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迷穀抄  作者: 雨森かえる
第二章 玄冥伯の行方
9/11

足跡

 翌朝、山吹やまぶきが目を覚ましたときには既に日は高く昇っていた。心の内にわだかまる暗い感情も疲れには勝てなかったようで、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 慣れない固い地面で寝たせいか、体中が痛い。昨日、双陽そうようの中を歩き回ったためだろう。宮城にいたときの三倍は軽く歩いている。とりわけ足の痛みがひどい。

 こんな調子で旅ができるのだろうかと、山吹の口から思わずため息が漏れた。


 気怠い体を地面に横たえたまま辺りを見回すとナギの姿はなかった。その代わりに、黒い焚き火の燃えかすの向こうにはくがくつろいだ様子で足を伸ばして寝そべっていた。

 白いたてがみの奥から金色の瞳を山吹にじっと向けている。口の周りがべったりと赤く染まっているのは、既に朝食をとってきたからだろう。


「目覚めたか」


 落ち葉を踏みしめる音がしてナギが茂みの影から現れた。腕には果実がいくつか載っている。山吹は慌てて起き上がり、ばつが悪そうに固い地面の上に座った。体中に痛みが走って、思わず声を上げそうになった。

 ナギに目を向けると、一晩のうちに雰囲気ががらりと変わったように感じた。何故だろうと、山吹はじっとナギを見つめる。

 髪の色だ。白銀の髪がくすんだ焦げ茶に染まっている。


「その髪はどうしたのですか」


「草の根で染めた。黒にまではならなかったが、幾分ましだろう」


 まるで他人事のように淡々と告げるナギに山吹は面食らった。確かに焦げ茶の髪は風露族ふうろぞく以外にも散見するため、白銀よりは余程目立たない。

 しかし風露族の文化では、彼らの崇める神が持つと云う白銀の髪にあやかって、髪の色は薄ければ薄いほど良しとされると聞く。真実なら、ナギの白銀の髪は最上と言っていいだろう。それを染めることにナギは躊躇ためらいを感じなかったのだろうか。

 じろじろと物珍しげに焦げ茶色に染まった髪を見る山吹に、ナギが水筒を差し出す。山吹は水筒を受け取って中の水を口に含んだ。冷たい水が、からからに渇いた喉を通って体の中に染み渡るようだ。


「うなされていた」


 ナギに言われてみたら、怖い夢を見ていたような気がする。着物が汗を吸ってじっとりと気持ちが悪い。


「沢に降りて水を浴びるといい」


 不快そうに顔をしかめた山吹の様子を見て、ナギが山の斜面の先を指した。一人で行ってこいという意味だろう。

 山吹は眉間に皺を寄せてナギを見た。


「着替え、手伝ってもらえますか」


「そうだった」


 ナギは、山吹が着物を着るのに助けがいることをすっかり失念していたらしい。

 山吹の中に忘れていた恥ずかしさが急に込み上げてくる。早く自分で着られるようになろうと、山吹は心の内で決意した。




 水浴びを済ませてさっぱりした山吹は地面に座って、ナギが手際よく荷造りする様子を眺めていた。昨日市で買った細々とした品と余分に採った果実の類を大きな布に包んでいる。


「これからどこに行くのですか」


 ナギが持ってきた果物を朝食に囓りながら山吹が訊ねた。ナギは布で包み終えた荷を駮の首に括りつける。とはいっても大した量ではないが。


石州せきしゅうに向かう。封蒙翼ふうもうよくが石州に留まっているとは限らないが、今は情報がそれしかない」


 口の中で石州と繰り返すと、ちくりと胸が痛んだ。山吹の母、荷葉は石州の生まれである。山吹自身は訪ねたことはないが、母の故郷に興味がないはずはなかった。それに、以前山吹の後見人であった荷葉の叔父が、今は石州にいると聞いている。

