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【書籍化】意味がわかると怖いお話・解説付き  作者: 絢郷水沙


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一匹の蚊と出会って、私は変わることを決意した。

※意味怖ではないです。

 それはどこからともなく現れた。

 窓もドアも締め切っているはずなのに、いつの間にか部屋にいたそれは――


 “一匹の蚊”


 ――だった。

 どこにいるのかわからない。

 ただ、どこからともなく羽音(はおと)が響いて、うるさくて仕方がなかった。

 一人暮らしの部屋には、その音だけで騒音なのだ。

 手で払っても、いつの間にか奴は近づいていた。


 だから私は考えた。

 あえて何もしないことにして、近づいてきたところで……。



 蚊はまた近づいてきて、私の服の左胸にくっついた。

 だから私はたたいたのだ。自らの左胸を。 

 そして、ポトリと足元に落ちたそれを。

 私は、近くにあったティッシュの端をちぎって、包んで捨てた。


 ゴミ箱へぽいっと投げ入れた。


 だがそれはあまりにも軽かったからか、あとちょっとのところで届かなかった。

 床に落ちたそれを――。

「…………」

 しかし私は、そのままにしたのだった。



 その日の夜だった。私はあの甲高い不快な音で目を覚ました。蒸し暑い夏の夜。


 明かりをつけて、ゴミ箱のところへ行って確かめた。そしたらどうだ。

「やっぱり……」

 そこにいるはずのそれは、いなくなっていた。


 こんな話を聞いたことがある。

 蚊は軽くたたいただけでは気絶するだけで、死んでいるのではないのだと。

 本当に殺したいのなら、つ(・)ぶ(・)さ(・)な(・)け(・)れ(・)ば(・)な(・)ら(・)な(・)い(・)、と。

 殺せていなかったのだ。

 ――殺したと思っていたのに。


 このあともあの羽音は続くだろう。

 しかしながらその時の私は、もうその蚊を殺す気が微塵もわかなかった。さらに不思議なことに、嫌な気分にもならなかった。


 それは暑さと眠気がそうさせているのか。

 それとも、もう一度命を奪うことに対して罪悪感でも抱いたのだろうか……?


 たかが一匹の蚊に対して。



         ◇◆◇



 朝はすぐやってきて、夜は瞬く間になくなった。

 仕事は激務だった。

 決められた時間では到底こなせない量の仕事を任せれられ、できなければ残業してでも終わらせろと圧をかけられ、さもそれが当たり前だというように周りのみんなも動いていた。できない方がダメなやつなんだと。

 暗に言われているような気がしていた。


 私には耐え難かった。

 だけど、この仕事をやめて次どうなるのか。

 新しい仕事は見つかるのか。見つけたとしてここよりもいいところなのか。

 仕事ができないのは、ただ私の能力が低いだけなのではないか。皆が頑張っている中、一人抜け出していいのか。

 いろんな不安が、脳裏に蔓延(はびこ)っていた。


 そしていつも通り真夜中に帰宅。

 玄関のドアを開けた。


「…………」


 しかし、そこは一人暮らしの寂しい部屋。呼びかけてくれる家族もいなければ、ペットでさえもいなかった。


 疲れが溜まった体は重く、倒れこむように布団に寝そべった。そのとき――あの音は、聞こえてきた。


 “蚊(か)の羽音(はおと)”


