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壱陸 地底・鬼屋敷


 トイレのドアに浮き上がった影が、蝦蟇麿(がままろ)の形を取っていく。


「稚桜…、我等の復活は邪魔させぬ…」

 蝦蟇麿のしわがれた声がした。

 ドアから水掻きのある手が突き出て来た。


 (えい)の垂れた冠を被った、蝦蟇麿の姿がドアに肖像画のように浮き上がる。

 蝦蟇麿の肖像画の口元が動き、牙が見えて、

「…こんなところに隠れてたのか。捜したぞ…」

 と、言った。


「やぁっ!!」

 咲良が神泉を右手に構え、ドアに突進した。

 彼女は怯えながら、蝦蟇麿の眉間を突き込んだ。



 神泉の切先が、木製のドアの表面をガッと削った。

 光が走り、咲良は衝撃で弾き飛ばされた。



 蝦蟇麿の姿が消えて、洗面所の鏡の中に移動した。

「ふははは、ははは…。なんだ、その攻撃。おまえの剣術の腕はひどいな…」

 蝦蟇麿が嘲笑した。

 鏡の表面に、水面に石を投げたような波紋が広がった。


 蝦蟇麿が両手を口元に寄せ、ふぅっと息を吐き出した。

 そうすると、彼の息から、毒気の泡が吹き出た。

 泡はシャボン玉のよう飛び、蠱毒のカエルになった。


 このカエルに触れたら、腐って死んでしまう。



 咲良は必死に神泉を振り回し、カエルを斬った。

 神泉は軽く、手応えも感じさせずに、カエルを真っ二つに切り裂いた。

「…斬れた…!!」

 咲良はびっくりした。


 神泉が光で、穢れたものを寄せ付けずに、刃も触れさせずに斬る。

 自動的に斬ってくれる。


「斬れる…!!」

 咲良が続けて、カエルの小鬼を何匹か斬った。

 斬られたカエルは金色の炎に焼かれ、消滅した。



「調子に乗るな、小娘が…」

 蝦蟇麿が歯を軋ませ、次の鬼を解き放った。

 鬼が床に潜り込み、床のタイルから、咲良の影が立ち上がった。


 黒く塗り潰された咲良の影が、へらへら嗤っている。

 薄っぺらい影法師が、蝦蟇麿の思い通りに動く。


 咲良が神泉で影を斬ろうとすると、影が彼女の手を押さえ込み、神泉を封じようとした。

 影の咲良は本物の咲良以上の腕力で、へらへら嗤いながら彼女の手を捩じる。

「うわっ! 助けて、神泉ー!!」


 神泉は咲良の呼びかけに応え、光を閃かせた。

 影の咲良は光に照らされ、元通りのただの影となって、床と壁に張り付いた。


 咲良は鏡ににじり寄り、神泉を振り上げた。

 蝦蟇麿は鏡の中で手をかざし、頭を庇う仕草をした。

「…来い、稚桜…」

 蝦蟇麿がニヤリと嗤うのが見えた。



 バン!

 突如、ドアが内向きに開いた。

 ドアが蝦蟇麿を映す鏡を隠し、誰かが飛び込んできた。





 咲良がトイレに隠れている間。

 雨が降り出した博物館前庭、救急車が来るほどの騒ぎになっていた。


 噴水の周囲は地割れし、ロダンの「考える人」は砕け散っていた。

 地面は水浸し。

 芝生も木も、毒気の為に枯れた。



「何があったんですか!?」

 レトロなレンガ造りの正門を、野次馬が取り囲んでいる。

「噴水の池に、誰かがピラニアを放したんやって。それで、中学生が何人か噴水に落ちたらしい。雷が落ちて、木と芝生が焼けたとか…」

 近所の人が教えてくれた。


「ふーん。普通の人が見たら、そういうことになるんですねぇ…」

 尋ねた相手は、小さい声で感想を漏らした。


 彼は正門の扉の部分を指でなぞり、ドーム屋根とガス灯を見上げた。

 指には(すす)が付き、焦げ臭い匂いがした。

「そっか…。青い雷が落ちたのは、ここか…。門が異界の出口に繋がったな…」

 雨音が独り言を言う。


 雨音は入場料を払わずに、騒ぎに紛れて出口から侵入した。

 彼は特別展をやっている、明治時代の洋館へ入って行った。






 バン!

