甘い珈琲
それは、とある仄暗い一室でのこと。
そこには非常によく似た背格好の二人の男が対面して座っていた。
「先生も大変ですよね、医者の仕事って。俺みたいなのも相手にしなきゃならないんだからさ」
男の一人が、もう一人の男に気楽に話しかけた。
【まあ、それが私の使命ですからね。それで、今回はなんですか?】
先生と呼ばれた医者は、男に用件を聞いた。すると男は気楽な口調から一変、「それなんですが……」と、両の手を口の前で合わせながら、悩ましげな顔を作った。
「先生、俺、幸せすぎて珈琲が甘いんです」
【はあ……】
いたって真面目にそう語る男に、しかし医者は、困ったように垂れた眉を掻いた。
【なるほど、味覚に障害があると――】
「あ、いえ、そういう話ではないんですよ」
意味が通じなかったようで、男は手を振ってその言葉を訂正した。
「今言ったのは一種の比喩表現でして。そのなんと言いますか、幸せすぎて普通の苦い珈琲でさえも甘く感じられてしまうような、それ程までに幸せだっていう意味合いなんですけど……わかりますか?」
【あーはいはい分かりますよ。つまりなんですよね、あなたは自分の人生が上手く行き過ぎていて、そして幸せすぎると】
「そうなんですよ」
【惚気話なら問題ありませんね。では私はこれにて】
「あ、ちょっと待ってください」
立ち去ろうとした医者に、男は立ちあがり呼び留める。
「俺今とっても不安なんです。先生、この気持ち何とかなりませんか」
すがりつく男に仕方なく医者は一旦座った。それに合わせ、男も腰を下した。
【それで……何がそんなに不安なんですか】
その問いに、男はより虚ろげな眼をして語った。
「とにかく怖いんですよ。今この瞬間が、何かほんの些細な拍子に崩れ去ってしまうような、そんな気がしてならないんです。先生もご存知の通り、私には妻と息子がいます。関係はいたって良好です。仕事の方も心身ともに充実していて何一つ文句はありません。ですが、その……うまく言い表せないんですけど、この何不自由なく全てが満ち足りている今の状況に、とてつもない恐怖を感じるんです」
【なるほど……それは困りましたね……】
不安げな顔の向こうの男に、しかし冷静な眼で見据えた医者。
【そうですね、今お出ししている抗不安薬の量を増やしてみましょうか。それで様子を見てみるのも……】
「それなんですがね先生――」
それで思い出したのか、医者の言葉を遮り、男は少し声のトーンを落とし――告げた。
「その薬も、なんだか甘いんです」
【――⁉︎】
その言葉に医者は、その顔にほんの一瞬だけ苦悶の表情を浮かべた。が、すぐに素の状態に戻した。
【ああ、恐らく気のせいでしょう。珈琲が甘く感じられたのと同じことですよ】
何かを隠すようなその口調に、男は違和感を覚えた。
「先生ひょっとして、何か俺に隠してませんか?」
【さあ、何のことですか?】
「……」
【……】
見つめ合う、二つの双眸。
重なり合う、探る眼と、隠す眼。
数秒間の静寂の後、何か気づいた男はその口を開いた。
「先生、改めてお聞きしますね。何か俺に隠し事してませんか?」
はっきりゆっくりとした問いに、医者は、
【だから言ったじゃないですか、何も隠してなんかいませんよ】
と答えた。だが――
「嘘だっ!!!」
肚の底から吐き出すように男は叫んだ。
「何で嘘をつくんですか? 嘘つかないでくださいよ、判るんですよ俺。先生と俺は数年来の付き合いでしょう。隠さないでなんでも教えてくださいよ」
だが医者は、まだはぐらかそうとした。
【だから言ってるでしょう。隠し事なんか何一つありませんよ。】
しかし男は納得しなかった。
「そうですか……俺だってこんなことしたくなかったんですがしょうがありません。先生が本当のことを言わないのなら」
言って、男は拳を強く握った。
腕には血管が浮き出てきた。
【わかった。わかったから……落ち着いてくれ。そんなことしたら私は二度と現れなくなってしまう。】
「なら素直に話してください」
男は力を入れた拳を顔の前へと上げた。
医者は数秒間黙った。そしてもう潮時だと悟ったのか、【しょうがないか。】と、その重い口を開いた。
【わかった。すべてを今打ち明けよう。まず、今まで黙っていたのは済まなかった。そこは素直に謝ろう。悪かった。だが一つ勘違いしないでほしい。これは全て僕と、そして君の為にしてきたことなんだ。
実は君には、長年催眠術をかけ続けてきていた。それは君がこの世で生きていくために必要だったからそうせざるを得なかったんだ。忘れてしまったかもしれないが、そうしなければならない程に君は追い込まれていたんだ。そう、だがどうやらここ最近は、その効き目が弱くなってきているようだね。抗不安薬と称して渡してきたラムネも、君はただの甘いラムネだと気づき始めていた。暗示が解け始めたなによりの証拠だ。】
「先生、なぜ俺に催眠術なんかを……」
【それは君――】
医者はまっすぐと男の目を見据え、真摯に告げた。
【君が絶望しないためにさ。】
――絶望?
