使い道
N県の某所にそれはあった。岸壁織りなす海岸。寄せては返す荒波が岩を削るそこは、いわゆる自殺の名所の一つだった。
俺はレンタカーを借りてその地へと向かっていた。俺がそこへ向かっていた理由。それは昨日のことだった。
俺は不意にひらめいたのだ。そうだ、死のう――と。
何がきっかけかは忘れてしまった。だが日頃から思っていたことではあった。そう思うようになった理由が特に何かあったわけではなかった。いやむしろ、なにもなかったからこそ俺は思ったのだろう。日々上司からのパワハラに耐え、これといって趣味があるわけでもなく、かといって守りたいと思えるような人が側にいたわけでもない。だから俺がそんなことを日頃から考えていたのは、半ば必然と言えた。
しかし、ただ漠然と考えていただけで本気にしたことは一度もなかった。
だけど昨日は違った。
思いついた直後に、本当に実行してみようと思ったのだ。
そしてそう思ってから急に心が軽くなった。目の前がパッと明るくなっていくのを感じた。
やった。やっと解放されるんだ。
そう思うと不思議とやる気が出てきた。――死に急ぐやる気が。
俺には居場所がなかった。職場にも社会にも、どこにもない。俺がいて喜ばれる場所はこの世にはない。一人っ子である俺の両親は、六年前に他界している。だから俺が家に帰っても、ただいまの声は虚しく響くだけ。当然返事はなかった。
俺を必要とする場所は何一つとしてない。
昼飯はいつも一人で、会社の非常階段に座って食べていた。あのとき俺は蒼く澄みわたる空を見ながら、日々自問していた気がする。――なぜ俺は生きているのだろう、と。
自問したところで答えは明白だった。俺は答えが欲しかったんじゃない。俺はただ認めて欲しかっただけなんだ。受け入れて欲しかったんだ。こんな俺でも生きてていいんだよ、と誰かに言って欲しかったんだ。そのままでもいいんだよ、と誰かが肯定してくれればよかったんだ。
だけど今はもうどうでもいい。
俺は仕事を無断で休み、誰に告げることもなくそこへと向かった。携帯電話は家に置いてきた。もしかしたら無断で休んだことに対して、何か連絡があったかもしれない。そしてそれはもしかすると、心配の電話かもしれない。
――いや、そんなことはない。
かかってきたとしても、それは怒りの電話だ。
なぜ来ないのだと怒り、罵り、俺の無能さを熱弁したのち、吐き捨てるように暴言を口にして電話を切るだろう。
そして同時に俺も切り捨てる。
そうだ、それでいい。俺の代わりはいくらでもいる。俺である必要はない。
家を出て数十時間。途中に休憩をはさみながら、俺は車を走らせた。日はすっかりと暮れた。
夜道はすいていた。窓を開けると涼しい風が頬をなでる。それが本当に心地よく、俺は自然と穏やかな気持ちになった。
――その時ふと、俺は昨日のことを思い出した。
自殺しようと決心した時、俺は始め、台所に向かい包丁を握りしめた。これを自らの身体に突き刺せば、はれて目的は達成される。全て解放されるのだ。
なに、難しいことじゃない。
グッと力を入れて手前に腕を動かせばいい。
――簡単だろ?
さあやれ。
やれ。
やれっ。
やれって。
やれよッ!
おい、やれって――ッ!!!
だが――……
……できなかった。包丁を握る手が震えた。刃先が胸に当たり、服がわずかに血で滲んだ。鋭くて小さな痛みが、俺の手を止まらせた。
「大丈夫……」
あの時の震えはもうない。
俺はハンドルを握る拳に力をこめた。いまはこの夜風を愉しむことにした。
◆◆◆
そんなことを考えているうちに、俺は例の場所へとたどり着いた。街灯と月明かりだけが周囲を照らしている。少し歩きたかった俺は、離れたところで適当に車を停めた。
静寂のなか、唯一聞こえる波の音。
ほのかに香る潮の匂い。
ひんやりと澄んだ空気。
柔らかくあたりを照らす月の光。
俺は何も持たずに崖へと向かい、淵まで行こうと遠くを見た。その時。
(――ん?)
