76.社交界デビュー⑤
ーーパチン!
「怪盗キツネ」の余韻に浸る間もなく、いきなり背後から乾いた音が響き渡る。
(? 今度は何)
驚いて振り返れば、男性が女性に思いっきり平手打ちされていて。さっき、フラッシュモブでプロポーズしていたカップルだ。
「しんっじられない! あんなにフラッシュモブでプロポーズしないでって言っていたのに!! 私、目立つことが大っ嫌いなのよ!」
「ま、待って、ジェニファー!?」
狼狽える男性。予想外の事態に、室内はフラッシュモブに参加していたウェイターなどを含めて、みな固まっている。
注目されてますます不快になったのか、ジェニファーと呼ばれた女性は、わっと泣き出し、こちらに向かって走って来た。
そのままレストランから出ると思われたが、その身体がアイスローズたちのテーブルにあたる。
「っ、」
一瞬の出来事だった。
反動でアイローズにワイングラスがあたり、掴もうとしたエドガーの手も虚しく空振りしーー真っ赤な液体が真っ白なドレスに、広がっていった。
✳︎✳︎✳︎
(これはまずいわ……)
アイスローズたちは、王城の控室に戻って来ていた。エドガーも使う部屋だから、ごく限られた人しか入れない。
「ひどい、どうしてこんなことに……」
セレスティンは青ざめた顔で、椅子に腰掛けているアイスローズのドレスを見る。
赤ワインのシミは、アイスローズの重なり合ったスカートの裾に広がり、グラデーションを作っていた。
王城の使用人たちが、洗面器を持ち込み一生懸命に染み抜きしてくれているが、到底落ちそうにない。
エドガーは壁際に立って片手を額に当てたまま、悲痛な顔をしていた。
「ファーストダンスまで、あと10分よ」
マージョリーは柱時計を見ながら、急いたように言った。セレスティンもマージョリーも社交界デビュー済のため、今日は舞踏会から参加する。二人とも華やかなカラードレスだ。
アイスローズがこの部屋にバタバタと連れていかれるのを見て、心配して駆けつけてくれたのだ。
周囲の慌ただしさが、却ってアイスローズを冷静にさせていた。
こんな姿では、舞踏会には出られない。
ーーまして、この国の王太子とのファーストダンスなんて尚更。
(フラッシュモブのプロポーズ企画自体には、キランは絡んでいないわよね……)
遠い目をするアイスローズの頭に、先程のカップルの行く末がよぎる。
今、泣いて騒いでも時間が戻らないことはわかっていた。
(ドレスの替えはない、シミは落ちない。でも、ダンスの時間は迫っている)
背中に一筋、嫌な汗が流れる。
アイスローズの頭に、かつての自分のセリフが浮かんだ。
『私にエドガー様とダンスをさせてください。必ずや、どのご令嬢よりも立派なダンスをして、私の想いが本気であったことを証明してみせます。エドガー様は私の、』
『生きる「目標」だったんです』
アンナマリアの言葉が響く。
『エドガー殿下とのファーストダンス、楽しみにしているわよ。ーー勿論、貴方が負けるなんて微塵も思っていないけどね』
そして何より、エドガーの微笑みが浮かんで。
『楽しみにしている』
(ワインを避けられなかったのは、私の落ち度。一人で収集つけられないくせに、無責任にもキランやエドガーを巻き込んでしまった、私の行動が発端。原因は、私。あきらめたくない。私はあきらめたりなんかしない)
だけど。
(……ファーストダンスは、もはや私だけの問題じゃない)
アイスローズは足元を眺めた。堪らず、ぎゅっと目を瞑る。
同時に喉がきゅう、と締め付けられる思いがした。しかし、再びまぶたを開いた時には、「アイスローズ」としてではなく、「公爵令嬢」として心を決めていた。
「セレスティン嬢、お願いします。私の代わりに、エドガー様と踊ってください」
「アイスローズ嬢!?」
セレスティンはじめ、室内にいる者たちは目を見開いた。アイスローズは繰り返した。
「お願いします、セレスティン嬢。無茶なお願いなのはわかっています。でも、もうそれしか……! セレスティン嬢ならダンスの実力も充分すぎるほどですから」
「そ、そんなこと言ったって、駄目よ! だって、いくらなんでもそんなのって……アイスローズ嬢の気持ちはどうなるの? 出来ないわ!」
動揺するセレスティンは、エドガーに視線をやった。エドガーはアイスローズを見た。
その青緑色の視線を受けても、アイスローズの気持ちは変わらない。
「エドガー様、私などが言うまでもないですが、今一番大切なのは『舞踏会の成功』です」
「社交界デビューした令嬢たちは、今後この国を支える者たちです。また、そのバックには、この国の重鎮たちがいる。マスコミや他国の来賓も複数いらっしゃってます。エレミア王国を背負っていくエドガー様に、私のせいで恥はかかせられません。セレスティン嬢に代わっていただくことが、最善かと考えます。ファーストダンスの相手を務められず、申し訳ございません」
アイスローズは一気に言い放った。
「……エドガー殿下、5分前です。そろそろ移動を」
部屋に控えていたジョシュが、ひどく辛そうに告げた。
「私はエドガー様とファーストダンスを踊る約束が出来ただけで、身に余る幸せでした。これ以上の気遣いは不要です。ご準備へ」
「……」
エドガーは返事をしない。眉間に皺をよせ、考えこんでいる。
重い沈黙に居た堪れなくなったのだろう、マージョリーがやけに明るく言った。
「アイスローズ嬢、スカートの裾を切ったら、ドレスとしてはいけるんじゃないかしら?」
「そのスカートは、白薔薇のつぼみをふせたような形に布が重なっているでしょう? 汚れている部分の、布だけを切り取ってしまえばいいのよ。膝下が出るようになるから、ワルツのマナーにはそぐわなくなるけれど、ダンス衣装としては有りだし……会場に入るくらいなら、きっと出来るわ」
それを聞き、硬い表情をしていたエドガーははっ、と目を見開いた。
「ーーマージョリー殿、その発想はなかった」
ほっとしたような表情のマージョリーが次のセリフを言う前に、エドガーはアイスローズへ続けて言った。
「アイスローズ。約束とは、して幸せになるものじゃない。実行するものだ」
「……エドガー殿下、いいこと言ってるぽいですけど、当たり前のこと言っています」
ツッコミを入れるジョシュをスルーし、エドガーは何故かジャケットを脱ぎ、ネクタイを外していく。
「アイスローズは確かにあの時、自信があると言っていたな」
(……え?)
