いそうやな。ま、社長の娘でもないと、なれへんけど」
と、言った。
斎王代と言えば、十二単。
確かに、咲良は似合いそう。
射手が入場してきたのを見て、紅葉が、
「普通、流鏑馬は武士の格好。全国で唯一、下鴨神社だけが平安貴族の武官の流鏑馬をやるねん。ここは公家風と武家風、両方ある。一回で二度美味しいんよ」
と、説明した。
武士の狩装束は、笠を被って直垂を着て、鹿の毛皮の行縢を付ける。
平安時代の武官は、脇を縫い合わせてない闕腋袍に巻纓冠、頬には緌を付け、ふっくらとして優美だ。
おいかけは耳から顔の方に向かって扇状に開く、馬の毛で出来た飾り。
このおいかけが、武官を一層凛々しく見せる。
「な、源氏物語みたいやろ?」
紅葉が言う。
「本当だ。紅葉ちゃん、源頼光と渡辺綱もあんな格好してたの?」
「階級によって色々あるけど、大まかに言えば、ああいう感じとちゃうかな」
咲良と紅葉は平安時代に思いを馳せた。
橙色の袍の武官、縹色の袍の武官、狩装束の武士が騎乗して通る。
弓を持つ従者、矢を持つ従者が続き、烏帽子に水干の子供達が的を持って、長い行列が馬場をゆく。
咲良はタイムスリップしたみたいな気分になってきた。
はるか古えの、平安の都大路を心に思い描く。
神事の行列が、本物の当時の人に思えてくる。
咲良はまた、不思議な鈴の音を聞いた。
シャリーン…、…シャリーン…。
騒がしい人混みの中、微かに途切れ途切れに聞こえてくる。
「また聞こえる。あの鈴はどこで鳴ってるの…?」
咲良は鈴の音のする方向を探った。
シャリー…ン…。
彼女は周囲の雑音から切り離され、いつの間にか、平安の都に迷い込んでいた。
瓦の載った土塀が続く。
埃っぽい大路で、牛車から咲良が外を覗く。
人っ子一人いない、暗い大路。
咲良は取り残されている。
彼女は長い髪で小袿を着て、紅の長袴を履いている。
大路の先から、ざわめきと足音が近付いてきた。
ずるずると何か引き摺る音。
読経のような唄い声。
目には見えない一行の、気配が迫り来る。
「鬼だ!」
咲良は慌てて、橋のたもとに隠れた。
鬼の一行が橋に差し掛かり、朧げに姿形を取り始めた。
ペタペタと足音が聞こえる。
息遣いが間近に迫る。
鬼の影が大小織り交ぜ、長い列となって、橋を渡っていく。
先頭の鬼が鉾を持ち、旗を掲げる鬼が続く。
楽器を奏でる鬼、唄う鬼、異形のものどもが続く。
列の末尾辺りで、飛び抜けて大柄な鬼が錫杖を振り、六個の環を鈴のように鳴らした。
シャリーン…!
「あれは鬼の錫杖の音だったんだ…!」
咲良は息を殺して眺めていた。
錫杖の音がだんだん近くなる。
「咲良。鬼に気付かれたら、連れて行かれますぞ」
誰かが低い小声で、咲良に言った。
「はっ…」
彼女は心臓が止まりそうなほど驚いて、背後を振り返った。
知らぬ間に、縹色の袍を着た若い男が、真後ろにいた。
黒い冠とおいかけを付け、長い太刀を佩いている。
切れ長の眸と純和風の顔立ち、精悍な雰囲気の男だった。
「あ、この人。見たことある…」
咲良は思い出そうとして、相手の顔をまじまじと見た。
…幻想は、現実と重なる形で終わった。
咲良は元の世界に戻り、鬼の行列は過ぎ去った。
よく見知っていた誰かの顔は、流鏑馬の射手の見知らぬ顔と重なった。
射手は馬上で、襷のようなものを鞭で受け取った。
ゆったりとした袂を右に左に、また右に伸ばしてポーズを取る。
その姿が凛々しくて、咲良の胸がきゅんと鳴る。
いよいよ、流鏑馬が始まった。
馬が予想以上の速度で駆けてきた。
射手が矢をつがえ、大きく胸を反らせて弓を引く。
大きな音がして、的が真っ二つに割れた。
観客が沸き上がり、拍手が起こった。
二本目、三本目と、全部的中した。
どんどん次の馬が走り来る。
その場は空気が沸いて、熱気になった。
不思議な連帯感が生まれ、射手を応援した。
「すごい迫力だねー」
咲良は手が痛くなるほど、惜しみなく拍手を送った。
紅葉は笑いながら、先日、ナイフで切られた咲良が元気そうでホッとした。
3
翌日。
二日続けて下鴨神社に来た。
小雨がぱらつく午後一時頃、古武道の奉納が始まった。
場所は、本殿を前にした庭の、舞殿と橋殿。
武道の愛好家達が三脚を設置し、カメラやビデオで撮影している。
居合道、古柔術、棒術、槍術、薙刀術、馬術。
関東から沖縄まで、たくさんの流派が集まっている。