視界の奥で何かが動いた気がした。何だろう。十数メートル先に何かがいる。
(あ――)
わかった。あれは――“人”だ。
その人は崖の淵に座り、海を眺めていた。ぼんやりと浮かんだシルエットは、どこか所在なげに揺れていた。
俺は一瞬だが、こんな時間に何をしているのだろうと疑問に思った。が、考えてみればそれはわかりきっていた。俺と同じだ。
だがどこかその姿は、誰かを待っているようにも見えた。
俺は邪魔になるだろうと、踵を返そうとした。だがそれと同時に――
「そこの人」
声が聞こえた。渋い男の声だ。
俺は周囲に目を凝らした。
俺とその人以外に、人の姿はなかった。
「君だよ。君」
俺は自分を指差した。その人は首を縦に動かした。
やはり俺を呼んでいるようだ。
どうしようか俺は迷った。俺は一人で死のうと思っていた。誰にも知られずに、ただ一人で。だからこそ俺は誰にも何も告げずに来たのだ。だが不思議なことに、俺の足は動き出していた。
「なん……ですか?」
俺はその人に、後ろから声をかけた。すると顔を上げたその人――彼は、
「すこしお話でもしませんか?」
と自分の横に手を向けて、微笑みかけてきた。渋い、だが柔らかく温かみのある声だった。
俺は思った。
おそらくこの人は、誰かと話がしたかったのだろう。
俺はその人の隣にゆっくりと腰を下ろした。この後どうせ俺は死ぬ。だからこれからどうなろうとあまり意味がない。だがそうだとわかっていても、ここで去るのはなんだか後味が悪い気がした。どうせなら心に変なモヤをかけずに死にたい。
そして俺は彼が話出すのをただ黙って待っていた。
しばらく沈黙が続いたのち、彼は海を眺めながら不意に口を開いた。
「あなたは何故、ここに来られたのですか?」
俺がここに来た理由――
その時の俺は、なぜだかそれを口にしたくなかった。少しばかり考えた末、俺はこう言った。
「あなたと同じですよ」
彼は、そうですか、と頷いていた。
そしてまたしばらく沈黙がおとずれた。ただ波の音だけが静かに流れていた。冷静になってみれば、これはおかしな光景だ。ただその時の俺は、不思議と嫌な気がしなかった。
俺はぼーっと海を眺めていた。どこまでも広がっていき、全てを飲み込んでしまいそうな海。俺は地球に住む何億という人間の生活を思い浮かべてみた。そこには俺より悲惨な人生を送っている者もいるだろう。苦しい思いをしているが、それでも頑張って生き抜こうとしている者もいるだろう。そんな人たちがいる中、ましてや地球にとってみれば、俺の悩みなんてちっぽけなものだと思えるだろう。そうなんだ。だけど俺はそれでも、もういいと思った。
ほんとうに小さな人間だった。
そんなことを考えていると、ふいに彼は、独り言のように話しだした。
「私にはね、妻がいたんですよ」
俺は黙って聴いた。
「妻は病気がちでねぇ……。身体が弱くて、そのほとんどをベッドの上で過ごしてきたんです。ほんとうに私は愚かなことをしてきました。外出は身体に障るからと控えさせて、何とか早く良くなるように努めていたつもりだったんです。でも……もしこんなにも早く死ぬなんて分かっていたら……そんなことしなかったよ……」
彼は少し俯いて、吐き出すように呟いた。
「ああほんと、見せてやりたかった。いろんな外の世界をさ……」
最愛の人の死。
俺にはその辛さがわからなかった。
何か声をかけるべきだとは思った。
だが俺は、その人にかけるべき言葉が分からなかった。
「それは……お気の毒に」
つまらない返事だった。
「はは……いいんですよ。もう過ぎてしまったことですから」
彼は優しく微笑み、目は遠くを見つめていた。俺が見たその横顔は、哀しみが滲んで染みていた。
俺にはわからない。だが何かが間違っている。そう思った。だから俺はつい口をついていた。
「そうですけど、何もあなたが死ぬ必要は――」
そして続きを言いかけて黙った。
生きる意味を失った人にその言葉をかけるのは残酷だ。
「ありがとう。あなたは優しい人だ」
彼の口調は優しかった。
だがその優しい声とは裏腹に、その顔は必死になにかを堪えているようにも見えた。
「実は――」
俺は正直に打ち明けた。何故ここに来ているのかを。何故死のうとしたのかを。
もしかしたらそれは贖罪だったのかもしれない。彼にとって俺がしようとしている行為は生への冒涜のように見えるだろう。だが小さな俺はそれを話した。全てがどうでもよくなり死のうとしたことを。
「そうでしたか……」
彼は俺の話を真面目に聞いてくれていたようだった。そして懐から何かを取り出して、俺の前に差し出した。
「これは?」
俺は訊いた。
「中はウィスキーです。よかったらどうですか?」
それはスキットルだった。登山家などがよく持ってる金属製の湾曲しているボトルだ。
「いやでも……」
俺は、一度は断った。だが彼は、
「なに、遠慮なさらず」
と勧めてきた。
「でも俺、車で来てますし……」
それを聞いて、彼は笑い出してしまった。
「はははは。なにをおっしゃってるんですか。あなたここへ死にに来たのではないのですか?」
「あ……」
そうだった。なぜ帰りの心配をしているんだ。
「そうでしたね……」
俺は胸に手を当て自問した。
――俺はまだ死にたくないのか?
