1-17.英雄譚の序幕
暗い暗い底の底。崩れた大地の奥底にアリスはいた。
自身を押しつぶしてくる大量の土砂、岩石、木々、瓦礫。呼吸すらままならない圧迫感の中、それでもアリスは生きていた。
彼女は最強。彼女へ覆いかぶさるのがたとえ巨石であろうと山であろうと死ぬことはない。
空腹感も喉の渇きも覚えるが、生きる為に食事も水も摂る必要はない。彼女が生きるに必要な栄養は魔素のみであり、彼女が内包している果てしない量の魔素は寿命が尽きるまで潰えることはない。
彼女は最強。故に、この程度では死ねない。
「………」
アリスは動かない。何ら、心も動かない。
とうに全て枯れ果てた。彼女にはもう何もない。暗く閉ざされた世界の中で、彼女はただ存在しているだけ。
唯一、右手に握る誰かの手の、冷たい感触だけが、彼女へ感情を取り戻させようとしている。
「……、……」
彼女は何事か呟く。しかし、それは言語化されない呟き。彼女自身も、何を呟いているのか、分かっていない。
ただ、ずっと呟き続ける。その声を聞く者は誰もいない。
「……、……」
呟くアリスの目の前を、漂うものがある。きらきらと、粒子を零しながら漂うそれは、緑色の糸であった。
糸は地上への道を指し示す。地上へ至る為にどかさなければならない岩石、進むべき方向、至る為の手順を示している。その糸を辿れば、彼女は救われる。
ただ、その糸に従う意思がない。そもそも彼女の瞳は、どこまでも色が無く暗い世界しか映していない。
漂う糸と従わぬ彼女。その関係はいつまでも続くものかと思われた。
しかし、糸はやがてその在り方を変える。ふわふわと宙を漂っていたものがやがて張りつめ、天より彼女を吊るす形へ。
胸から伸びていた糸は根本より解かれ、両手と両足を縛り、彼女を繰る。身を起こさせ、腕を薙ぎ払わせる。
刹那、積もり重なった土砂も岩石も消し飛ぶ。彼女が一歩を歩む度に、腕を一振りする度に、奈落の底より地上に向けて質量が押し上げられていく。
彼女は最強。どんな敵であろうと、どんな状況であろうと、その身一つで押しのけることが出来る。
やがて、その身が地上へ抜け出た。最後に振り払った瓦礫は粉微塵に砕かれ、風に舞ってどこへか飛んでいく。
空には月が浮かんでいる。地上は雲一つない、快晴の夜であった。
「……、……」
地上へ出るといつの間にか緑の糸は消えていた。アリスの身体へ自由が戻ってくる。
しかし、それでも彼女は動かない。
心がないのである。もはや、そこに立っているのは血を吸われた吸血鬼たちと同じ。中身を失った、躯同然であった。
「……、……」
彼女はずっと、呟き続ける。言語化されない、小さな言葉を。
「……、……」
呟く。
「……、……」
呟く。
「……、……」
呟き続ける。
いつしか東の空が白み始める。そうして陽が昇り、世界が目覚める。
アリスの視界にも、陽光が差した。つられて僅かに、瞳に光が灯る。
彼女の視線が、生気ないままに右手へ移る。そこに握られていたのは、誰かの右腕だけ。そこから先は、千切れて無い。
「…………」
呟きが止まった。彼女の口が息を呑む。
自身が握る、誰かの右腕。それをアリスは、悲しく抱いた。
「――――なさい」
何かが、胸から溢れてくる。
「……ごめんなさい……ごめんなさい…、ごめんなさい…、ごめんなさい―――」
その呟きは誰の耳にも届かない。
胸に抱かれた片腕は、やがて陽の光に曝されて灰となって散った。
それでも彼女はずっと謝り続けた。許しは、永遠に与えられない。
やがて、長く止まない雨が降り始める。
雨は全てを洗い流す。土砂も、血も、思い出も―――銀髪の少女は雨に打たれながら微睡に落ちていく。
泥のように深く眠った。彼女を起こす者は誰もいない。
深く深く眠ったその先で、少女は幸せな夢を見る。
それは父と母より普通に愛され、普通に生きる少女の夢であった―――
―――それは幸せな記憶、夢の残滓……
『―――起きなさい』
『ん、んん……』
身体を揺さぶられる。
優しい肌触りのシーツに包まれて、幸せな気持ちに包まれて。
私はゆさゆさと肩を揺すられ、微睡から起こされようとしていた。
『起きなさい、朝ですよ』
『んぅ……もうちょっと―――』
それでもゆさゆさと揺すられるのが心地よくて、ついつい開けたばかりの目を閉じてしまう。
『もう、ルイナったら―――陽はもうこんなに高く昇っているのよ。いい加減起きなさい』
ルイナ―――ルイナって、誰の事だっけ?