 トイレのドアを押し開き、雨音が飛び込んできた。

 彼はいきなり、

「咲良ちゃん!! 怪我もまだよくなってないのに、何やってんだよ!?」

 と、咲良に怒鳴った。


 咲良は長めの前髪を結んだ雨音を見た。

 今日は額に絆創膏を貼っている。

「あ…、雨音くん…」

 孤独と絶望から安堵に変わり、彼女の眸にじわっと涙が盛り上がった。


「咲良ちゃん、弱いくせに!」

 雨音が言い切り、咲良から神泉をもぎ取った。

 彼は俊敏に振り返って、ドアを閉めた。



 洗面所の鏡の中に蝦蟇麿がいない。

 雨音と咲良だけが映っている。

「ここだ!! 咲良ちゃん、動くな!!」

 雨音が咲良の足元、彼女の影を神泉で刺した。


 神泉から稲妻が閃き、落雷の音が二人の耳をつんざいた。



 タイルの床から、黒い煙が昇った。

 雨音が刺した神泉によって、床に縫い付けられた影がもがいた。

「うう…、う…」

 神泉は影の頭部を貫いていた。


 落雷に焼かれ、影からも黒い煙が上がる。

 影は悶え苦しみながら、薄っぺらい手を持ち上げた。

 影の輪郭が崩れ、手に水掻きが見えてくる。


「蝦蟇麿が私の影の中に…」

 咲良が影を見詰めた。



 実は、鏡の中の蝦蟇麿は幻だった。

 本当の蝦蟇麿は、咲良が鏡に神泉を突き立てる一瞬を、彼女の影の中で待っていた。

 その機会を潰したのが、雨音だ。


「蝦蟇麿、流れてしまえ!!」

 咲良が近くの個室の水洗を流し、蝦蟇麿の名を呼んだ。

 蝦蟇麿は両腕を持ち上げ、痙攣した。

「グァー!!」

 断末魔の声を響かせ、蝦蟇麿が床に吸い込まれた。

 この鬼は、水洗の音とともに流れ去った。




 雨音は厳しい眼差しで、咲良を振り向いた。

「何やってんの、咲良ちゃん!? 山上さんに止められなかった!? この短刀、君が実際に使う為に山上さんが貸してくれたんじゃないんだよ。ただの御守りとしてなんだから!」