 それを聞いた時、私は思ったのだ。

 ああ、あいつはまだこの部屋にいたんだ、と。

 こんなこと言えば変に思われるかもしれない。でも思ってしまったのだ。

 一匹の蚊(あいつ)がこの部屋で待っていたということ。それがちょっとだけ嬉しかったのだ。



 その日から私とそいつの奇妙な共同生活が始まった。といっても特別何かしたわけではなかった。

 蚊はふとした時に、私のもとに羽音を響かせ、それに対して私は、無視を続けた。

 ただそれだけだった。


 はじめに遭った日から四日は過ぎただろう。いまだに蚊は生きていた。

 特別意識などしなかった。むしろ忘れてさえいた。

 たまに聞こえるあの音で、私は思い出し、気づくのだ。


 一人しかいなかったこの部屋に。

 自分以外の誰かがいるということを。

 たとえそれが、とるにたらないちっぽけな存在だったとしても。


 それが、ほんのすこしだけ心を暖めてくれたのだ。




 その日もいつも通り朝早くに仕事場に行き、激務をこなして帰路に就いた。


 ドアを開けて、

 鞄を無造作に床に放り、

 明かりもつけずに、

 冷蔵庫の扉を開け、

 中からビールを取り出そうとしゃがみこんだ。

 その時――見つけてしまった。


「あっ……」


 そいつはいた。しずかに床に横たわっていた。

 死んでいたのだ。あの一匹の蚊が。

 その姿は、まるで埃の一つでも落ちているかのように、自然にそこに馴染んでいた。


 私は何事もなかったように、扉を閉じた。


 考えてみれば自然なことだった。蚊は数日間、この部屋から出ずに、あの小さな体で飛び回っていたのだ。

 殺しはしなかった。だけど、生かす何かをしたわけでもなかった。

 私はただ普通に過ごしていただけだ。だけどそれは……


 私はその場でビールのプルタブをあげ、直で飲んだ。

 つまりは、そういうことなんだよ。いままでだって同じことをしてきたじゃないか。

 何をいまさら。

「…………」

 だけど何かが違う。

 その時のビールの味は、なんだか少しだけしょっぱい気がした。



         ◇◆◇



 次の日、同僚が私にこう言った。

『私、今週いっぱいで辞めますので』

 信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 有能で、私よりも何倍も仕事ができる人だったのだ。

 そんな人に今やめられたら……。


 私は常々思っていた。こんなにも仕事が遅い自分は、いつか上司から、

「君、仕事遅いから明日から来なくていいよ」

 と言われる日が来るのではないかと。


 むしろそれを望んでさえいた。

 そうすれば辞められる。この激務から解放されるのだと。

 だけど言われるのは、「しっかりノルマをこなせ」だの、

「こんなんじゃ駄目。もう一回やり直せ」だの。


 つまり辞めさせる気などないのだ。

 使いつぶすつもりなのだ。


 私はあの蚊と同じなのだ。

 会社という部屋の中に閉じ込められ私は、つぶされるか、あるいは――

 ――力尽きるのか。

 そのどちらかだ。



 その日も終電で帰ることになった。

 遅い時間だからだろう、ホームに人はいなかった。そこにはただ、生暖かい風がふわりと吹いていた。


 私は電車を待つ間、ふと将来について考えていた。

 私は、おびえていただけなのかもしれない。

 仕事を失って、生きていけるのか。新しい環境に飛び込む勇気などなく。

 いろんな辞める理由を思いついているのにもかかわらず、一歩踏み出さなかったのは、私が臆病だったからだ。


 あの日、私に近づいてきた蚊は、私につぶされるリスクを顧みずに飛んできた。

 とるにたらない、ちっぽけな存在。

 いともたやすく命潰(つい)えるにもかかわらず。

 あの蚊は、私に挑んできたのだ。


 私は、空を仰ぎ見た。この宇宙には無数の星がある。

 比べることに意味なんてないけれど、私の存在は限りなく小さくて脆く。

 しかし、私自身にはかけがえのないたった一つの存在。


 私に今必要なのは、一歩踏み出す勇気。


 私はそのとき決意したんだ。心に誓ったんだ。困難を乗り越えて必死に生きようと。

 これから先どんなことがあるかわからない、それでも前に進もうと決めたんだ。

 一歩踏み出そうと頑張ったんだ。それなのに――


 無意識だった。さっきまでの生暖かかった空気は一変、ひんやりと冷たい風が吹いたその一瞬。

 あの羽音が聞こえて、条件反射的に手が動いていた。

 気づいた時には何もかもが遅かった。

 手のひらには、つぶれた一匹の蚊が張り付いていた。

 殺したのだ――私がこの手で。


「そうか。そういうことなのか……」



 最終列車の音が近づいてくる。私はもう一歩だけ前に踏み出した。








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― 新着の感想 ―
[一言] この蚊のお話は、なんだか純文学のような読みごたえがありました。
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