3-17.白髪の青年の物語 結(1)
―――あれから、どれだけの時間が経っただろう。
空はもう薄暗い。世界は夕刻を越して夜になろうとしている。結界を囲うように篝火が焚かれ始めた。
僕はあれから一歩も動いていない。ただ封印の膜の外側に座り、内側を眺め続けている。
途中、色んなひとが僕の隣を行き交っていった。イオやワンクスも、僕の隣にやってきて何かしら声をかけてきてくれた気がする。
でも、どんな話をしたか覚えがない。とにかく今は放っておいて欲しかった。何かを考えたいわけでも、何かを見つけたいわけでもないけれど、今はただこの場で1人になりたかった。
……僕の隣にいたひとが、何人も僕を通り過ぎていく。イオは封印の膜を叩いて、誰かを呼んでいたような気がするけど、膜の内側に動きはなかった。
空が完全に夜の色になった。なけなしの理性が、腹が減ったから何か食べようと言ってくる。でもそんなことする気も起こらない。
膜は外へも中へも干渉が出来ないようだった。中に閉じ込められているひと達は封印が解かれない限り食事を摂ることが出来ない。
そして封印が解かれるはずもない。つまりは逃れられぬ死がそこにある。自刃した兵士も、それを嫌ってのことだろう。
そもそも空気はどうなんだろうか? 空気も膜によって遮られているのなら中の空気はどんどん汚れていく。餓死よりも先に死んでしまうだろう。
だけど膜を通して声は聞こえてくる。ということは空気だけは行き来しているんだろうか? よく分からない。
今、膜の中を覗くと銀狼の巨躯と、倒れ伏しているスメルの姿しか見えない、他の兵士たちは皆1人、また1人と倒れ光の粒となって消えた。餓えや空気以外にも、意味不明な作用が働いているんだろう。
スメルはまだ生きているんだと思う。だけどさっきからぴくりとも動かない。彼もいつか光となって消えてしまうのだろうか。
「………」
半透明の膜は篝火の炎をゆらゆらと照らし返す。僕はいったい何をしているんだろう? 分からない。
だけど、ここにいると落ち着く気がする———いや、それは嘘だ。ここにいないといけない気がしていた。だから僕はここにいる。
それがどうしてかは分からない―――いや、それも嘘だった。今まで分からないと思い込んでいた。
だけど、多分―――そうだ。目の前に現れたひとを、僕は求めていたんだろうと思う。
「…ルイナ」
膜を挟んで向こう側、狼の影にずっと隠れていた彼女がすぐ目の前に立っていた。
「………」
―――あぁ、何を話せばいい。よく分からない。
話すことで、今度は何を失うだろう? 分からない。
だけど、僕の本心は彼女と話したいと思っていた。
「大変なことになっちゃったね」
「………」
第一声。声に出して初めて分かった。
僕はまだ現実を受け止めきれていない。
「ごめん、不愉快な言い方だったよね。でも本当に、僕もまだ全部を受け止めきれていないみたいなんだ」
「………」
「どうしてこうなっちゃったんだろうね……僕さ、もう誰も失いたくないって、結構頑張ってたと思うんだ。でも、ダメだった。理解が及ばないところの話がちょっと多すぎだよ。まだ、すごい、混乱しちゃってる」
「………」
「こう言っちゃなんだけど、僕もそれなりに強いって思ってたんだ。スキルを使えるし、身近な誰かを守れるくらいはできるって。でも全然ダメだった。スメルもそこの狼も、あのアーセンってひとも強すぎてさ、君を守ることなんて」
「私を———」
つらつらと、出てくるままに言葉を口にしていると膜の向こうから声が聞こえてくる。
「私を、恨んではないのですか?」
「………」
恨む―――そうだ、ルイナだ。ルイナは魔王で、あの“暮れの災厄”を引き起こした張本人。
僕が家族を―――大切なひと達を亡くした原因は、ルイナだった。
ルイナが、コレット達を殺した。
ルイナが、コレットを殺した。