 今までにない、きつい調子で雨音が言った。


 咲良はビクビクした。

「あ、あの、そうだけど…。こうしなきゃ、私、死んでたかも知れないし…」

 彼女は言い訳を言った。


「マナブさんに呼び出されて、首塚神社で怪我したのに、まだ()りてないの!?」

 雨音のきつかった眸が徐々に優しくなり、

「心配したんだよ…」

 と、彼は長い溜息を吐いた。


「雨音くん…。来てくれて、ありがとう…。ううっ…」

 咲良は顔をくしゃくしゃにして泣いた。

 雨音は咲良の頭をポンポンと叩いた。


「もう怒ってないよ。…紅葉ちゃんは?」

 彼は女子トイレを見回しながら、床から抜いた神泉を咲良に返した。


「あっ、そうだ。紅葉ちゃんとコマチちゃんが…」

 咲良はカエルの大群を見て、紅葉達を残して逃げたことを思い出した。

「じゃ、たぶん、鬼が連れてったんだね。博物館の門に、鬼が通った跡が残ってた」

 雨音がドアを開け、女子トイレから咲良を連れ出した。

 ちょうど、廊下に誰もいない。



「紅葉ちゃんは…どこへ連れてかれたの!?」

 咲良は自分を責めて、辛い気持ちになった。

愛宕(あたご)か、鞍馬(くらま)か…。とにかく、複数の鬼がうろついてる…」

 雨音は何故か、とても詳しい。


 咲良は源頼光が四天王を連れ、都の姫達を連れ去った鬼を退治しに行く話を思い出した。

「丹波の大江山みたいなところ?」

「かもね…」

 雨音がビニル傘を差し、二人で一つの傘に入った。


「咲良ちゃんはクラスの友達と、中学校に戻って。僕が紅葉ちゃんを助け出して来るから…」

「え!? そんな…」

 咲良は盆地の京都を取り巻く山を眺めた。

 遠くで雷が光っていた。



「雨音くん、私も行く…!!」

「ダメ。紅葉ちゃんは今、この世の側に居ない。…僕も帰って寝たいし」

 彼は眠そうに欠伸(あくび)し、野次馬の隙間を縫って歩いた。


「雨音くん、お願い。私も連れてって。…ダメって言われても、絶対行く…!!」

 咲良が雨音の腕を掴んで、駄々をこねた。

「えーっ…」

 雨音は困惑した。




 紅葉が目を覚ました。

 ここはどこか、わからない。

 夢の中かも知れない。


 霧が濃い。

 月明かりすらない。

 雲が風に流され、紅葉の髪を吹き抜けていく。


 紅葉の隣で、神谷先生とコマチが眠っている。

 鬼となっていた神谷先生は、元の人間の姿に戻っている。

 神谷先生もコマチも無事だった。


 紅葉はいくつもの辻や、鳥居を見た。

 景色が流れていった。

 咲良が乗ったと話していた、鬼の牛車ではないようだ。

 牛車というよりは、雲の海を行くゴンドラだ。

 紅葉は波に揺られている。



 紅葉が目を覚ましたことに、鬼女が気付いた。

「寝てよし。まだまだ着かへん。地底に行くねん」

 鬼女が紅葉の声で囁いた。


「それって、地獄…?」

「地獄ちゃう。鬼が体を休めるところ…。あの世でもなく、この世でもなく…」

「マナブのところ?」

「ううん。マナブは変わった鬼やから、人間と同棲してる。鬼になる前と同じように今も暮らしてる…」

 鬼女が面白そうに話した。





 日暮れ道、険しい山の中。

 道を踏み外し、崖から落ちかけている登山者がいる。


 この老人は道に迷い、日暮れまでに山を降りれなかった。

 山登り会の仲間ともはぐれてしまった。

 新品のトレッキングシューズを履いている。

