第九話「聖地への誘い」1
第一章 血の盟約
瓦礫の山と化した虹海の下層スラム、『澱河』。 その片隅、奇跡的に原形を留めていたチェン爺の屋台から、湯気が立ち昇っていた。 朝日が差し込み、漂う埃を金色に染め上げている。
簡易ベッド代わりに並べられたビールケースの上で、李 小蓮の瞼が震えた。
「……ん、んぅ……」
重い瞼を持ち上げると、朝霧に濡れた灰色の空が見えた。鼻腔をくすぐるのは、焦げた油とネギの香ばしい匂い。そして、どこか懐かしい、湿った運河の臭気。
「……気がついたか、寝坊助」
彼女が最初に見たのは、心配そうに覗き込む辰巳響の顔だった。 その瞳は充血し、泣き腫らした跡がある。 隣では、全く無傷のまま腕組みをして見守る陳 幽寂が、安堵のため息をついていた。
「じっちゃん……響ちゃん……」
シャオは、ぼんやりとした意識の中で自分の手を目の前に掲げた。 鋼鉄の爪でも、怪物の腕でもない。マメだらけの、働き者の少女の手。爪の間には小麦粉が残り、指先はあかぎれしている。 それは、紛れもない「人間」の手だった。
体内に埋め込まれていた制御ユニットや、暴走した龍の因子は、鉄鏡花の摘出手術と、チェン爺(白虎)の気功術、そして王 麗琳の青龍の浄化の力によって、奇跡的に鎮静化されていた。完全に除去されたわけではない。彼女の中には依然として「雷帝」の力が眠っている。 だが、それはもう彼女を食い破る呪いではなく、彼女が御するべき力として静かに収まっていた。
「私、怖い夢を見てた気がする……。響ちゃんを、殺そうとして……」
記憶の断片が蘇る。赤い視界。制御できない殺意。大切な友達を、この手で引き裂こうとした感触。シャオの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
「夢じゃねぇよ」
響は笑って、葱油餅を差し出した。 その手もまた、泥だらけで震えていた。
「盛大に寝坊して、盛大に暴れただけだ。……ほら、食え。腹減ったろ?」
差し出された餅からは、湯気が立っていた。シャオは、涙を拭いながらそれを受け取る。一口齧ると、口の中に広がる油とネギの味。生きている味。
「……うん、おいしい……」
「よかったですね、シャオちゃん」
「心配しましたよ」
天羽祈や白雪美流愛、双子たちも駆け寄ってくる。 瓦礫の上で、小さな歓声が上がった。 誰もが、この少女の目覚めを待っていたのだ。
歓喜の輪から少し離れた場所。 崩れかけた柱の陰に、一人の少女が立ち尽くしていた。
王 麗琳。 新生・青龍となった彼女は、その身に青い鱗の鎧を纏っていたが、今は人の姿をとっている。 だが、その表情は硬く、合わせる顔がないとでも言うように俯いていた。
シャオが、彼女に気づく。
「……リーリン?」
リーリンの肩がビクリと跳ねた。彼女はゆっくりと顔を上げ、痛々しげに眉を寄せた。
「……目が覚めたのね」
「うん。……貴女が、助けてくれたんでしょ?」
シャオの言葉に、リーリンは首を横に振った。
「違うわ。……私は、貴女を攫った張本人よ」
リーリンは、自分の両手を見つめた。
「私は貴女を傷つけ、利用し、あんな化物に変える片棒を担いだ。……殺されても文句は言えない」
彼女の声は震えていた。龍の力を得ても、犯した罪が消えるわけではない。彼女は、その罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
「……ここから出ていくわ。二度と、貴女たちの前には……」
リーリンが背を向けようとした時。
「待ってよ」
シャオが、毛布を跳ね除けて立ち上がった。 ふらつく足で、リーリンへと歩み寄る。
「行かないで、リーリン」
「……っ、近づかないで! 私は……!」
リーリンが拒絶しようとする。 だが、シャオはその手を強引に掴んだ。 温かい手。 リーリンの冷たい指先を包み込む熱。
「私、覚えてるよ。……貴女が最後に、私を受け止めてくれたこと」
培養槽から引きずり出され、空中に放り出された時。 優しく抱きとめてくれた風の感触。それは、紛れもないリーリンの腕だった。
「それに……じっちゃんから聞いた。貴女も、誰かに認められたくて、必死だったんでしょ?」
「……それは」
「私も同じだよ。……自分が何者なのかわからなくて、ずっと怖かった」
シャオは、リーリンの瞳を真っ直ぐに見つめた。 そこには、憎しみなど欠片もなかった。 あるのは、同じ痛みを知る者への、深い共感と慈愛。
「許すよ、リーリン。……だから、一緒にいてよ」
「……え?」
