後編
「で、何でカレーなのよ」
絵里は取り皿に出来立てのルーをよそりながら尋ねた。
「お供え物って団子とかが定番じゃないの?」
「ずっと気になっていたのです」
神様にもお願いしたし、おうちに帰ろうか?
お母さん、今日の夜ご飯なぁに?
カレーだよ。
やったぁ。カレー好き! お父さん早く帰ってこないかなぁ。
その単語を聞くと子供たちはいつも嬉しそうに笑い、喜ぶ。純粋な子供たちの笑顔は変わらず同じで、それを見ると心が温かくなった。
でも、どうして子供たちが喜ぶのか、それが何なのか解らなかった。そして解らぬまま、訪れる人はいなくなった。
「誰もお供えしてくれなかったもので」
男は淡々と答えた。
「そっか」
彼の寂しそうな雰囲気に、エリはお玉を取り直すとルーをもう一杯よそった。
男は目の前の大盛りのカレーをまじまじと見つめている。
「これが、かれーですか?」
「その黄色いのがカレーです」
それでも男は動かない。
「食べないの?」
「どうやって食べるのでしょう」
できたてのカレーを今にも手づかみしそうな雰囲気だ。
絵里はスプーンを手に取り食べて見せると、男は納得したように頷いた。見よう見まねでスプーンを握っているが器用にカレーを掬う。
「どう、おいしい?」
「――おいしいです」
なるほど、と男は感心したようにカレーを食べ続けていた。
「御馳走様でした。絵里さん」
何もなくなった皿を見て、お粗末様でした、と照れ隠しに頭を下げた絵里はふと気づいた。
「あれ? 名前――」
「先ほどの女学生が貴女をそう呼んでいましたので」
そこで絵里は男の名前を聞いていないことに気付いた。
「あなたの名前は?」
「名前? 私のですか?」
絵里は最期の一口を頬張ったところだったので大きく頷いた。
「名前はないです」
「今まではなんて呼ばれてたの?」
男はしばし考え込むと「神様――でしょうか」とあっさり口にした。
絵里は飲み込もうとしていたカレーを吹き出しそうになった。
「か、神様?」
「私は神などではありません」
「だよねぇ。びっくりしたぁ」
「気が付いた時にはあの場所にいました」
「――それを世間では神様って言うんじゃない?」
寂れてもあそこは神社なのだから、とエリは呟いた。
「そうでしょうか?」
真剣な表情で首を傾げる仕草がなんだか可愛らしい。
ふと見ると傾げたおかげで髪の隙間から、先が短くなっている右耳が覗いていた。絵里は立ち上がり男の左側に回り込んで、髪をそっと掻き上げた。
左耳の先は少し尖っている。
今度は男の真正面に戻り、まじまじと男を見つめた。
男も絵里を見上げている。
「あ」
エリは閃いた。
「神様って名前じゃないから、今からコノエさんって呼んでもいい?」
男は目を見開いた。
「コノエ、ですか」
「変かな?」
「――いいえ。嬉しいです」
初めて見る狐乃衛の笑顔に、絵里は顔が火照るのを自覚した。
驚くことに古文が期末テストの中で一番点数が良かった。それがお供え物のおかげなのか、徹夜でコノエに教わったおかげなのかはわからない。
テスト当日の朝、コノエにお礼を言うと「かれーのお返しです」と見惚れる程の笑顔が返ってきた。
寝不足でよく無事だったな私、と絵里は自分自身を褒めた。
あの日以来、コノエはよく家にやってくる。
名前を付けたせいか絵里以外の人間にも認識されるようになり、ことのほか両親が彼を気に入っている。
「今時の若者らしくなくていいな」
父親が感心しながら呟く。
「今時」でも「若者」でもないからね。
そんな言葉が喉元まで出かかるが、うまく説明出来ないので頷くだけにしている。
一緒に歩いているところを見られて以来、友人には彼氏だと思われているようだ。
「あんなイケメンをどこで見つけたの? ずるい!」
中でも茜はしつこく聞いてくる。
あんたもあの時居たでしょ、と言っても信じてもらえないのではぐらかすだけにしている。
当のコノエは相変わらず飄々としていて何を考えているかわからないが、寂しげな表情は少なくなったように感じる。
この心優しい神様がいつまでも幸せでいてくれたら、と願っている。と同時に、あの朝のような笑顔で「子供は何人ほしいですか?」と聞くのは止めてほしい、とも真剣に願う絵里だった。