第一話 わたしは愛されないモブ令嬢
最初は幻聴かと思った。
男爵令嬢のアンジェリカは、卒業を間近に控えた王立学園の渡り廊下で、聞き覚えのある声に足を止めた。そして庭の大きな木の向こうに婚約者の美しい金髪が、春の午後の日差しを浴びてキラキラと光りながらなびいているのが見えた。
王立学園を卒業と同時に結婚する予定のリッキーがそこにいる。リッキーはスラリと背が高く、美しい金髪と澄んだ青い瞳を持つ美丈夫だ。貴族らしい体型だから筋肉は少々足りないような気がするが、充分に魅力的。
(お母さまが亡くなる前に整えていってくださった婚約だもの。それに政略結婚でも、リッキーが相手なら不満はないわ)
早くに母を亡くしたアンジェリカにとって、リッキーは未来を託す大切な相手だ。男爵位のアンジェリカと子爵位のリッキーは爵位のバランスもとれている。婚約をした12歳のころにはバランスのとれた婚約だと思ったが、成長するにつれてそれは崩れていった。金髪碧眼と容姿が整っていて華やかなリッキーに比べて、アンジェリカはあまりに地味な見た目をしていた。茶色の髪と瞳。細すぎる体。元の肌色は白いが、アンジェリカは日焼けしやすい体質をしていて、肌色も薄っすらとくすんで見える。
地味で冴えないアンジェリカと、華やかなリッキーが並べば引き立て役にしかなれない。それでもアンジェリカは、リッキーとなら幸せになれると思っていた。
アンジェリカは弾んだ気持ちを抱え、彼の名を呼びながら近付こうとした。
「リッ……」
「アンジェリカなんかと結婚したくないよ」
だが耳慣れた声が残酷に自分を引き裂く言葉を口にしているのを聞いて、アンジェリカは足を止めた。
(リッキー? わたしなんかと結婚したくない? え?)
不意を突かれてサァァァァッと全身から血が引いていく。自分の指先が冷たくなっていくのがアンジェリカには分かった。腹の底が冷たい。思考がいったん停止して、アンジェリカは固まったようにその場から動けなくなった。
(一体なにが……わたしは何を聞いてしまったの?)
茫然とするアンジェリカを嘲笑うように、少し先の大きな木の影から、聞き覚えのある女性の声が響いた。鈴を転がすような軽やかでよく響く笑い声。
(ロジータ・ディクソン男爵令嬢っ)
「うふふ。アンジェリカさまは素敵ですけれど……リッキーさまには、似合わないかもしれませんね」
美しい婚約者の向かいには、ピンク色の髪と瞳をもった可愛らしい令嬢がいた。
小さな笑い声が、アンジェリカを内側からグシャリと握りつぶすかのように響いている。ロジータは美しい。男爵令嬢としてわきまえているから、上位貴族と気安く接したりもしない。だがアンジェリカにとって、ロジータは気に障る女だ。
(わたしのリッキーを取らないで!)
そう思いながらも、アンジェリカは踵を返して渡り廊下の太い柱の影に隠れた。アンジェリカとリッキーには長年の絆がある。それに婚約者だ。権利を主張したってかまわないはずだとアンジェリカは思った。
(リッキー……幼馴染であり、わたしの婚約者なのに。あなたは何故わたしではなくロジータにそんな視線を向けるの?)
思い出を思い返して、アンジェリカは胸を痛めた。
『アンジェリカ。僕は君のことが好きだよ』
『君と一緒にいられて楽しい』
『ふたりで食べるお菓子は最高だね』
『アンジェリカのお爺さまのお家は大きいね』
『いいなぁ、アンジェリカは。お爺さまがなんでも買ってくれて』
『僕の分まで買って貰っちゃった。アンジェリカと一緒にいると僕も得出来るね』
幼いころはアンジェリカと一緒に笑っていたリッキーが、今はアンジェリカのことを嘲笑っている。アンジェリカは幼少時のリッキーの言葉を無邪気に受け止めていたが、冷静になれば彼の本質に気付けたはずだ。もともとリッキーは自分の利益になることしか考えていない。
「はぁ~。アンジェリカは美しい僕の相手としては、地味すぎるよ。あんな地味な令嬢の夫になるには、僕は美しく成長しすぎてしまった。ねぇ、ロジータ。僕の婚約者が君だったらよかったのに」
「ふふふ。わたくしもそう思いますわ、リッキーさま」
リッキーがロジータに気持ちを向けていることは明白だ。同じ男爵令嬢なら、爵位のバランスもとれる。それならば地味なアンジェリカよりも、華やかな見た目のロジータのほうが自分にはふさわしいと、リッキーは考えたのだろう。
「貴族の結婚に愛は不要というが、僕は愛する人と共に人生を歩きたい。だけど僕にはアンジェリカを愛するのは無理だ」
「まぁ、リッキーさま。お可哀そうに」
リッキーとロジータが悲劇のカップルを演じ始めた頃には、アンジェリカの思考も再び回り始めていた。なにより心は正直だ。
(わたしも愛してくれない相手との結婚は無理だわ)
隠れていた柱の影からそっと出たアンジェリカはひとり、帰宅のために馬車へと向かった。馬車の小さな小窓の外を流れていく見慣れた景色。王立学園を卒業するのと同時に通ることはなくなる道の景色をアンジェリカは眺める。不思議と涙は出なかった。
(わたしは地味な見た目をしているけれど……それと愛されないことは同じことじゃない。政略結婚として割り切るだけなら、子爵位であるリッキーを相手に選ぶ必要はなかった。)
アンジェリカはリッキーとの別れを覚悟した。そしていずれくるであろうと思っていたリッキーからの婚約解消の申し出は、アンジェリカの予想よりも早く、王立学園の卒業式典の前に届いた。アンジェリカは父に書斎へと呼び出されて確認された。
「本当にこのまま婚約解消に応じてしまっていいのかい?」
アンジェリカの父は、気づかわしげな様子で可愛い末の娘に確認した。アンジェリカには姉もいるし兄もいる。だから政略結婚を結ぶための手駒にも、跡取りにも困ってはいない。
「はい。リッキーの……いえ、リッキーさまの希望に応じてあげてください」
アンジェリカは静かに、けれどキッパリと答えた。彼女にとっても、愛のない生活は無意味なのだ。
(亡くなる間際のお母さまと約束した通り、わたしは幸せになるの)
王立学園の卒業式典の時期は、すぐそこまで迫っていた。貴族令嬢はエスコートなしにはパーティへ出席したりはしないものだ。しかし卒業式典ならひとりでも許される。
(笑いものになるくらいなら構わないわ。卒業式典でかいた恥くらいであれば、夜会でいくらでも取り戻せる)
アンジェリカは冷静に事態を受け止めていた。だが将来のアンジェリカが幸せになる方法についての答えは、いまだ見えずにいた。




