現実
《1800》
男はベッドの上で穏やかな朝を迎えた。
起き上がって窓のほうに向かう。窓を開けると、さわやかな風が男の頬をなでた。
柔らかくてすこしひんやりとした風。
とても心地がいい。
男はゆっくりと伸びをしたのち、寝室を出て階下のリビングへと降りた。
扉を開けると、ふわっと朝食の香りが鼻腔に広がった。
トントントンと包丁の小気味良い音も聞こえてくる。
妻の美玖が台所に立ち、朝食を作っているようだ。
「おはよう。美玖」
男は妻に優しく微笑みかける。それに対し妻も微笑み返す。
「おはようございます雄二さん。もうそろそろご飯の用意ができますので、少し待っててくださいね」
妻に言われ、男はダイニングテーブルに着いて待っていた。
ほどなくすると朝食が運ばれてきた。
ご飯にみそ汁、焼き魚に漬物。どれもありふれているようで、しかしどれもが素晴らしい。
お米は、米粒の一つ一つがピンと立っている。みそ汁は男の好みの白味噌に、具はわかめと豆腐。
焼き魚は少し塩分が強めの塩じゃけ。これにご飯がよく進むのだ。
漬物は、妻が手作りした白菜ときゅうりのぬか漬け。実家のぬか床から分けてもらったものだという。
「さ、いただきましょう」
妻は男の向かいの席にすると、両の手を合わせた。
男も妻に倣い、手を合わせる。祈りの儀式だ。
男は目を閉じ深く息を吐いた。そして、ゆっくりと吸い込む。ごはんから立ち上る湯気が肺を満たしていくのを感じ、男はこの至福のひと時をゆっくりと堪能した。
「「いただきます」」
二人の言葉がぴったりとそろった。
そのことに二人は小さく笑いあう。
何気ない些細な瞬間。だが幸せに満ちたひと時。
そのとき男は思った。
――ああ、この瞬間が永遠に続けばいいのに――、と。
《 437 》
朝食が済んで一段落ついた頃。縁側で男がまったりとしていると、甲斐甲斐しい妻が食後のお茶を用意してくれた。熱めの玉露だ。
「ありがとう」
「いえいえ」
男のとなりに妻が座る。
そこは閑かで優しい空間だった。遠くの方から聞こえる鳥のさえずり、時間に追われることのない生活。そしてなにより献身的で美しい妻がとなりにいる。
これ以上何も望むことはない。そう思えるほどに満ち足りた空間。
だが――
「俺は、お前が好きだ」
ぽつりと、男の口から自然と言葉がこぼれでた。
「何ですか急に?」
「いや……お前だけじゃない。この時間、この場所、この生活が何より好きなんだ」
この瞬間がたまらなく愛おしい――そう思っての言葉だった。
妻は不思議そうに、男に視線を向ける。その透き通る瞳は、何も知らない。
「どうしたんですか」
「俺は、ずっとお前のそばにいたいんだ」
男は素直な気持ちを吐き出した。それに対し少し驚いた様子の妻は、しかし前に向き直り、
「私も同じ気持ちですよ」
と目を細くし、ふふふと笑う。まるで花が咲いたようにふっくらとした優しい笑み。
その表情に、男の胸は強く締め付けられた。
――――妻は何も知らない。
もうすぐ終わりがやってくる。
《 132 》
「ねえ、雄二さん。雄二さんには夢ってありますか?」
右上を見ていた男に、妻は声をかけた。
「夢?」
「そうです。何かないですか」
濁りなき瞳を向けられた男は、しかし逆に質問した。
「美玖の方はどうなんだ」
「私ですか? そうですね……」
屈託のない笑みを見せながら、楽しそうに、なんの悩みも不安もないと思っている表情で、妻は語った。
「私は、雄二さんと旅行がしたいです」
「旅行?」
「はい! いろんなところに二人で行ってみたいです。あ、海外なんかもいいですね」
妻はにっこりとほほ笑む。その顔が酷く男の心に響く。
ああ、できることなら見せてやりたい。カナダでオーロラを見るのもいい。イタリアで本場のピザを食べるのもいい。フランスに行って絵を観賞するのもいいだろう。できることなら全てを叶えさせてやりたい。そしてその時となりで君の笑った顔が見たい――だがそれのどれもが不可能だ。
男はまた右上を気にした。
「どうしたんですか?」
妻が不思議そうに首をかしげ、男の視線を追い、同じく上のほうを見た。だが彼女には見えない。
《 10 》
男は妻に向きなおると、口を開いた。
想いを伝えたい。決して叶わぬ夢だとしても――
《 5 》
「美玖、いつかお前と一緒に旅行して世界を回ってみたい。だから俺――」
だが――、
《 0 》
ぷつッ――――と、目の前が暗転した。
(……もう、終わりかよ……)
男はぼそりとつぶやく。その声は虚しく部屋に響く。
黒く塗りつぶされた眼前に、今までに何度も見たあの白い文字が浮かび上がる。
《体験版はここまでとなります。続きは製品版を購入してからお楽しみください》
男は頭にはめたゴーグルを脱ぎ取った。
恋愛シミュレーションゲーム。その登場人物に恋した男。
だが製品版はある諸事情により販売されることはなかった。
ごみが散乱した薄暗い湿った部屋で、男はひとり浅い溜め息を吐いた。




