プロローグ:初夏の木曽路と、遠い日の約束
【作品の閲覧に関するご案内:冬を越えて実る、優しさの物語】
本作は、都合の良いチート能力も、異世界転生も存在しない、ただひたむきに新しい地で生きようとする一人の少年の「等身大の成長」を描いた物語です。
言葉の壁、最愛の家族との突然の別れ、そして異国の地での孤独。
華やかなディズニーランドへ続く道で大切なものをすべて失くしてしまった少年が、信州の豊かな自然と祖母の無償の愛に支えられ、どのようにして「本当の居場所」を見出していくのかを描いています。
残酷な描写や悲劇的な結末は一切ございません。
流した涙の向こう側にある、心温まる純愛と心の交流の物語を、どうか最後まで温かい目で見守っていただければ幸いです。
【プロローグ前書き:世界で一番哀しい場所で見つけたもの】
長野県小諸市。山々に囲まれたその街は、僕にとって新しい始まりの場所であるはずでした。
世界で一番幸せな場所と言われるディズニーランド。
そのきらめく光と大歓声の中で、独りきりで立ち尽くしたことがある人にしかわからない、胸を締め付けるような寂しさがあります。
教科書には載っていない孤独の重さと、完璧ではない日本語で綴られた、僕の心の手記。
これは、かつて「自分は世界で一人ぼっちだ」と絶望していた僕が、僕だけの特別な居場所と、手を繋じてくれる大切な人に出会うまでの旅路の始まりです。
どうぞ、少年の心の声に耳を傾けてみてください。
POV: 琴葉 江戸(11歳)
木曽の五月の風は、まだ少しだけアルペンの残雪の冷たさを運んでくる。
白い林檎の花びらが風に舞い、古い木造の家の縁側に座る僕の足元を静かに通り過ぎていった。
「江戸、お茶が入ったよ。冷めないうちに、おいで」
台所から、祖母の静香の穏やかな声が聞こえる。
僕は十一歳。母の故郷である長野県木曽郡の小さな村で、おばあちゃんと二人、ひっそりと暮らしている。
おばあちゃんの手は、長年林檎の木を育ててきたせいで少し硬くて、でも驚くほど温かい。その手に包まれるたび、僕は自分が世界から見捨てられたわけではないのだと、かろうじて信じることができた。
僕の父、ヒロ(Hiro)は、遠いインドネシアの南カリマンタン、バンジャルマシンの生まれだった。
とても物静かで、いつも夕日を見つめながら、僕に不思議で美しい言葉を教えてくれる人だった。母のあかり(Akari)は、諏訪の瑞々しい林檎のような笑顔を持つ人で、父は母と結婚したとき、喜んで「琴葉」の姓を名乗ったという。
諏訪の空の下、家族三人で林檎を育てていたあの頃、世界はただ優しく、永遠に続くものだと信じていた。
――あの日、僕が八歳だった夏の日。
「お父さん、お母さん。僕、東京のディズニーランドに行ってみたい!」
僕の小さな我がままに、二人は顔を見合わせて、まるで自分のことのように嬉しそうに笑ったんだ。おじいちゃんの古い車を借りて、夜明け前の涼しい空気の中を出発した。
車内には父が口ずさむ懐かしいインドネシアの歌と、母が作ったお弁当の匂いが満ちていた。僕は助手席の後ろで、これから始まる夢の国への切符をしっかりと握りしめていた。
でも、夢の国へと続くハイウェイの途中で、世界は突然、真っ暗な静寂に包まれた。
大きな衝撃の音。ガラスの割れる音。そして、大好きな二人の声が、二度と聞こえなくなった。
僕は病院のベッドで、体中の痛みよりも深い、底知れぬ暗闇の中で目を覚ました。僕の手の中に残っていたのは、夢の国の切符ではなく、血に濡れた白い包帯だけだった。おじいちゃんも病気で先に逝ってしまい、僕の世界から『家族』という明かりがすべて消えてしまったと思った。
そんな僕を、木曽の古い家で温かく抱きしめてくれたのが、おばあちゃんだった。
おばあちゃんは、僕が泣き止むまで何時間も背中をさすってくれた。
「江戸、あかりの小さい頃もね、よくこの林檎の木の下で泥んこになって遊んでいたんだよ。お前によく似て、ちょっと泣き虫で、でもね、誰よりも優しい子だった」
おばあちゃんは、母の子供の頃の話をたくさん聞かせてくれる。
二人で林檎の木の間を駆け回り、疲れたら縁側で父の故郷のスパイスが効いたお茶を飲む。おばあちゃんが笑うと、その目元に母の面影が優しく浮かび上がる。
失われた切符は二度と戻らない。
だけど、木曽の空に夕星が輝き始める頃、おばあちゃんが僕を抱きしめる腕の温もりの中で、僕は知る。
愛とは、失ったことを悲しむためだけにあるのではない。残された人間が、その温もりを次の明日へと繋いでいくためにあるのだということを。
五月の風が、林檎の花の香りを乗せて、僕たちの小さな世界を優しく包み込んでいた。
プロローグをお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、言葉の壁や深い喪失感を抱えながらも、信州の豊かな自然と祖母の無償の愛に支えられて生きていく少年の、美しくも切ない成長の手記です。
世界で一番行きたかった場所への切符を失くしてしまった小さな手が、おばあちゃんの温かい手を握り返すとき、冷え切った少年の心には新しい命の灯火がともります。
人は、大切なものを失ったときに初めて、その裏側にあった「本当の愛」の大きさに気づくのかもしれません。
小諸市や木捜の美しい夕暮れの中で、江戸とおばあちゃんが紡ぎ出す不器用で温かい日々の物語を、どうか最後まであなたの心で受け止めてください。皆様の温かい応援、ご感想を心よりお待ちしております。