アイスローズが見上げると、エドガーは強気に笑った。それから、信じられないことを言ったのだ。
✳︎✳︎✳︎
19時半。
見渡す限り、夢のような空間が広がっていた。
王城のダンスホールの扉が開き、デビュタントたちが入場する。白いドレスに身を包んだ令嬢たちは、片手にミニブーケを持ち、反対の手はビシッと決めた各々のパートナーに預けている。
美しい行進を、保護者やゲストたちが見守る。ホールへ入った後は、部屋の両脇に向かい合って並び、その中央を名前を呼ばれた来賓(お偉いさん方)が入場するのだ。
そして最後に、ファーストダンスを務める王太子エドガーと、ヴァレンタイン公爵令嬢が入場する。
二人がホール中央へ進むと、その姿を目に捉えた者から順に、ざわめきの波が起こった。
エドガーは手袋にワイシャツ、ウエストコート(ベスト)、ズボンを着用していた。胸にはエレミアン・ローズが一輪。
対するアイスローズは、ロング手袋に艶のある白ドレスを身につけているが、そのボリュームあるスカートから膝下が露出している。足元には、見たことがないくらい輝くガラスの靴を履いていて。
「なっ……エドガー殿下のドレスコードはどうされてしまったの? あれでは、ワルツを踊れないわ」
「令嬢中の令嬢であるヴァレンタイン公爵令嬢も、昼間はあんなに完璧だったのに……」
「おい、明日の一面記事を開けておけ!! 完全無欠の王太子、初のファーストダンスでご乱心、ってか」
どよめきは大きくなるばかり。
すると、それを打ち消すように、オーケストラがアップテンポで奏で始める。
ダンスホールに響くのは、軽快な、思わず身体が踊り出しそうになる曲。
「まさか……!」
アンナマリアは息を呑んだ。
誰が想像しただろうか。
舞踏会のファーストダンスで、王太子が「ワルツ」ではなく「ラテンダンス」を踊るなんて。
しかも、パートナーのアイスローズ共々、キレッキレの、誰もが目を離せないほど見事なダンス。
ここに来る直前、エドガーが言ったセリフは「ダンスの種類を変更しよう」だった。
ちなみに、ラテンダンスとは……簡単に言えば、情熱的な音楽とスピーディーな動きが特徴的なダンス、である。
ダンスホールを縦横無尽に移動する、一糸乱れない激しいステップ。この動きをするなら、ジャケットもロングスカートも、確かに邪魔だろう。
二人揃って時には違う方向を見ているにも関わらず、エドガーとアイスローズの動きは完全にシンクロしている。素早くターンし、ところどころポーズを決めながら静止する瞬間すら、息が合っている。
それに何より、彼らはとてもキラキラして楽しそうで。最初こそ、アイスローズの表情は固かったが、二人が見つめ合う瞬間は、うっとりするほどに親密で。
ぽかん、と固まっていたギャラリーたちも、次第にみるみる笑顔になる。
会場からは、どこからともなく手拍子が湧き上がり、身体をノリノリに揺らすものまでいた。
「なるほど、このダンスをするために、わざわざあの衣装を選ばれたのか!」
「素晴らしいわ!! 今日この場を盛り上げるために、一体どれだけ練習されたのかしら」
「こんなこと……今までの舞踏会の歴史になかったわ。賛否分かれるのでは」
「それでも、少なくとも僕は……! 今日この時に立ち会えて心から良かったと思うよ……!」
曲のラスト、爽やかに汗をかいたエドガーはアイスローズを離し、アイスローズはくるくると回りながら止まって、お辞儀をした。
あまりにも見事なダンスに、割れんばかりの拍手喝采だ。
アイスローズの右手をエドガーが作法通りに持ち上げ、優雅に唇を近づける頃には、会場のボルテージは最高潮に達していた。