それに、優しく笑いかけてくれるこの人は、誰だっけ?
……ああ、そっか。
『んー……ルイナ、まだ眠たいよぅ……』
私はルイナで。
この人は、私のお母さんだ。
『ん~……お母さん、朝ごはんはなーにー?』
『んー? ポト芋のスープと白パンよ』
『んー……だったら起きるー!』
私はシーツを蹴飛ばして、飛び起きた。
そのまま居間へ駆け込もうとすると、後ろから抱き上げられる。
『もう、この子ったら……まず朝ごはんの前に顔を洗ってきなさい』
『ちぇっ、はぁ~い』
仕方なしにスープと白パンは後に回して、私は庭先の井戸にまわって顔を洗う。
桶に溜まった水を覗きながら、目と鼻と頬をごしごしと洗う。
『ん~、前髪切りたいなぁ…』
そうして唇の先くらいまで伸びてきた髪を指ですくって、ふぅと吹いてみる。
鬱陶しいけど、お母さんもお父さんも短く切ってくれない。黙って自分で切っちゃおうかとも思ったけれど、やっぱりやめとく。
切るなら、お母さんに可愛く切ってもらいたいなぁ。
『お母さ~ん! ルイナの髪切って~!』
そうして台所に行って、お母さんにねだってみる。だけど、お母さんは困り顔になっちゃった。
『んー……そうね。ルイナ、あなたも今年で6歳になるわ。そろそろあなたに、話してあげないとね』
『……ん~?』
なんだか難しい顔をされちゃった。なんでだろう? 難しいお話なのかな?
『―――ふふ。そんなに心配そうな顔しないで、ルイナ。大丈夫、あなたには、おかあ……私がついているから』
『……? うんっ!』
お母さんの言っていることはよく分からなかったけど。
私は元気よく頷けた。
だって、ここにはお母さんがいる。
私を優しく抱きしめてくれる、大好 きナお母さんがいテくれる。
怖い、怖い、夢のこトなんて忘れテ。
幸せニ、なレばいい。
私は、幸せなんダ。
ルイナは今、幸セなんダ。
ルイナは、ルイナでイればいイんダ―――
―――、ダカラ………
―――暗転。転回。明転。“私”が見た夢は、そこで終わる。
世界に陽は昇る。そして沈む。
それは日々繰り返される当たり前の出来事。何があっても、いつか必ず陽は昇る。
長く降り続いた雨が止み、久方ぶりに陽が地上を照らした日のこと。
壊れた大地に眠る少女を、気高い銀狼が拾った。
狼は少女を背に乗せ、大地を駆ける。やがてヒト族の青年に出会い、少女を託した。
「ねえ、君。名前は? どこから来たの? ご家族は?」
青年に問われた少女は答えない。心を壊した少女の耳には、何も届かない。
「―――ル、イナ……」
だが、やがて1つだけぽつりと言葉を発した。それ以来、それは少女の名となった。
これは運命の日に全てを手に入れ、全てを失った少女の物語である。




