78.ヒロイン・エレーナ
社交界デビューから一週間が経った11月初め。アイスローズは呟いた。
「こんなお店があったのね……!」
深緑色の外観に金色で「太陽と麦のかけら」と店名が書かれている。中に入れば、石を積み上げた壁の前に深緑色のタイルで出来たカウンターがあり、ガラスケースに所狭しと美味しそうなパンが並べられていた。そこら中に良い匂いが漂っている。
「朝早くから開いているので、私はよく買い弁をしています。あとは部活帰りに買って、家族へお土産にしたりとか」
エレーナはアイスローズの嬉しそうな顔を見て、満足気に微笑んだ。
ここは王城学園の側にあるパン屋だ。
先日、王城学園の学食へ食材を卸している地区で火事があった。その影響を受けて、学食は連日休みになっている。怪我人は出なかったと新聞記事にあったから、不幸中の幸いだ。
アイスローズはいつもランチを学食で食べていたので、どうしたものかと迷っていると、エレーナがこのパン屋を教えてくれたのである。
エドガーは公務が続いており、社交界デビュー以降、王城学園に姿を見せていない。当然、アイスローズと話をする機会もない。
あの日の夜。
『アイスローズ、私はーー』
そこまで言ったところで、エドガーは動きをピタリと止めた。素早く、目を城より先の彼方へ向ける。
アイスローズが不思議にそれを見ていると、ピリッ……と僅かに空気が震えたかと思えば、遠くで花火があがったような音ーー爆発音が響いた。
後からわかったことだが、学食が閉鎖する理由になった地区の火事によるものだ。
王城とその場所の距離はそれなりに離れているが、目を細めれば、火により極小さく空が色づいているのが見えた。
直ぐに従者や騎士たちが駆け寄ってきて、エドガーは王城の対策室へ指示を出した。それからアイスローズをダンスホールのヴァレンタイン公爵たちへ託し、自分も対応へ向かって行ったのだ。
舞踏会は大盛況のまま終了したが、時間は繰り上げになっている。
ダンスホールでは、キラン王子に会った。彼はアイスローズたちのファーストダンスを褒めてくれた。そして苦笑いする。
「あんなダンスを見せられたら、もうアイスローズ嬢とは踊れないよ。エドガー王子と比べられたくないからね」
アイスローズがヴァンパイア・ガーネットについて話をしようとすると、キランはアイスローズの唇を指で塞ぐふりをし、先を言わせてくれなかった。「世の中、女の子に使われるのが好きな男もいるんだよ。ウェンズディ嬢によろしく」、と。
エドガーが話したのか、粗方の事情を把握しているようだった。これ以上なく感謝しつつ、この恩には必ず、何らかの形で報いようと固く誓う。
この日、会えるのを楽しみにしていたバーサ・グリーンアップルは、王城へ来ていなかった。
彼女は「王太子探偵という戯れ」の前段階「王太子少年の事件日和」【最初の事件】回で、殺されるはずだった人物だ。オーガスト陛下の又従姉妹にあたり、エドガーはバーサを母のように慕っている。アイスローズも昨年以降エレーナと彼女のリンゴ園にお邪魔させてもらうなど、親交を深めていた。
来られなかった理由は、数週間前に馬に撥ねられそうになっていた人を助け、足を挫いてしまったから。いかにもバーサらしい行動だ。
お見舞いは贈っていて、近日会いに行こうと思っている。
(ーーあの夜、エドガーはなんと言おうとしていたのか)
アイスローズはエドガーの言葉の先を、まだ聞けないでいる。
(あれじゃあ、まるでエドガーは)
数えきれないくらい頭の中で繰り返されたエドガーのセリフは、まるでーー……彼がアイスローズのことを……憎からず思っているかのようだった。
アイスローズは無自覚系ヒロインではない。文脈からその先を予想したり、行間から感情を読み解くことは、令嬢として必要なスキルでもある。
だけど。
(エドガーが私を好きだと仮定する。しかし、)
(『無自覚系ヒロイン』どころか、私は『ヒロイン』じゃない)
(よって、エドガーが私を好きなんてことは、あり得ない。以上、証明失敗)
よく目が合うのは、自分がよく見ているから。脈ありかどうか迷っている時点で、大抵は脈なしと聞く。
つまりは、そういうことなのだろう。