「君も名前は聞いたことあるでしょ? 有名な流派がたくさん。観るのは楽しいけど、残念なことに、ここは二つの舞台で同時進行しはる。見逃したら、また来年てことになる…」
紅葉がプログラムを咲良に見せた。
「奥義は見せてくれへん。古武道は秘密だらけ」
紅葉が言った。
舞殿で、居合道の演武が始まった。
「ね、紅葉ちゃん。あれ、真剣?」
咲良には、真剣と模擬刀の区別がつかない。
「師範クラスの人が、模擬刀なわけないよ。勿論、真剣。今日出てはる人は上段者ばっかりやろ。全員、真剣でやってはるはず」
「そうなの?」
咲良はびっくりして眺めた。
「よう見てね。今日はいろんな武器も見られるよ」
紅葉の言葉通り、鎌、杖、三尺三寸(刃渡り約1メートル)の長刀VS脇差、沖縄の接近戦用武器サイなど、いろんな武器や対決が登場した。
「うわー、かっこいいー」
咲良は眸を輝かせて、演武を見た。
「今度、高校剣道の大会、見に行く? うちのおにぃ、結構ファン多いんやで」
紅葉が誘った。
「紅葉ちゃんのお兄さん、かっこいいもんね。…そう言えば、あの抜けない刀、どうなったの? シャーマン以外の人が抜いたら、呪われるとか言う…」
咲良が尋ねた。
「うちの父親が、大学の研究室に置きっ放しにしてはってんけど、昨日、持って帰らはった。やっと、私も見れた。気持ち悪い刀やった。君、まだ見たい?」
紅葉が聞くと、
「うん、見たい」
咲良が頷いた。
紅葉はつまらない話をしてしまったと思い、少し後悔した。
「咲良ちゃんが呪われたらどうしよう。見せたくなくなってきた。君と長くつきあいたいし」
「大丈夫だよ。刀を抜くだけで、なんで呪われるのかなぁー。そんなわけないよね?」
咲良が知りたがった。
「知らん方がええよ。たぶん、人をたくさん斬り殺した刀やから」
「刀だもん。人ぐらい斬り殺してるでしょ?」
「そうやけど。うちの父親が大学の設備を使って、エックス線で調べたら、大して錆びてなかったって。でも、呪われるっていう話が怖くて、抜くのを躊躇してるらしい」
紅葉は父親ほど、呪いなんて信じてない。
しかし、その刀は彼女から見ても、不気味な感じがした。
紅葉は昨日のことを思い出した。
父親が書斎のデスクに、細長い桐箱を置いた。
魔除けの札を外し、厳重に結ばれた組紐を解く。
桐箱の中に納められていたのは、白鞘の刀。
刀油が抜け、白鞘が薄茶に変色していた。
現在の刃長は、二尺四寸(約73センチ)。
元は長めの太刀を、磨り上げて短い刀にした為に、無銘だと父親が言っていた。
「お祓いしてもらったら?」
咲良が提案した。
「骨董屋さんの話やと、刀の持ち主が死んだ後、長いこと蔵にしまわれてたのを、子孫が持ち込んで来たらしいねん。持ち主が死んだ時に一応、霊媒師がお祓いしたんやて」
「ふーん」
本当は詳しいイワクがあった。
その刀は幕末、滅多切り事件に使われたものだった。
持ち主が変わっても呪いが続き、三人怪死した為、霊媒師によって封印がなされたと言う。
その時、漆塗りの鞘から、長期保管の為に白鞘に納められた。
「鬼が宿っている」
霊媒師が言ったらしい。
よほどの霊媒師でもない限り、抜くのはお勧めしないとも言った。
抜けない刀ではなく、抜いてはいけない刀というのが、本当の話だった。
紅葉はわざと話を変えた。
「実戦に使われた刀は、修理した分、擦り減ってる。鬼切も傷あったな。君、気ぃ付いた? 鬼の腕を切り落とした時の傷やったりしてな…」
「紅葉ちゃん。昔話ってさ。鬼が一方的に斬られるだけなんて、おかしいよねぇー?」
咲良は、渡辺綱が鬼の腕を切り落とす場面を思い浮かべた。
一条戻り橋。
月明かりが差す。
渡辺綱と鬼が向かい合っている。
渡辺綱は逞しい大男だったが、鬼は彼よりもはるかに大きく、筋骨隆々としている。
鬼の髪は赤味を帯び、獅子のたてがみのよう。
二本の角は、龍のよう。
鬼の目は炯々として、青白い炎を噴き出している。
鬼の全身から、青白い炎がうっすらと燃え上がって見える。
特に眼孔や鼻孔、耳、口から、炎が零れている。
鬼が渡辺綱の襟を掴み、空へと跳んだ。
霊峰・愛宕を飛び越え、大江山の鬼の城へ向かうつもりだ。
しかし、跳ぶやいなや、渡辺綱が佩いていた太刀を引き抜いた。
彼の太刀は実用的な拵えだが、体格に合わせて大型、切れ味は抜群。
一振りで、鬼の左腕を切り落とした。
「ぐぅわぁるる、がるぅー!!」
鬼が悶え、牙を剥いて、獣じみた咆哮を上げた。