———ああ、なるほど。そうだったのか。
やっと分かった。自分がさっきからずっと後悔していたことを。
そして、何に後悔していたかを。
「恨んでないよ」
僕はそう答える。膜の向こうの表情は変わらない。
「君が魔王なわけがない。君が“暮れの災厄”を起こすわけがない。僕はそう信じている」
「っ…」
膜の向こうの表情が苦し気に歪む。それがどんな感情から来ているのか明確には分からないけれど、きっと彼女ならそんな顔をするだろうなと思っていた。
「そんな風に思っているのは、ジャックさんだけです…」
「ルイナは? 君も自分が魔王だって思っているの?」
「それは―――」
ルイナは後ろを振り返る。そこには何も語らず、ただ伏せて視線をこちらに寄こしている狼の姿があった。
「あぁ、確かにあんなのが近くにいたら疑わしくもなるよね」
「………」
「実はさ、僕、あの狼とは何回か会っているんだ」
「えっ…」
ルイナが驚きの声を上げるのと同時に、殺気が僕を襲う。
狼が四足で立つ。真っ直ぐに僕を睨みつけている。
「―――やっぱり怖いね。でも、もうどうだっていい。僕はやりたいようにやる。僕の知る限りを、ルイナに伝えたい」
半分はルイナに向けて、半分は狼に向けて発した言葉。向こう側で、狼は喉を鳴らして呻く。やがて諦めたように再び伏せた。
「ルイナ。僕が君と初めて出会った時、君はあの狼の背に乗っていたんだよ」
「え―――」
そうして全部語った。僕が知り得た情報を、全て。
君が恐らくヒト族じゃなくて、何か異種族とヒト族の間の子、異端だってこと。
君が記憶を取り戻すことをよしとしない者がいること。
君の記憶を取り戻させないように、狼が物理的な介入をちらつかせていたこと。
気配を感じさせなかったり、逆に鋭敏に気配を感じ取っていたところとかから、君がただものじゃないと前々から思っていたこと。
その全てを、語って聞かせた。
「………」
聞き終えたルイナは、何かに耐えるように唇を噛み締めていた。
今度はルイナが今何を考えているのか分かった。
「ルイナ。君が考えていること、それは残念だけど不正解だよ」
「え……」
「僕は狼に言われたから君を嫌々守っていたわけじゃない。そんなことは、考えて欲しくなかったな」
「じゃあ―――」
「勿論、君が怖かったからでもない。君の正体を暴いて世に曝す為でもない」
「………」
ルイナの表情に、戸惑いが生じる。僕は堪えきれなくなって息を吐く。
「……ルイナ、答えはもっと簡単なものだったんだよ」
空を見上げる。いつか2人で見上げた時と同じ星空で、でも僕の口からは後悔しか生まれなかった。
「―――僕は君を救いたかった。ただそれだけだったんだ」
「………」
「僕は君に救われた。君は僕に救われたと言ってくれたけど、僕の方がもっと多く救われていたんだ。だから、そう。多分僕はこの言葉を君に返したくてここに残ったんだ」
「………」
「ルイナ。君に救われた分、僕も君を救いたかった———たとえ世界が君を悪者にしようとも、たとえそれで僕が死ぬことになっても」
「ジャックさん…」
「僕はっ!」
結界に手を叩きつける。硬い。僕と彼女を隔てるものは、こんなにも異質で強大なものだった。
「僕は君の傍にいたかった! 傷つけられていく君を見ていただけだったのを、今、すごく後悔している…!」
「ジャックさん…」
「君は悪くない…! 君は絶対悪くない! あの時その一言も言えなかった、一歩も足を踏み出すこともできなかった、僕は君を———信じてあげられていなかった…!」
———悔しい。
「悔しい…悔しいんだ、僕は———君を救いたいと、思っていたのに…」
「違います、ジャックさん」
違わない。僕は首を振る。
この結末を回避できる方法はあったはずなんだ。
僕がもっと信じてあげられていれば。僕がもっと強ければ。
何にも動じず、何にも劣らぬ力を持ってさえいれば!