「私の店、壊れちゃったでしょ? これから立て直さなきゃいけないんだけど……人手が足りないの」
シャオは、悪戯っぽく笑った。
「用心棒が必要なんだ。……凄腕の、龍のお姉さんがいてくれたら、百人力なんだけどな」
「……っ」
リーリンの目から、涙が溢れた。 それは、血の涙ではない。 人間の、悔恨と感謝の涙。
「……馬鹿な子。……私なんかを……」
「うん、私バカだもん。……ね、じっちゃんもいいでしょ?」
チェン爺が、腕組みをして頷いた。
「ふん。……最強の看板娘が二人もおれば、黒鱗幇も手出しできまいよ」
「……ありがとうございます……っ、うぅ……」
リーリンは、シャオの肩に顔を埋めて泣き崩れた。シャオは、優しくその背中を撫でる。 かつては殺し合った二人が、今は瓦礫の上で抱き合っている。それは、虹海に訪れた、もう一つの奇跡だった。
日が昇りきる頃。 リコリス・バロックの面々は、久遠灯を中心に車座になっていた。 手には、チェン爺が淹れた中国茶。
「さて。……感動の再会も済んだところで、現実の話だ」
灯が切り出した。 彼女の視線は、西の空に向けられている。
「私たちは、ここに長居はできない。……H.L.O.H.の追手が、いずれここにも嗅ぎつけてくる」
「推奨ルートの再計算」
鏡花が、端末のホログラム地図を展開する。 今いるユーガリア大陸から、さらに西へ。広大な大陸を超えた先にある、宗教と歴史の地。
「人工ドラゴンのデータ解析が完了した。……ドクター・メイに技術供与を行っていた『本体』の所在が判明したぞ」
鏡花が地図上の一点を指差す。 それは、欧州の中枢。
「ヴァルチアン近郊。……『聖槍異端監察庁(H.L.O.H.)』の本拠地だ。そして、そこでは今、大規模な霊的干渉が観測されている」
「戦争の準備ね」
美流愛が呟く。
「天使の軍勢と、悪魔の軍勢。……あっちじゃ、ハルマゲドンの準備が進んでるってわけか」
「行くしかねえな」
響が、ポキポキと指を鳴らす。
「アタシらの喧嘩相手は、そこにいる。……ルシウス・クロウリーも、きっとそこに戻ってるはずだ」
「……はい」
祈が、強く杖を握りしめた。彼女の出生の秘密。天使と悪魔の混血である彼女にとって、そこは避けて通れない運命の地だ。
「行きましょう。……決着をつけに」
方針は決まった。 次なる目的地は、『聖槍異端監察庁(H.L.O.H.)』の本拠地・ヴァルチアン。聖と魔が交錯する、神々の戦場へ。
出発の時が迫る。 『鉄の馬車』のエンジンが温まっている。 新生・青龍となったリーリンは、白虎のチェン爺、そして人間に戻ったシャオと共に、このユーガリア大陸を守る守護者として生きることを宣言した。
別れ際。 リーリンは自らの指を鋭利な爪で切り裂いた。鮮血が滲む。 だが、その血は赤ではない。青く、蛍のように発光していた。彼女はそれを、響に差し出した。
「飲みなさい、響。……これは契約よ」
「ああん? 吸血鬼の真似事か?」
響が眉をひそめる。 リーリンは、真剣な眼差しで響を見つめ返した。
「違うわ。……貴女がどこへ行こうと、私の龍脈を共有するためのパスよ」
『血の交換』。
古来より伝わる、龍同士の盟約の儀式。 互いの血を取り込むことで、魂の回線を繋ぎ、距離を超えて力を共有する。
「貴女は、アシュラツリーの呪縛から解放されたとはいえ、本来の土地を失っている。……エネルギーの枯渇は、常に付きまとう問題よ」
リーリンの言葉は正しかった。タピオカによる補給はあくまで応急処置。神としての力を振るうには、やはり「土地」からのバックアップが不可欠だ。
「これを結べば、貴女はこのユーガリア大陸にいる限り、私を通じて無制限に龍脈の供給を受けられる。……私の命が尽きるまで、貴女はガス欠知らずよ」
「……へっ。太っ腹だな、二代目」
響もまた、自分の指を噛み切った。 赤い血が滴る。 彼女はリーリンの指を舐め、自分の血をリーリンの口元に寄せた。
「いいぜ。……アタシの命も、半分アンタに預ける」
泥臭い野生の儀式。 互いの血が体内に入り込み、熱となって広がる。響の身体の奥底で、新たな力が脈打ち始めた。 それは、アシュラツリーの呪縛を超えた、魂の送電線。
「ありがとな、相棒。……またな」
響が拳を突き出す。
「ええ。……次は、もっとマシな店で食事しましょう」
リーリンが、その拳に自分の拳を軽くぶつけた。
二匹の龍は、再会を誓った。 言葉は少なくても、その血の繋がりは、どんな鎖よりも固く結ばれていた。
自分が読みたい物語を書いています。
可能な限り更新できるようにしていきたいなぁと思っています。
(制作に関してAIを利用しています)