渡辺綱と鬼の死闘が、地上で繰り広げられた。
…ここに来て、咲良の空想は物語の筋から逸れていく。
綱の大太刀に対し、鬼は反りのない金属製の…。
「ねぇ、紅葉ちゃん。鬼はどんな武装してるの?」
咲良が念の為、聞いてみた。
「そやなぁ。鬼が何時から、金棒を振り回すようになるんか? 最初の武器は、雷、大雨、洪水、疫病かな? ある意味、深い質問やん…」
紅葉は眼鏡を掛け直し、真面目に答えた。
「そっかぁー。私、鬼は刀で武装してたのかと思ってた…」
咲良がトボけたことを言った。
「えっ、咲良ちゃん! マジで!?」
紅葉が爆笑し、スマホを落としそうになった。
咲良は渡辺綱が奮戦する場面に戻る。
鬼は戻り橋の欄干に片足を掛け、武器を振り上げた。
振り下ろされる一撃は、鉄のハンマーのような破壊力。
きわどいところで避けた渡辺綱、居た場所の、橋の踏板が打ち砕かれる。
ドーン。
鬼の武器は、金棒と呼ばれるほどに厚く、重い。
直刀、もしくは両刃の剣。
鬼は怪力で、それを片手で振り回す。
ズズン。
地面に穴が開く。
鬼の手から稲妻が閃き、火花が散る。
青白い光線が放射状に周囲を照らした後、鉤状に曲がって、綱の身を掠める…。
「ふふふ、刀やて。そんなん、怖過ぎるよ。鬼には素手で来てもらわんと。鬼に金棒って、無敵という意味やからね」
と、紅葉が笑って話した。
「紅葉ちゃん、私、居合やりたい…!」
突然、咲良が言い出した。
紅葉は驚いて、眸を見開いた。
「はぁーあ!? 本気ー? 君、男性恐怖症やん!! 居合の道場って、大半は男の人やと思うよー!? それに、君、運動神経鈍そうやけど大丈夫!?」
彼女は驚き過ぎて、呆れた。
咲良は返答に詰まった。
「う…。スポーツ、何もやったことない。でも、型だったら出来そうじゃない?」
咲良が舞殿を指差した。
「いや、そやから、あれは本気出してはらへんから。普段の稽古より軽く合わせてはるだけやから。居合は刀で、絶対手を切るよ。刀、意外と重いよ?」
「とりあえず、見学してみたい。一緒に来てー、紅葉ちゃん!」
咲良が頼む。
紅葉がいくら反対しても、咲良は諦めようとしなかった。
結局、紅葉は、
「…わかった。ほな、私は付き添いで。居合の道場、探しといたげる」
と、承諾した。
「本当!? ありがとうー!!」
咲良は嬉しくて、ぴょんぴょん飛び跳ねた。
舞殿では、木刀の組太刀が始まった。
二人一組で型通りに、速いテンポで打ち合う。
老齢の師範と若い男、本気の気迫が伝わってきた。
演武を終えた男が、舞殿の階段を降りる際に、ちらっと紅葉と咲良を見た。
「女の子が何しに来てんの?」
そんな表情だった。
「旭、全部持ってって」
「はい!」
旭は師範から荷物を渡され、両手いっぱいに抱えて、雪駄で歩き出した。
演武に出られるのは、道場の精鋭だ。
「今の人、すごかったね。低くて速くて、本当に強そうって思った。あんな風になりたい…」
拍手で見送り、咲良が言った。
4
古武道を堪能し、彼女達は境内にある相生社に寄った。
縁結びの人気スポットだが、とても小さなお社。
「ここも、パワスポマップに載せたいねん」
と、紅葉が言った。
たくさんの絵馬がご神木を囲んでいる。
ご祭神は古事記にも名が見える、カムムスビノ神。
「このご神木は、二本の木が寄り添って一本になるという、夫婦みたいな木やねん。恋愛以外のご縁を祈ってもええよ」
「へぇ…」
咲良は何か考えながら、ご神木を見上げた。
彼女達は売店で絵馬を買い、願い事を書く為にテーブルに着いた。
「紅葉ちゃん。私、好きな人いないよ」
「構へんよ。私もいいひんから。一番会いたい相手のことを書いたらええよ。とにかく大事なことは、神様にちゃんと伝わるように書くこと」
紅葉は絵馬に、盗まれた鬼切ともう一度会いたい、と書き込んだ。
どうしても見つけ出したかった。
咲良は絵馬を前にして、マナブのことを考えた。
「あの人はなんで、鬼になりたいとか思ったのかなぁ。すっごく怖いけど、もう一回会って、理由を聞いてみたい…。私も、鬼になりたいとか思うことがあるのかなぁ…?」
咲良は心の中で呟き、マナブともう一度会いたい、と書いた。
二人は内容を隠すシールを貼り、絵馬を掛けた。
ご神木の周りを三度回って鈴を鳴らし、三度拝む。
「今日という日がずっと、うちらのええ思い出になりますように」
紅葉が声に出して祈った。