 チェックの長袖シャツにベストと登山帽、大きなバックパックを背負っている。


 崖を半分転がり落ち、体中掻き傷だらけになっていた。

 足を捻挫し、片手で木の根に捕まったまま、身動き取れない状態だ。

 携帯電話がバックパックのポケットに入っているのに、今、体勢が悪くて手が届かない。


 日が暮れてしまえば、家族の捜索も困難になる。

 このまま一晩は持ちそうにない。

 それに、とても空気が冷えて来た。


 喉が渇いた。

 老人は掠れた声で仲間を呼んでいた。

「おーぅい、誰かぁ…、助けてくれぇー…」



 老人は木の根の上に、何かの気配を感じた。

 木の根元に誰か立っている。

 痩せた若い男。


 今どきの髪型で、片目は見えない。

 顔立ちは悪くないし、薄情そうにも見えない。

 老人はこれで助かったと早合点した。

「ああ、よかった。助けてもらえませんか…。足を捻挫して、自力で崖から上がれないんです…」

 老人が若い男に頼んだ。


「ここは鬼の縄張りだ…」

 マナブが答えた。


 老人が日暮れの弱い光で男をよく見たら、相手に鬼のような角があるのがわかった。

 老人はそれでも、アクセサリーか何かだと思った。

「そ、そんな冷たいこと言わんと…。引っ張り上げてもらえませんか…。もう体力が持たへん…」


 マナブは背中におんぶした子供を見せた。

 老人の初孫の、七歳の男の子だった。

「この子を拾ったんだ。この子を崖から投げ捨てて、おじいさんを助けるか。おじいさんを見捨てて、この子を麓まで送り届けるか…。選んでくれる?」


 老人は目を白黒させ、

「わ、わかった。その子は助けて下さい…。それで、誰か人をこっちにも呼んで下さい…」

 と、慌てて言った。

 マナブは老人の手を踏み付け、

「ジジイは喰う気にならないな。勝手に落ちろ」

 と、言い捨てた。


「ま、まさか…、ほんまに鬼みたいやんか…」

 老人は思いもしなかった冷たい言葉をかけられ、文句を言った。

 まだ助けてもらうつもりでいた。


「鬼なんだよ」

 マナブが老人の顔を蹴り、登山帽が崖の下に落ちて行った。

 老人の孫が、マナブの背中で泣き出した。


 老人は自分の置かれた厳しい状況にようやく気付き、青褪めた。

「頼む…。頼みます…、お願いだから…助けて下さい…」

 老人が泣き出しながら哀願した。


「ここで助けたら、鬼じゃないでしょーが…」

 マナブが老人の顔を踏み付け、恐怖に歪む老人の様子を愉しんだ。

「あっはっはぁ、必死でしがみついてるよ。このジジィ、結構力あるねぇ…」

 マナブは動けない年寄りを蹴り続けた。


 マナブは気が変わったように、道の上まで老人を引き上げた。

 引き上げた後で、子供を崖の下に投げた。

「あっ!! 何をする!! この鬼…が…!!」

 老人は絶望と怒りに震えながら、マナブを睨んだ。


「僕の妻と子も、こうして殺されたんだよ…。最愛の妻と、幼い息子と娘を…。千年経っても、僕の怨みは終わりがない…」

 マナブが腕を組み、老人を見下ろす。


 老人はマナブを、

「鬼!! 人でなし!!」

 と罵り続け、自分が助かったばかりの崖に、木に掴まりながら滑り下りた。

 孫を助ける為に、挫いた足のことも忘れた。

 老人は呆気なく足を滑らせ、真っ逆さまに滑り落ちた。


「勝手に恨んでくれよ。こっちはさ、昔話の鬼とは違うんだ。本物なんだよ」

 マナブは大笑いして、老人の死を見届けた。