防いだつもりだったが、赤ワインの残香で酔っていたという可能性もある。
(……それとは別に、レストランでの怪盗キツネ(キラン)とエドガーの内緒話が何だったのかも気になるし)
「わーい! エレーナ来たの?」
「!」
考えを巡らせていたアイスローズを現実に引き戻したのは、女の子の声だった。
「サラちゃん! 元気にしてた? また背が伸びたんじゃないかしら」
そう言うエレーナを見れば、小さな女の子が嬉しそうにぴょんぴょん抱きついている。クロワッサン色の髪の毛をおさげにしている5歳くらいの少女だ。
「エレーナさんの知り合い?」
「はい、ここのパン屋の娘さんでして、サラちゃんと言います。昔買いに来た時、たまたま女将さんが産気づいて、お医者様を呼んだり、そのままサラちゃんの面倒をみたりしているうちに、懐いてくれました」
さすがはエレーナ。子供の扱いにも慣れている。サラはエレーナにじゃれついて、一生懸命話しかけている。
(……ん? パン屋のサラちゃんってどこかで聞いたような)
アイスローズが考えていると、背後から入り口のベルがカランと鳴って、じれったそうな少年の声が聞こえてきた。
「サラちゃん、いきなりいなくなるのなし。まだ石蹴りの途中だよ? ……あ!」
「! ウォルト!」
アイスローズは少年と同時に目を丸くする。
(そうか、サラちゃんはウォルトが好きだと言っていたパン屋の女の子!)
開いた扉から顔を出したのは、赤茶髪をくるくるさせた少年、ウォルト・モーティマーだ。【黒いダイヤのジャック事件】でアイスローズ(とエドガー)がロイロット邸から救出した少年である。
「わあ、お姫さまじゃない、久しぶり!」
ウォルトは鼻に皺を寄せて無邪気に笑う。アイスローズのことを覚えていてくれたようだ。パリスによる誘拐事件によって、ウォルトの心に傷が残っていないかエドガー共々気にかけていたが、どうやら問題ないようで安心する。
「ウォルトも。元気そうで良かったわ。お兄さんとお母さんも変わりないかしら」
視線を合わせて屈むアイスローズに、ウォルトは元気いっぱいに頷いた。ウォルトはサラに声をかける。
「ほら、前言ったお姫さまだよ。金髪の超かっこいい王子さまが結婚したいって言っていた」
サラはハッと息をのむと、キラキラ瞳を輝かせた。
「わあ、やっぱり! そうなんじゃないかって思ってました」
「お姫さま? 金髪の王子様と結婚? ですか?」
エレーナがアイスローズに聞く。
(あ、まずい)
「ええと、これはーー」
アイスローズは説明しようとするのだが、子供たちは次々声を被せてくる。
「結婚式には絶対よんでね! 一張羅の服を着ていくよ! お母さんがこの間、かっこいい虎みたいなシマシマ靴下を編んでくれたんだ、それを履いていくね!」
「ならなら! サラも呼んでください。お姫さまが王子さまといるところ、見てみたい! お母さんに頼んで、塩味発酵のパンを沢山焼いてもらってお姫さまにプレゼントするから! 世界でいちばん、美味しいの!」
とっても微笑ましい光景だが、エレーナの前でこの話は困る。アイスローズが再び口を開こうとした時。
「こら、サラ! お客様の邪魔しないの!」
女将さんがカウンターの中から慌ててやってきて「ごめんなさいね」とサラとウォルトを連れて奥に行く。二人は素直に聞き入れ、アイスローズたちに手をふりふり、別の部屋に帰って行った。
店内に残されたアイスローズとエレーナ。
エレーナはおもむろに口を開いた。
「あの、アイスローズ様はエドガー殿下ともしやーー」
「違うの!」
目を見張るエレーナ。
「あ、」
(つい、大きな声を出してしまった)
慌てて謝る。でも、エドガーとの関係をエレーナに誤解されるわけにはいかなくて。
「前にエドガー様といたときに、ウォルトと会ったことがあって。何か勘違いされてしまって。でも結婚とか、間違ってもそんな関係じゃなくて」
そんなアイスローズの話をエレーナはじっと聞いていた。それから、ひどく迷ったように口を開いた。紫の瞳が珍しく、不安そうに曇っていて。
「あの、アイスローズ様……」
エレーナは意を決したようにアイスローズを正面から見つめて言った。
「よければ今日の放課後、私とデートしていただけませんか?」




