3-7.白髪の青年の物語 承(2)
「ルイナ」
「……っ」
森の中、木の天井が僅かに開けた草原で、岩の影に隠れる後ろ姿が見える。僕はその銀色の髪に向かって呼びかける。
「じゃ、ジャックさん…ですか…? あと……イオさん?」
彼女は震えながら、恐怖をにじませた表情で振り返る。何に怯えているのか、僕たちの顔を見つけた後も忙しなくあたりを見回す。
「…? どうしたの、ルイナ? そんなに怯えて」
「っ……いえ、その―――さっきからずっと、凄く大きな何かに追いかけられている気がして…もう、すぐそこまで何かが来ているはずなんです…」
「………」
彼女の言葉を、どう受け止めればいいんだろうか。
その怯えようと言葉から察するに、きっと彼女が察知したのはあの狼なんだろうと思う。けれど狼は足音を立てず走っていた。常識で考えれば、彼女が遠くから彼の存在を知ることは不可能だ。
―――やっぱり、彼女は普通ではないということだ。扉一枚隔てて気配を察知できないのも含めて、何か彼女にはあるんだろう。ワンクスの不安の原因は、こういう違和感にもあるんだと思う。
けれど、僕はそれも含めてルイナと向き合う為にここに来た。怯えるルイナに一歩近寄り、努めて平静に答える。
「大丈夫だよ、ルイナ。その足音っていうのはきっと君を―――」
瞬間、言葉が詰まる。猛烈な殺気を背中に感じて舌の根が強張る。
「……ジャックさん?」
「っ―――う、ううん。ごめん、なんでもないんだ」
慌てて誤魔化す。すると背中の悪寒が和らいでいく。
忘れていた。半年前、自分の存在をルイナへ決して知らせないようにと狼から言われていたんだった。
……いや、忘れていた僕が悪いんだけど、本気で殺されるかと思った。注意しよう……
「―――ルイナ。ここに来たのは僕とイオだけ、他には誰もいやしないよ。それにもし何か怖いものが来ても、僕たちが君を守ってあげられる。だから安心して?」
「は、はい……ありがとう、ございます…」
ルイナは一瞬微笑みかけて、尻すぼみに声音を暗くして俯いていく。
きっと、気まずさを感じてくれているんだと思う。その表情から、僕に対しての不信感や嫌悪感は感じられない。
イオを振り返る。無言でうなずいてくれる。
―――向き合おう、今、ルイナと。その想いが、僕に一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。
「……ルイナ」
「怒って、いますよね…?」
声をかける。と同時に、ルイナから震える声音で問われる。
「ルイナは、僕が怒っていると思っているの?」
「…思って、います。私は、ジャックさん達を裏切ってしまったんですから……」
「裏切る?」
「だってそうじゃないですか…!」
予想外の言葉が出てきて思わず聞き返してしまう。すると、返ってきたのは昂った感情の吐露だった。
「私、あんなに良くして頂いたのに……ジャックさんを傷つけてしまっていた…!」
「…それは、僕の問題だって言ったよね?」
「それでもっ! 私は、嫌だった…! 誰かを傷つけることは、もう、嫌だった!」
「………」
ルイナは僕に語りながら、それでも僕以外の何かに抗っているように見えた。
―――それはもしかしたら僕の知らない、彼女の記憶に関係することなのかもしれない。
「今朝、ジャックさんとお話していて、つらかった……私は、もうあの村にいたくない! 私がいることで誰かが不幸になるのなら、私なんていなくなってしまえばいい! だからっ、私はっ……別れと、ごめんなさいを伝えたくて……」
「………」
ルイナの話を聞いて、今更に思う。
今朝の話、どこか噛み合っていないような気がしていたんだ。それは彼女が別れを覚悟していたからだったんだろう。
「ジャックさん、つらいんです…っ! 私と話す度につらそうにするあなたを見るのがつらい…! 普通に笑ってくれるあなたを、背中でしか感じられないのが、つらい…っ! 私は、私が踏みにじっているものをこんな柱越しに感じるしか出来ないのかって、つらくて、つらくて……!」
「………」
「あなたは、私と向き合うって、言ってくれました。でも、その度につらいのは私も一緒なんです…! 私は、誰かに笑って欲しくて! あなたにも笑って欲しくて! それが出来ないのが、私は嫌だった!」
「………」
「……。だから、そんな、身勝手な理由なんです。私はただそれだけの理由で、ジャックさんの覚悟も、イオさんから受けた恩も、全部裏切って逃げたんです。他人を傷つけるのは、もういやなんです! だから―――っ…!」
ルイナは一度も視線を僕と合わせない。そのまま両手を突き出し、僕を押しのける。
「……っ、行ってください。私のこと、もう放っておいてください…!」
「……そっか…」
「……っ、……っ!」
突き出される両の手のひら―――これが、ルイナの本心か……
「……うん、分かったよ」
だから僕は、それを包み込むように優しく握った。
「……!」
「―――ルイナ。ごめん、そんなに追い詰めてしまっていたことを、僕は気づけなかった。本当にごめん」
「……っ、離してください! いやっ! もう行ってくださいっ!」
「行かない。離さないよ―――君が震えている限り」
「……!」
僕の手のひらに収まった後も、ルイナの手はずっと震え続けていた。
「……怖かったよね。ごめん、こんな森の中で1人きりにさせて。帰ることも出来なくて、きっとすごく怖かったと思う。だけど安心してほしい、僕が君を守るから」
「…っ」
震えが止まってくれるよう、願いながら手のひらをぎゅっと握り締める。
「あと、つらい思いをさせてごめん。僕は自分の問題だって言っていたけど、ルイナは僕以上に僕のことを思っていてくれていたんだと思う。その優しさに気づけなくて、ルイナにつらさを押し付けてしまった。本当にごめん」
「…そんなこと、ないです…っ。私……」
ふるふると、首が振られる。それを、僕も振り返して否定する。
「ルイナ―――君は本当に、僕が今まで出会ってきたひとの中で一番優しい心の持ち主だ。その優しさに、もう一度つけ込もうとする僕の我がままを、どうか耳を塞がずに聞いて欲しい」
「………」
ルイナの瞳が、僅かに上を向く。真紅の双眸が、薄く涙に濡れている。
「もう一度一緒に、やり直しさせて下さい。僕は、ルイナがいなくなると困るみたいです。だから戻ってきて欲しい、僕たちと一緒に」
「……っ、うっ、うぅっ、うぅぅ…っ!」
嗚咽が漏れる。僕はルイナの手を握りしめたまま、落ち着くのを待とうと思った。
「―――ルイナ、わたしからもお願い。もう誰かを失うのは嫌なの。戻ってきて…」
切なく揺れるルイナの肩を、イオが優しく抱きしめる。
「ぅっ…うぅっ…はい……はい…! 帰りたい、です…! 本当、はっ…一緒、に…!」
その後の声は言葉にならず。しばらくこれは収まらなさそうだと思って、僕はもう1つ、言い忘れていたことを言おうと思った。
「あと、ルイナ。多分だけどもう、僕の問題は解決しているんだと思う」
「……っ、うぇっ…?」
「その、多分だけどね。だから、ルイナには何も気にせず笑って欲しいなって思ってるんだ」
「……ほんとうに?」
頷く。
「嘘じゃ、ない…?」
頷く。
「うぅっ…それならそうと、早く言ってください…っ!」
「ごめんごめん」
僕は笑った。ルイナも泣きながら、少しだけ笑ってくれた。
やっぱり、コレットの顔はちらつかなかった。涙に濡れたルイナの笑顔は、ちょっと驚くくらいに綺麗だった。