 彼はヤギのように崖を跳び、木の根に引っかかっていた男の子を捕まえた。

「君を喰って、怨みを晴らす。可哀相だけど、それしか、僕には術がない」

 男の子が悲鳴を上げるより早く、彼は首筋に食いついた。




「ただいまぁー」

 マナブがマンションに帰ってきた。

 玄関を開けると、手作りカレーの匂いがした。


「お帰り、マナブ。遅かったね」

 二十八、九歳の男がキッチンから出迎えた。

 くっきりした眸が美し過ぎる、女優顔の男だ。


「カズチ、大学の方は早く終わったんだ? 僕、腹減っちゃった。チキンのカレー? 人間の肉が入ったカレーはないの?」

 マナブが恐ろしいことを言った。

 相手はさらっと聞き流した。

「マナブを待ってたんだよ。早く一緒に食べよう」


 とても清潔でシックな部屋だ。

 カズチが賃貸契約をしている。

 マナブは彼に拾われて、食事付き、シャワー付き、一緒に生活している。

 カズチのシャンプーを使い、カズチの服を勝手に借りている。



 カズチの作ったカレーを食べる鬼・マナブ。

「マナブ、これ着てみて。マナブは俺より背が高いから、サイズを考えて買って来たんだよ…」

 カズチはマナブを、着せ替え人形のように考えている。

 鬼の角や牙も、気にならないらしい。


「カズチは本当に変人だね。変人過ぎて、研究室でも有名なんじゃないの? 僕は鬼なんだよ…。今日も二人殺してきた…。鬼をペットにするなんて、…どういう実験なの?」

 マナブは美味しそうにカレーを食べ、カズチに言った。


「マナブ…、行くところがないなら、ずっとここに居ていいからね。鬼でも何でもいい。俺は子供の時から、ずっと一人ぼっちだった…。すごく寂しかったんだ…」

 カズチが愛しそうに微笑んだ。





 紅葉は逃げ出す機会を窺っていた。

 でも、異界から元の世界へ帰る方法がわからなかった。


 彼女を乗せたゴンドラは、どこかの岸に辿り着いた。

 妖怪の国のように、不気味でどろどろしている。

 木々が恨めしげに手を垂れるお化けに見えた。


 霧の中にぽつりと、崩れかけた土塀の家があった。

 土塀の一つ一つの瓦屋根の代わりに、ネズミが載っている。

 稀に人間が彷徨(さまよ)い込む。

 ここが鬼の棲家なのだと言う。



「私の名は(つる)

 つるつるののっぺらぼう、紅葉の顔を借りている鬼女が名乗った。

「ここは長く使ってなかった。私も長く眠りについてたから…」

 鬼女が紅葉達を案内した。


 コマチは妖気に弱いのか、眠ったまま、数匹の水の鬼に担がれていく。

 神谷先生は気まずそうに、

「…寝てしもたけど、ここはどこなん? 紅葉…。みんな、どうなったんやろ?」

 と、紅葉に尋ねた。


 紅葉は溜息とともに答えた。

「みんながどうなったか、わかりません。鬼になった子も、どっかに消えてしまいました…。うちらだけ、鬼に拉致されました。先生も…さっきまで鬼になってましたよ…」


 神谷先生は少しは記憶に残ってるのか、自己嫌悪に表情を歪めた。

「言わんといてくれ…。考えたくない。まだ体の中で、鬼がムズムズしてる…。鬼なんて…誰が信じてくれるやろ?」

 神谷先生は心細そうに、霧の中の鬼屋敷を見た。



「鬼はねぇ、どこにでも居てます。私や蝦蟇麿は…千年の長い眠りから目を覚まし…、人間から精気を吸い取って、やっと復活して参りました…。何とか封印を破壊して、残りの仲間を助け出したいと思うんですけどねぇ…」