「何から絶望しないために……」
だが自分で言ってて男の脳内には、一つの受け入れがたい仮説が浮かび上がっていた。
「まさか……俺の家族は……」
男は医者を見る。だが彼は何も語らない。
「俺が家族を失ったから……だからそれを隠すために……」
しかし医者はそれを否定した。
【それは違う。君にはそもそも妻も子供もいなかった。】
「え、それじゃあ……」
――なんのために自分はこんなことになっているんだ。
【君はもう、薄々気づいているんだろう。】
――俺が気づいている?
「俺、何もわかんないです!」
【いや気づいているはずだ。私がこうして打ち明けている時点で、君にはもう分かっているはずだ。】
「俺には……」
男は疑問に思っていた。そう、長年秘密にしていたと言う割にはあっさりと秘密を打ち明けた医者に、男は違和感を感じたのだ。
――だが自分が何を知っていると?
そして医者は続けた。
【この世の中にあるのは――いや、人の中にあるのは真実かどうかの二つではなく、それを『信じたい』か『信じたくない』かの、この二つなのだよ。】
――それは、つまり……
【だから君は本当は気づいているはずだ。そしてそれを信じたくないだけなんだ。】
「でも先生。俺は――」
しかし、その言葉も医者は否定した。
【医者は僕じゃない。――君さ】
――え?
男が混乱する中、医者は続けた。
【私は間も無く消えてなくなるだろう。いつか気づいてしまう日が来るのはわかっていた。だがこうも早く訪れるとは……。では最後に、完全に消える前に一つ、君には伝えておこうと思う。君が願うなら私は何度でもやってこよう。君にまた会えることを願っている。そしてもう一つ、君にお願いがある。】
そして鏡の向こうの自分は、最後にこう言った。
【どうか正気にならないでくれ。】
その言葉を聴いた瞬間、男は項垂れた。
全てを理解してしまった。
◆◆◆
男はかつて医者だった。
仕事に明け暮れ、人助けに喜びを見いだせている人生に、ある意味で満足していた。
しかしある日、終焉はやってきた。行き過ぎた国家間の論争、対立、果ては武力抗争――核戦争。
第三次世界大戦が勃発した。
男は前もって密かに造っていた核シェルターに身を隠した。少しでも生き永らえるようにたったの一人で。
だがそれは全くの誤算だった。一人が作り出す孤独は、想像を遥かに超える代物だった。
気が触れそうになる。どうにかなりそうだった。
だから男は作った。
決して独りにならないよう、架空の妻と息子を作り出し、日々を過ごした。
そして自分しかいない世界で、医者を続けることはできない。かといって何かしていなければ、余計なことを考えてしまう。
――この世にたった一人しかいないと言う事実を。
だから意味のない仕事を作り、人生に意味を持たせた。
医者の仕事は、鏡の中のもう一人の自分に与えた。いつしかそれは一つの人格を持ち、通常の自分とは切り離されるようになった。あたかも自分以外の誰かがそこにいて、本当に会話しているかのように。
全ては絶望しないために。
この世にたった一人であることを、自分自身から隠すために。