 微かに動いた表情から山吹の苦い感情を察してかナギは眉をひそめたが、何も言うことはなかった。

 駮の背から荷が落ちないことを確かめてから、ナギは木の枝を拾って地面に簡単な地図を描き始めた。

 双陽のある武州ぶしゅうの西隣に荊州けいしゅう、そのさらに西に魯州ろしゅう、その南北にそれぞれ石州と薛州せつしゅうを書き入れる。


「今いるのはこの辺りだ」


 ナギは枝で武州の中を指した。双陽の西に横たわる山脈の入り口辺りだろうか。


「少しでも人目を避けたい。故に街道は使えない」


 地図に目を落としたまま、ナギは武州から南西の石州へと線を延ばす。

 宮城の動きが分からない以上、警戒するのに越したことはない。誰に見られて、どこから宮城に二人の動向が伝わるか分からないのだ。

 街道や州境に置かれた州関しゅうかんを避けていくのなら、山伝いに獣道を辿るしかないだろう。それはつまり、街道沿いの宿場にすら近寄れないことを意味する。屋根のあるところで眠るのは諦めるしかない。当分の間、心細い山の中、固い地面の上で眠る生活が続くのだと思うと、山吹は気が滅入ってくる。


「でも門衛には魯州に向かうと伝えました。私たちの行き先は魯州だと思って、石州への道は警戒が手薄になるのではないでしょうか」


「そうとも限るまい。既に手形が如何物いかものと知り、門衛に告げた行き先が真実であるか疑っているだろう」


 西池門せいちもんを出た直後に郎官ろうかんが二人を追ってきた。若い門衛が二人をはっきりと指さす。郎官たちは山吹とナギが市井に身をやつして門を出ることを知っていたということか。どうして彼らは二人の動向を知ったのだろう。

 暗い表情を浮かべた山吹の顔を見ずにナギが続ける。


「今頃人相書きでも配って、警戒網を張っている」


 まるで蜘蛛が巣を張って、獲物がかかるのを待つように。

 山吹は怪訝そうに首を傾げた。


「私は鵬皇ほうおうなのですよ。逃げた鵬皇を探せと周知してしまったらまずいのではないでしょうか」


「鵬皇としてのあんたは死んだことになっている。今のあんたは小作人の萌黄もえぎだ」


 ナギの突き放すような物言いに、山吹はむっとする。


「名乗れば分かってくれるかもしれません」


「鵬皇の顔など宮城の一握りの人間しか知らないだろう。あんただったら、等しく顔の知らない相手なら、宮城とお尋ね者の小作人、どちらの言い分を信じる」


「あ・・・」


 宮城の中はよほどの高官や貴族しか入城を許可されない。例え行幸に出たとしても、御簾みすの下がった車の中にいる鵬皇が人の目に曝されることはない。行幸に出たことすらない山吹の顔を見知っているのは、宮城の外では州司しゅうのつかさ長官かみである刺史ししぐらいだろう。雲客うんきゃくと呼ばれる宮城に出入りする勅許ちょっきょを得た官吏は、地方では刺史だけなのだ。

 今は山吹が鵬皇であると証明するものが何もない。小作人にしか見えない山吹がいくら申し開きをしたところで、刺史に面会するどころか、鵬皇を名乗る狂人か何かに思われるのがおちだろう。

 禁色きんじきである深蘇芳ふかきすおうほうがあれば交渉の材料にできたかもしれない。しかし手形と交換で手放した今となっては後の祭りである。

 宮城の庇護無しでは、鵬皇の存在とはこれほど危ういものなのか。山吹は歯噛みした。


鵬尾門ほうびもんの門衛はどうなのですか」


 ナギは鵬尾門門衛と書かれた手形を持っている。山吹の如何物の手形ではなく、玄冥官げんめいかん監門府かんもんふが発行した正式な物だ。

 山吹の目に宿った期待を裏切って、ナギは頭を横に振った。


「宮城にいたあんたでも知らないような存在を、外に知っている者がいると思うか。どうせ鵬尾門門衛を名乗るぞくとでも触れ回っているだろう」


 宮城の力は正統な身分をも容易にねじ曲げられる程強いのか。圧倒的な権威の前に、山吹たちの存在自体がまるで薄氷うすらいの如く儚いものに思えてくる。あまりに無力だ。


「じゃあ封蒙翼はどうなのですか。玄冥伯げんめいはくだって知る人はほとんどいないのですよ」


 絶望に駆られた山吹が声を上げた。凪は微かに肯いて、だが、と続ける。


「それでも存在すらない物とされる私よりは知られている」


「玄冥伯も名前こそ知られていますが、それだけでは鵬皇と変わらないのではないですか。例え玄冥伯だと名乗ったとしても、信じてもらえるとは思えません」


 ナギが頼りの綱としている玄冥伯も、宮城の名の前では非力過ぎる。鵬皇と比べたら、ほとんど姿を見せない玄冥伯など、名も顔も知られていないに等しいだろう。宮中でさえそんな有様の玄冥伯が、宮城の外で知られているとは到底思えない。むしろ、玄冥伯よりも勇名を馳せた封蒙翼の方が余程なじみ深いぐらいだ。