「……」
そんなことはなかった。この気持ちに変わりはない。
そして俺は素直にそれを受け取った。
蓋を開けて、酒を一口流し込む。少し変な味がした。
「どうですか?」
彼は今の気分を聞いてきた。
「このウィスキーはウィスキーですか?」
自分で訊いていてなんだが、変な質問だった。だがその訊き方が一番しっくりきた。
「ああ、それはですね――」
俺の疑問に、彼は説明した。
「普通の市販のウィスキーですよ。ただし、強力な睡眠薬が混ぜられています」
「え? どうして……」
「本当にすいません……悪気はないんです」
「……」
彼は説明を続けた。
「あなたはいい人だ。だからこれは不本意なんですけどね」
俺は瞼が重くなっていくのを感じた。
「実は私には娘がいるんです」
――視界がぼやけてくる。
「遺伝の関係で娘も病弱体質でして、今も病院のベッドの上で苦しんでいるのです」
――声が遠くなる。
「あなたには本当に申し訳ないと思っています。ですがもう時間がないんです」
――意識が薄れていく。
「新薬の開発にはどうしても違法な治験に手を染めるしか方法がなかったんです」
彼は本当に申し訳なさそうな声音で説明した。
薄れゆく意識の中、俺は彼を見た。
彼の顔は懺悔の念で歪んでいた。
俺は気づいた。
(――そうか、あれは正しかったんだ。誰かを待っているように見えた、あの後ろ姿は)
「だから本当にすみません」
【あとがき】
おかげさまで今回の話で一つの節目となる50話目の投稿となりました。約週一更新でやってきたこの短編集も最初の投稿から約一年の時間が過ぎました。おかげさまで毎日誰かに読まれているようで、筆者はとても嬉しく思います。さらに遅ればせながら、レビューを書いてくださったアカシック・テンプレート様、ありがとうございました。加えて感想を送ってくださった読者の皆様、とても嬉しかったです。
ということで久しぶりに後書きを書いて見ました。
一時期はネタが思いつかず更新が途絶えていた期間がありましたが、今ではある程度(怖いかどうかは別ですが)ネタのストックが出来ました。
そこで最近、というか前々から「これタイトル詐欺なんじゃないか?」と思うことが何度かありました。『意味が分かると』となっている以上、分からなければ怖くないはずなんですが、でも意味が分かったところであまり怖くないんじゃないかということです。私としましては怖いかどうかよりは、伏線といいますか、意味怖特有の意味の分からなさや、怖いところはどこなのか推理する点に特にこだわっているので、そういうのが好きで意味怖を読んでいる人にとっては楽しんでいただけてるのではと思っています。ですが怖い話が読みたくて読んでくださっている方には申し訳ありませんでした。そこでタイトルを『意味が分かると〇〇な話』に変えようか少し迷っていたときがありました。ただ、タイトルを変えると訳が分からなくなりそうなのでそれは辞めました。
今回の50話目の話は、以前から大体の内容は思いついていたのですが、なかなか形にする時間がありませんでした。いや、というよりかは書いていてもなんだか納得できないような変な文になるので他の話を先に書き始めたりしていて後に回していたというだけです。今回、すでに投稿してしまいましたが、あまり納得がいっていない感じです。約週一更新ということで、見切り発車でやってしまいました。なのでこの話に関しては後で加筆修正があるかもしれません。
さて、そんな感じで続いてきた短編集ですが、ネタが思いつく限りまだまだ続けていくつもりです。目標は100話! ということで、読んでくださった読者の方、コメントなどして頂けると嬉しいです。また、このページから最新話に飛んで、評価ボタンを押してもらえるとさらに嬉しいです。どうかよろしくお願いいたします。