瞳が地面を映す。そこはかすかに濡れていた———僕は、泣いているのか。
ああ———力が欲しいと、切に願った。
一介の冒険者風情が持てる力ではなく、世界のあらゆる危難を乗り越えられるほどの力が。
救いたい相手を襲うものがどれほど強大であっても、どれほど困難な問題であろうと。
全てを叩きのめせるほどの力が欲しい。
今の僕は、こんなにも無力だから———
「聞いてください。ジャックさん」
凛とした声。僕はルイナの顔を見上げられないまま、それを聞く。
「ジャックさん。私はきっと、許されない罪を犯したんだと思います。その中には多分、あなたの大切なひとを手にかけたものも含まれているんだと思います」
違う! と僕は叫んだ。だけど、ルイナは静かに言葉を続ける。
「これは罰なんです。私はそれを受け入れます。今から殺されるまで、この狭い結界の中が私の在り処なんだと受け入れました———受け入れた、つもりでした」
はっ、と顔を上げた。その声は震えていた。
ルイナは、膜の向こうで、涙をこらえていた。
「泣かないようにしようと思っていました、これは私が犯した罪なんだから。
抗おうなんて考えないようにしていました、これは当たり前の罰なんだから。
受け入れられたつもりでした、全部……そう、全部を」
震えていた。こちら側に伸ばし、膜に阻まれた手のひらが、指の先から震えていた。
「ジャックさん———ジャックさん達には、出来ればどこかへ行って欲しかった。私のことなんか忘れて。恨んでもらっても構いません、それは当然のことなのだから。だから、どこかへ、行ってくださいって、思って……」
「ルイナ…」
「でも―――っ」
こらえていた涙が、大粒となって頬を伝う。
「そう、考えていたけど、っ……そんなこと、言われたら、私―――っ、嫌だ、嫌だよ、ジャックさん…! 私、こんな、なんて……っ!」
「ルイナ!」
膜の向こうで膝から崩れ落ちる。息を引きつらせ、自身を抱き目を背け、それでも語る。
「私―――嬉しかった。こんなことになっても、私なんかを信じるなんて言ってもらえて…ごめんなさい、私、っ、ジャックさんに、信じてもらえて———嬉しかった…」
「ルイナ……」
「―――ジャック、さん…」
ルイナが顔を上げる。銀の髪がひと房、はらりと彼女の頬にかかる。
恐ろしかった。深紅の双眸が涙に濡れ、夜の篝火に浮かんだ顔は、世界が止まってしまうほどに綺麗だった。
膜を挟んで僕らは手を重ね合わせる。時は、僕とルイナの間にだけ流れる。
「我が儘を言っても、いいんですか…?」
「……うん」
「莫迦げた願いでも、怒らないで聞いてくれますか…?」
「うん」
「だったら、お願いです、ジャックさん……私を、独りにしないで…」
「…うん」
「目の前からいなくならないで…、私を置いていかないで…」
「うん」
「そばにいて。私が殺される———死ぬその時まで、そばにいて欲しい…」
「うん」
「……あなたが、好き…」
「僕もだよ、ルイナ」
自然と言葉が紡がれた。のぼせたような顔をしたルイナが、独り言のように呟いたそれを僕は聞き逃さなかった。
ルイナははじめ、驚いたように目を見開いた。だけど見る見るうちに色んな表情を浮かべ始めた。
戸惑った顔、切ない顔、怒った顔―――そして最後に、悲しい顔。
「ごめん、なさい……嘘です、私、変なこと……」
「変じゃないよ」
「でも、ジャックさんは…私は……」
言葉を失っていくように声が尻すぼみになっていく。僕はそれを、首を振って否定した。
「ルイナ。僕は君の傍に居続ける。たとえ世界が君を悪者だといっても、たとえ世界を敵に回しても、僕は君の味方であり続ける」
「ジャック、さん……どうして…」
「僕は君に嘘をつかない。だから今、今だけは君も嘘をつかないで欲しい」
「………」
「ルイナ、君にも叶えてほしい。僕の願いを。もう、僕から離れようとしないで。ずっと傍にいてほしい。僕は、君と一緒に生きていきたんだ」
「っ…ぅっ、ひぅっ……うぅぅ……っ!」
涙があふれ、言葉が出てこない。そんなルイナの様子を見るのは二度目だった。
今度も、僕はルイナが落ち着くのを待った。
ようやく嗚咽が治っても、涙は止まらなかった。
「―――ルイナ、返事を聞いてもいいかな?」
「っ…! はいっ、ずっと、一緒にいたいです…!」
そう答えてくれたルイナの顔は笑みだった。だけどちょっと切なく、苦い笑み。
「ありがとう…ルイナ」
僕も応える。心の一点に晴れやかさが灯るも、空虚さが僕の笑顔も歪ませる。
ああ、でもそれは……仕方がないことなんだろう。僕たちの多くがあの時から大きく変わってしまった。
涙に濡れた目尻をぬぐってあげることも、震える手のひらを握ってあげることも、つらい運命を背負わされたその身を抱きしめることもできない。
僕は無力だ。その事実は変わらない。
これさえ無ければ———ルイナと僕の手のひらを隔てる結界。
これさえ無くなればいいのに、と僕は願った。