 鬼女・鶴が神谷先生に言った。

「うわわ、紅葉が二人居る!!」

 神谷先生が鶴を見て、仰天した。


「見分けつきませんか? ほな、着替えますわ。顔までのっぺらぼうに戻ってしまうと、会話が出来ないから、しばらく紅葉の顔と声を借りときます」

 鶴が青いリボンを解き、制服を脱いだ。

 途端に、長い紅の袴と小袿がざざっと広がり、鬼女が着物の裾を引いた。


「ほんまに私とそっくり。同じ顔…」

 紅葉は鶴を凝視した。



 紅葉達が鬼の楼門を潜った。

 長い舌のような形の橋があり、鬼の顔をした門がある。

 鶴は鬼の顔の中へ入っていく。


 鬼屋敷はどこも植物がはびこり、(きのこ)が生えている。

 この世界は奇妙だ。

 薄暗いが、真っ暗じゃない。

 薄明るいが、日は差し込まない。


 ここは地底だから、木が逆さに生えている。

 空から、葉のない木が伸びている。

「変な木…」

 紅葉が回廊から空を仰ぐ。


「あれは木の枝とちゃうよ、紅葉。あれは、根っこ」

 鶴が嗤った。


 庭を見ると、空に池があった。

 空を鳥が飛ぶことはない、池の下を鯉が泳いでいるのを、更に下から眺めている。

 見上げる池の水面こそが、青い空色をしている。



 鬼屋敷は暗く広く、長い回廊や縁側は古い寺のようで、板間がギシギシ鳴った。

 鶴の周りに浮かぶ鬼火の玉が、灯りの代わりである。

 低い天井のあちこちに、蜘蛛(くも)の巣が張っていた。

 蜘蛛の巣に人面の蜘蛛が陣取っており、牙を剥いて威嚇してくる。


 そこらじゅう鬼と妖怪だらけ。

 庭の木々は独り言を漏らすし、屋敷の(ふすま)と障子は目玉だらけ。

 その目玉が一斉に動き、紅葉と神谷先生を見る。


(つる)(うえ)。人間を連れて来なさったか。おお、これは目の毒…」

 ヨダレを飲み込む鬼達。

 着ている装束の時代はバラバラ。

 大きな化け猫が着物を着て、二足歩行で歩いている。

 紅葉達が鬼と擦れ違う。


 紅葉と神谷先生はきょろきょろ、鬼屋敷を見回した。

 コマチは岩牢に連れて行かれた。

「コマチ、後で助けに来るからね…」

 紅葉がそっと呟いた。



「しばらく滞在させたげる。紅葉と先生は、鬼になるか喰われるか、好きな方を選んだらええわ。コマチはもう、私達の食事って決まってるけどね…」

 鶴が言った。


 紅葉は鬼女の言葉に引っかかった。

「私が鬼に…?」

「わかってるくせに。紅葉は元々、うちらの仲間なんやで…。夢で見たやろ? あんたは百鬼夜行で、私より後ろを歩いてた…。獅子鬼マナブと天狗を従えて…」

 鶴が冷やかした。



 紅葉は以前見た、百鬼夜行の夢を思い出した。


 紅葉に会釈した、のっぺらぼうの鬼女。

 他に、(ほこ)を持った鬼、旗を持った鬼、草履(ぞうり)を履いた透明の鬼。

 カエルの鬼や、亀の鬼がいた。

 舌の長い四足歩行の鬼、長い一角の仙人、唐傘お化け、ツクモガミ、よくわからない獣達がいた。

 最後尾近くに、鬼の金棒みたいな大太刀を振り回すマナブと、錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら歩く天狗がいた…。



「あっ、あの夢…」

 紅葉は緊張した。

 夢の中、紅葉は平安装束で、嫉妬に狂った鬼だった。

 美しい恋敵に嫉妬して、心がどろどろに黒く醜くなってしまって、自分でも苦しんでいた。

「あれは嫌な夢やった…」


 すると、鶴が言う。

「あれは本当にあったこと。紅葉、戸隠の鬼女伝説、聞いたことある? あの鬼女の名前も、紅葉と言うけど。…千年前、あんたは夫を愛する余り、夫の心を奪った相手を恨んで、呪い殺してなぁ……。鬼にならはった」


「嘘っ…」

 紅葉は即座に否定した。

「そんなことあるわけない。千年前のことなんか、今と関係ない…」

 紅葉が言い張った。


 鶴はニヤニヤ嗤った。

「そうか? 今はどう? 可愛い咲良ちゃん、クラスの男子にモテまくりで、かっこいい雨音くんにも好かれてて仲がよくて…、あんたは嫉妬してるんとちゃうの!?」


 紅葉の胸に亀裂が入り、黒い空洞が広がった。

 彼女は切ない痛みを覚えた。


「やめて…。咲良ちゃんは可愛いけど、友達やねん。嫉妬なんかしてへん…」

 否定しながら、心の中に空洞が広がっていく。

 空しく、やるせない気持ち。


「ほら、鬼になるよ。紅葉。だって、あんたはうちらの仲間。私と同じ鬼族なんやもの…」

 鶴が囁き、紅葉にべったり寄り添った。

「紅葉…。もし、咲良ちゃんが雨音くんとつきあったらどうする? あんたは目の前で、幸せそうな二人を見せつけられたら…耐えられる?」

 鶴が紅葉の肩に手をかけ、低く囁く。



 紅葉が眸を閉じた。

 睫毛が震えた。


「鬼になってしまいそう…」

 紅葉は何とか、鶴の言葉に耐え続けた。

 鶴は更に、精神的に苛めてきた。

「…知ってる? 千年前な…。雨音くんは源次って言う名前でな…、あんたの夫やってん。紅葉が源次の正妻で…、源次の心を奪った美人が、咲良ちゃん。…稚桜姫って言うねん…」


「…うっ」

 紅葉が縁側に座り込んだ。

 閉じた眸から涙が一筋、堪えきれずに零れた。


 紅葉の額に、小さな角が生えてきた…。





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