 それに、三百五十年前の英雄が未だに生きていて、玄冥伯だと名乗ったところで、誰がそんな話を信じるというのだ。あまりに非現実的だ。

 山吹の顔に浮かんだ慢侮の色を見て取って、ナギは静かに口を開いた。


「彼の者以外に玄冥伯はあり得ない。彼の者には己自身の存在を証明するすべがある」


 名しか知られていない者が、確かにその者であるとを明らかにする方法があるというのか。山吹は難しい表情を作って腕を組み直した。

 身元を保証するはずの手形は如何物とされる。ならば印綬いんじゅの類だろうか。


「それに、彼の者が大人しく潜んでいるとは到底思えない」


 うっそりと付け加えて、ナギが珍しく苦い表情を浮かべた。

 宮城の外で何か事を起こしているだろうという意味だろうか。ならば玄冥伯の名が聞こえてこないのは何故だろう。

 山吹にとって封蒙翼はすっかり疑惑の人物である。


「もし、封蒙翼も侍中じちゅうや郎官の仲間だったらどうするのですか」


 人一人存在を隠すことなど、宮城の者にとっては造作もないはずだ。鵬皇に届いていないだけで、彼らが封蒙翼の情報を握っている可能性だってある。

 今のところ、例えかつての太祖の忠臣だったとしても、封蒙翼が信頼に足る人物であると示す根拠は何一つない。

 信じていた臣下に手酷い裏切りを受けて山吹は慎重になっている。怖れる山吹を横目に、ナギはひっそりと笑った。


「その心配はない。彼の者なら他人に泥を被せるよりも、まず自分の手を汚す」


「どういうことですか」


 意味が分からないと、山吹は眉間に皺を寄せる。


「万が一、弑逆しいぎゃくなんて大罪を犯すのなら、侍中や郎官なんぞ使わずに自分で首を取りに来る。それが、事を起こすことに対する彼の者なりの責任の負い方だ。故にあの場に彼の者が現れなかったのが、彼の者が事に与していない一番の証拠だ」


 ナギの言葉に、鵬心殿ほうしんでんへ至るきざはしの上で見た玄冥殿伯の姿が甦る。何者にも染まらないと宣言するかのような黒い袍に、他者を寄せ付けない圧倒的な威圧感。

 壁のように立ちはだかる黒い影がひらりと白刃を閃かせるのを想像して、山吹は背中に冷たい物が走るのを感じた。


「信頼しているのですね」


 ぽつりと山吹の口から零れ出た言葉にナギは薄く肯いた。

 もし、封蒙翼がナギの言葉通りの人物であれば、徒党を組みたがる侍中や郎官とは水と油のように相容れないかもしれない。


「それが彼の者の将としての器であり、名将と呼ばれる由縁でもある」


「名将・・・」


 それも、太祖の右腕とうたわれるほどの。武に優れるだけで至れる領域ではないのだ。

 封蒙翼とはどんな人物なのだろう。かつての英雄は、果たして山吹を助けてくれるのだろうか。期待しても良いのだろうか。


「その果実を食べたら出立だ」


 土の上の地図を乱暴に消すとナギはおもむろに立ち上がり、駮に頭絡とうらくを付けた。夜間、山吹が眠っている間に作ったのだろうか。

 駮が頭絡が不愉快だと目で訴えるが、ナギは気がつかない振りをする。駮はナギへの当てつけと諦めの入り交じった大きなため息を一つ落とした。

 山吹は慌てて手の中の果実を口の中に詰め込んだ。

 山吹たちが石州に封蒙翼を探して旅している間に、宮城の侍中や郎官、彼らの主もまた動いている。彼らが山吹たちを絡め取るよりも先に、一刻も早く石州に辿り着いて封蒙翼を見つけなければならないのだ。


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